34 ある老騎士の回想・1
幼少のみぎりより、セイラン王国第二王女、ヒータ=トネト=ヴェルニア・セイリアス殿下は病弱であらせられる。
王家かかりつけの医師団によって原因ははっきりしている。呼吸器の大病を患っておられるのだ。
その病状は少しの運動がお体に障るほどで、月日を経ても回復の兆しは見られない。それどころか伏せっている時間は徐々に増えつつあった。これまで小康状態を保っていた肺の病の進行が、殿下の御年が十を過ぎた頃から早まってきている。
御労しい。
そして己の無力が腹立たしい。病に対し、剣と騎士の誓いは余りに無意味であった。
殿下の御命を守れずして、何のための近衛か!
ヴェルニア殿下のご病気は難しいものではあるが、不治というわけでは無い。手立てが残されていないわけでは無いのだ。
だから。
私――王国騎士団飛燕隊、ヴェルニア殿下専属分隊隊長、カシュヴァー=ニル・ルイーツは決断し、自ら総帥閣下に上申した。
ある任務を授けて欲しいと。
◆
「突進が来るぞ! 散開しろ!」
カシュヴァーの指示を受け隊員達が素早く散らばる。
騎士の集団を蹴散らそうとしていた〈陸亜竜〉はすかさず目標を一人に定め直し、改めて突撃を敢行する。
四足歩行の魔物に相応しく、恐るべき突進速度だ。たとえ肉体を魔術で強化しその上から鎧で覆ったとしても直撃を受ければ死は免れまい。迫り来る巨体はちっぽけな人間にとって『死』そのものだ。
だからといって、それを前にして恐怖に竦み、死を待つだけの弱卒はここには一人もいない。
「援護しろぉっ!!」
カシュヴァーが号令をかけるまでも無く、狙われた騎士と周囲の騎士達は既に魔術の準備を終えていた。
まず狙われている一人が《障壁》を目前に展開し、その横や斜め後方に陣取る他の騎士数人が《圧風》を発動させる。
風を何発もぶつけられ亜竜の突進の勢いが僅かに減衰した隙に、狙われていた騎士は《障壁》を置き土産に、足を全力で強化して横っ飛びに退避する。
直前まで引き付けての回避だが、亜竜はそれにさえも反応し進路を曲げようとした。そこで《障壁》にぶち当たるが、構わずに砕きながら魔物は進む。全くもって呆れた突進力だった。
だが風と壁、二重の障害でさすがに目に見えて速度が落ちている。いかに〈陸亜竜〉の突撃といえど、狙われた騎士は余裕をもって回避を成功させた。風を唸らせながら巨体が直前まで彼のいた地点を通り過ぎていく。
〈陸亜竜〉。
このルデスの地が正式名称よりも『亜竜山脈』と通名で呼ばれ恐れられているのは、ここが『亜竜』どもの住み処だからである。そう一括りにされて呼ばれている強大な魔物がこの地には数種類生息しており、その内の一つが今カシュヴァー達が戦っているこの魔物だ。
竜に似て竜でないもの。竜もどき。それが亜竜だ。もっとも本物の竜など半分伝説上の存在であり、実態も生態も全く知られていないものだから、人が竜と聞いて思い浮かべる魔物の姿はむしろこちらが一般的だろう。
〈陸亜竜〉は、ごつごつとした岩のような鱗で覆われた巨大過ぎる蜥蜴のような姿をしている。突進力に優れるが強靭な牙や鉤爪も持っており、そちらも要注意だ。知能もそこまで悪くない上、体表は硬くて攻撃が通りづらい。更には炎まで吐くときている。人間にとって厄介な要素を全て盛り込んだような、うんざりする程優秀な生物だ。
「魔術師、頼む!」
攻撃を避けられ咄嗟に減速した〈陸亜竜〉に、味方の宮廷魔術師三人による魔術攻撃が襲い掛かる。《穿風》が岩の鱗を切り裂き、《火矢》と《火炎》がその傷口ごと焼き炙り、普通のものより大きな《魔弾》が顔に叩き込まれ怯ませる。
戦場で活躍する事を視野に入れて国に召し抱えられる宮廷魔術師という人種は、大抵は火力の高さを『売り』としている。それが十全に生かせない現在の状況をカシュヴァーは少しだけ勿体なく感じた。魔術師達はわざわざ魔術の威力を抑えて戦っている。何度この山脈で魔物と交戦するか分からないので、魔力は出来得る限り温存しなければいけないからだ。
結果、本職の魔術師といえどもその攻撃では決定打に成りえない。
しかしそれで十分だ。魔術の一斉攻撃は、負傷を与え大きく怯ませる事には成功していた。
「総員かかれぇっ!!」
カシュヴァーは叫びを上げながら、いの一番に苦鳴をあげる〈陸亜竜〉へと斬り込んでいく。この好機を逃すわけにいかないのは一目瞭然で、命令されるまでもなく部下達も即座に続く。
〈陸亜竜〉は愚かではない。どの個人が魔術で攻撃してきたか判断するくらいの知能はあると、カシュヴァーは事前の下調べで聞き及んでいる。後方で支援する魔術師を先に片付けよう、程度の思考は難なくこなす。そしてこの巨体を《障壁》などの魔術で物理的に押し留める事は、いかに優れた魔術師でも無理というものだ。
ここで立て直され、魔術師に狙いを定められる事態は絶対に避けなければいけない。はっきり弱点と言えるほど魔術師の機動力は低くないが、それでもやはり近接戦に慣れた騎士には劣る。奴の突進を回避するのは騎士でも援護が無ければ厳しいのだ。亜竜に狙われたが最後、《身体強化》の適性が高くない魔術師の末路は死しか無い。
どれほど血を吐き努力しても、人と強大な魔物の間にある理不尽なまでの能力差は埋まらない。
けれども。だからこそ。
人間は作戦を立て、連携を取り、集団で強敵に立ち向かう。揺るがぬ忠義と誇りが、死の脅威を前にしても冷静な結束を騎士達にもたらす。
勝利の天秤はカシュヴァー達に傾いた。
ここはルデス山脈。別名、亜竜山脈。
「順調でありますねカシュヴァー殿! 冒険者も恐れる亜竜山脈であっても、我々は十分通用しています! かの〈陸亜竜〉相手にも損害を出さずに勝利を掴めました」
「うむ。姫様の『皆で生きて帰れ』というお言葉を、我々が守り通せる可能性も見えてきたかもしれん。油断は努々禁物だが……」
ヴェルニア殿下専属分隊副隊長――つまりはカシュヴァーの副官である女性騎士レイキアが興奮したようにまくし立てるのに、カシュヴァーも同意の頷きを返した。
〈陸亜竜〉を屠ったカシュヴァー達の集団は行軍を再開している。軍と言っても連れたって歩くのは十八名であるが、いずれも精鋭揃いの頼もしき同士達だ。内訳は王族警護を任される飛燕隊隊士十五名と宮廷魔術師三名という構成であった。
ちなみに糧食などを乗せた二台の馬車も同行している。その御者は十八名には含んでいない。
魔物からこの大きな的を守るのは容易ではなく、集団の機動力も大きく削がれる事になるが、ある程度の人数が長旅をする上で馬車は必須だ。
糧食を積むだけなら一台で十分なところを、カシュヴァーは馬車を二台用意させていた。この山を攻略するため事前の下調べで熟練の冒険者から話を聞いて、その人物のアドバイスを聞き入れたからだった。守る対象が二つに増える難しさを呑んででも、準備出来るだけのものを準備しろと彼は語った。でなければ死ぬだろうと。
例えば馬車には糧食の他に数匹の家畜を積んでいる。大型の魔物から逃げ切れないと判断したならこれを囮として放つのだ。
実際に現地で行動してみると、こういった対策の重要性がカシュヴァーにもはっきりと実感できた。魔力の温存はここでは至上命題だ。魔術師は無論の事、騎士も《身体強化》があるからこそまだ善戦できるのであって、魔術無しではここの魔物相手に勝機は万に一つもない。だが魔術に頼り続ける限りいつか必ず魔力は尽きる。魔術に頼らない手段をいくつ用意しているかが、ここでの生存の鍵を握っているのだ。
勿論、ここの魔物相手に勝利できる実力がある事が生存のための最低条件だが。
「〈陸亜竜〉は強敵だが、この山には他にも強敵がまだまだいる。けして気を抜くな」
「はい隊長!」
木々が疎らに生い茂るなだらかな山岳地帯を集団は進んでいる。
亜竜山脈は広大な土地なので、進路には他の選択肢も取れる。もっと木々が深い森のような場所や、岩ばかりが並ぶ足場の悪い道を行くのも可能だ。木が多ければ〈陸亜竜〉の突進力は大いに削がれるし、斜面が続く岩場でも広さが足りず、大型の魔物より小回りの効く人間は有利に戦えるだろう。
そこを行かないのは勿論理由があって、馬車で進みづらいというのもその一つだがそれだけではない。
平野が〈陸亜竜〉にとって有利な地形であるように、他の地形もそこを得意とする厄介な魔物達がこの山脈にはそれぞれ存在しているのだ。
森林地帯では〈群狼〉が、険しい山岳地帯では〈空亜竜〉が。それぞれ頻繁に出没するらしい。どちらも〈陸亜竜〉に比肩し得る恐るべき魔物達だ。いずれともカシュヴァーは戦った事は無いが、凶悪な魔物として名高い存在である。
餌を求めてか山脈内ならどの地域にもこれらの魔物は現れる可能性があるが、やはり自らが得意とする地形に最も多く出没するようだ。経験者の話を聞き、自分達にとっても比較的楽だからと選んだのが〈陸亜竜〉の多いこのルートなのだった。
「竜脈草はまだこの辺りには無いのでしょうか」
レイキアがあちこちの木々の根元に視線を移し変えながら訊いてくる。
「うむ。恐らく探してみても、期待薄だろうな。学者も冒険者も、山脈の奥深くに分け入らないと無いはずだと言っておった。半日ほど北上した辺りから、ようやく稀に見つかるようになると」
レイキアの言う、竜脈草。それを探し出し、良好な状態で持ち帰るのが今回の任務だった。
魔力的な作用で何らかの効果を起こす薬草には様々な種類があるが、効果の強さに比例して人の魔力に対して起こる拒絶反応も強まるのが通常だ。
摘み取ってから長時間安置すれば魔力は散っていき、効果が衰える代わりに拒絶反応も抑えられるので、これを利用して患者の体でも耐えられるようにしてから薬草治療というものは行われる。必然、患者の肉体が副作用に耐えられないほど衰弱していれば、効果の薄い治療しか望めない。
しかし薬草の種類の中には、効果の強さの割に拒絶がそれほど強くない、というものも少数ながら存在している。大抵は希少で市場に出回る数が少ない高級品だ。
竜脈草はその最たるものとして知られている最高クラスの薬草である。
過去セイラン王家でも何度か入手しており、ヴェルニア王女殿下の難病にも大いに効果があると証明されている代物だった。ただ、如何せんこの薬草は貴重過ぎる。そもそも運が良ければ市場に出回るような程度のものではない。最大の問題は、何故かルデス山脈の奥地にしか生えない事であった。
竜脈草がある程度の量あれば、王女殿下の病気は完治できると王家かかりつけの医師団は保証している。
にも関わらずヴェルニア殿下がいつまでも快復せず、それどころか病状が悪化の一途を辿るばかりである理由は、ここ数年ただの一つも竜脈草が国内に出回らないからだった。
セイラン王家は竜脈草があればどこよりも高く買い取ると、国内に触れを出している。ギルドにも依頼を出し、竜脈草を持ち帰った者に高額の報酬を約束している。
しかしそれでも尚、『亜竜山脈』の悪名が勝つ。
一流の冒険者ほどよく知っているものだ。巨万の富よりもずっと、命の方が大切だと。それにルデスに挑める実力ある者達であれば、他にいくらでも仕事はあり、食うには困らない。そして金に目がくらむような二流以下の者達なら、そもそも竜脈草を入手できる可能性は絶無といっていい。
かつてはルデスを攻略しようという気概と実力を兼ね備えた集団も存在したのだが、彼らは竜脈草の入手と引き換えに多くの仲間を失い、高額の報酬を受け取りそのまま引退してしまった。
それ以来、亜竜山脈に挑戦しようという傭兵や冒険者は絶えて久しいのだった。
だからこそ、ヴェルニア王女殿下の近衛騎士であるカシュヴァー達が新たな挑戦者となっている。
◆
亜竜山脈の行軍は苦難の連続だった。
狼でありながら数種類の魔術を使い分け、しかも群れで連携して襲いかかってくる〈群狼〉は、騎士達にとってかなり相性の悪い相手であった。死者を出さずになんとか切り抜けられたものの、そのために大いに魔力を消費させられてしまった。
〈陸亜竜〉の体を二回りほど小さくし、前足の代わりに翼を生やしたような姿の〈空亜竜〉からも二匹同時に強襲を受けた。〈陸亜竜〉のような一点突破の突進力は無いし炎も吐かないが、その翼でもって空を自在に飛ぶかなり厄介な魔物だ。剣だけで撃墜するのは難しく、本来であれば離れた位置を攻撃出来る魔術を連発せねば勝てないだろう。魔力の消耗を抑えたかったカシュヴァー達は用意していた弓矢でひたすらに応戦し、時間はかかったがなんとか逃げ帰らせるのに成功した。
〈群狼〉や〈空亜竜〉ほどの強敵では無かったが、それ以外の魔物とも幾度も遭遇を重ねながら、カシュヴァー達は山脈の奥に向かい北上を続ける。
その日は竜脈草を見つけるに至らず、野営を行った。
それは賭けとも言える判断だった。かつてこの山脈に挑戦した者達は、半数ほどはここで夜を明かすのを避けたという。半日北上して竜脈草を見つけられなければ、急いで引き返し麓に戻った方が手間はかかるが安全なのだ。誰だってこの山脈の凶悪な魔物と、視界が限られる夜に戦いたくはない。
しかしこの地で無事に夜を明かす事が出来れば、探索に割ける時間もぐっと伸び、より北を目指せる。竜脈草を発見出来る確率は大幅に上がるのだ。
カシュヴァー達は賭けに勝った。魔物の襲撃はあったが、夜間であってもなんとか撃退できる程度のたいした敵ではなく。そうして無事に、探索一日目を終える事が出来たのだった。
探索二日目。
朝も早くから歩き出したカシュヴァー達はすぐにまた魔物と遭遇したのだが、危なげなくそれも倒し。探索は実に順調に進んでいた。
「……厄介な魔物と遭遇する頻度は、話で聞いていた程ではないようだな」
「この調子だと山脈を突っ切って、死の谷に出てしまうかもしれませんね!」
それはさすがに無いだろうが、調子のいい副隊長の発言に思わずカシュヴァーも苦笑する。
もちろん油断はしていないつもりだが、昨日よりは幾分か気を楽にしていた。
過酷な山歩きを続け、魔物とは連続で戦い、当然疲労は溜まっている。昨夜遅くにも魔物の襲撃があり、安眠など望めない環境、交代での見張りの役目もあって睡眠も十分には取れていない。〈群狼〉に消費させられた魔力も回復しきってはいない。
それでもこうして十八名、全員が生存して二日目を迎える事が出来た。かの悪名高き亜竜山脈でだ。その事実が全員の心を軽くしているのだと、カシュヴァーは騎士達の表情から見て取った。
「このまま〈竜骨ガシラ〉とは遭遇せず、任務を達成出来ればいいのだが……」
カシュヴァーのその呟きは、不安というよりは願望を口にしたものだ。それはこの山脈の食物連鎖の頂点に立つ魔物の名だった。
「やはりカシュヴァー殿は、我々でも〈竜骨ガシラ〉を相手取るのは厳しいと思われますか?」
「うむ。厳しいだろうと予想している。私も話でしか聞いた事の無い魔物だが……。遭遇した冒険者が皆、〈陸亜竜〉よりは間違いなく強いと揃って断言しているのだ。伝え聞く数々の逸話も、そう誇張されたものではあるまいよ」
いわく、並の魔術師では撃ち抜く事も出来ない《障壁》を瞬時に展開できる。
いわく、口から砲弾のようなものを発射したり、自身が砲弾となって同じ速度で飛ぶ事が出来る。
それでいて〈陸亜竜〉をも超える巨体というから、まず人間が勝てるような存在でない、というのが冒険者達の共通した見解だった。
大きな犠牲を出しつつも勝利したという話は無いわけではないが、死傷者を出さずに勝利したという話は全く聞かない。〈竜骨ガシラ〉と一度でも遭遇してしまえば、二度とルデスの地を踏む気は失せるだろうとカシュヴァーはある冒険者に確信めいた口調で予言された。
だがそれでも。犠牲を出しても、例え自分が死ぬ事になろうとも。
カシュヴァーに諦めるつもりは毛頭無かった。敬愛する王女殿下の命と未来がかかっているのだから。
同行する騎士達、宮廷魔術師達も気持ちは同じだ。死地を共にする覚悟がある者だけを選抜し、連れてきている。だから今更、亜竜の王とも呼ばれる〈竜骨ガシラ〉に怖気づく者はこの場にはいないだろう。
それでも斥候として一団の少し前を進んでいた騎士の一人がこう叫びを上げると、痺れるような緊張感がカシュヴァー達の間を駆け巡った。
「正面に魔物! 『竜骨』です!」
王国騎士団飛燕隊と、山脈の覇者である魔物が相見えた瞬間であった。