31 vsディーン=グレイル
どうして二人が戦っているのか、いまだに満月亭の少女リュンには分からなかった。
ただ、物凄い戦いだという事は分かる。速過ぎて何をやっているか全然見えないのである。
リュンを助けに来てくれたあの少年は、以前店でこういった事には慣れていると言っていた。入学したての騎士候補にしては、と頭に付くものだと思っていたリュンは先程から驚愕させられっぱなしだ。
リュンを助けに来る途中、五十人ほど倒してきたとか何でもない事のように言う。木の格子はもちろん、鉄格子すら素手で破壊する。これほどに常識外れな存在を、リュンは今まで生きてきて他に知らない。
そして彼とまともにやり合えるという事は、兜の人も非常識な強さなのだろう。恐る恐る、リュンは自分を誘拐した組織のメンバー二人の様子を窺う。バートとかオルタムとか呼ばれていた男達は強張った表情で二人の戦いを眺めるだけで、こちらに注意を払う様子など全く無い。あの二人が戦っている隙にリュンを連れて逃げ出そうとか、そういった思惑は無さそうだ。
すごい戦いだと分かってもどれくらいすごい戦いかは分からない素人だからこそ、この場においてはリュンが最も冷静だ。驚きはしても他の人達ほどでは無い。リュンはこそこそと移動し、いまだ囚われの身であるミオンの傍にしゃがみこむ。
「こうして面と向かって話すのは初めてね」
「は、はい。……あの」
今朝買い出しに行った帰りでリュンはここに連れ去られてきた。それから今まで同じ境遇だった彼女とは何度も言葉を交わしている。壁が二つの牢屋を隔てていたので、今までは会話は声だけが頼りだった。
「あの兜の人ってあなたの知り合いじゃないの? 戦うのやめるように言ってもらえない?」
「いえ、その、知らない人です……。助けに来てくれるような知り合いも元々いませんし……」
寂しい答えをリュンに返しつつも、ミオンの関心のほとんどは助けに来てくれた少年カミヤと兜男の戦いに向いているようだった。そちらから全く視線を逸らさない。
「うーん。なんでこんな事になってるのか、よく分からないわね。今は話を聞けそうな感じじゃないし。でも一応、今のうちにどうにかあなたの拘束を解いておいたほうがいいのかも……。無理かな」
「あの。それよりも、なんとかしてあの人を止められませんか!?」
言い募る獣人の少女の態度はどこか必死だった。
「私も出来れば止めたいけど……。刃物を抜いてるわけでもないし、気が済むまでやらせておけばいいんじゃないの?」
「だ、駄目です!」
迷いなく断言したミオンは、よくよく見ればその顔も青ざめていた。相当な焦りようだ。
「あの、その。さっきからあの人の魔力が……! は、早く止めないと!」
「魔力? あの人ってどっち?」
「あのカミヤって名乗ってた黒い髪の人です! 変です、こんなの。おかしい……!」
台詞の後半は独り言のように呟いて、リュンには見えない何かを否定するようにミオンは首を横に振っている。彼女の言うおかしい魔力とやらをリュンは全く感じ取れないけど、軽く受け流すのは憚られる真剣さと切実さだった。
◆
そもそも、どうしてこんな無意味な戦いに興じているのか。
当事者である二人、神谷鋼と、兜の男――ディーン=グレイルは、無意識の底でともに同じ疑問を抱いていた。
なまじ、どちらも《身体強化》が常人より圧倒的に得意なだけに、主導権を己が握っていると勘違いしていた事が原因であろう。怪我をさせず穏便に相手を無力化し、発生する諸々の面倒は自分一人で上手く処理する自信があったからこそ、相手に手を出すまでの躊躇が少なかった。
今二人は、軽率な判断で始めてしまったこの戦闘によって、己の自惚れと世界の広さを思い知らされていた。
――強い。
ディーンは戦いにほぼ全ての集中を注ぎながらも、思考の片隅では戦慄を抱いていた。
己の歳の半分もいかないような少年に対し攻めきれない。騎士になって十五年ほど経つが、いまだかつて無い経験だ。
シシドが手を焼くのも当然と思えた。いくら生徒といえどここまでの強さがあれば、教師に止められても構わず無茶をするだろうし、実際に大抵の状況をなんとかしてしまえるはずだ。
――これほどの逸材が、騎士候補の学生に埋もれているとは。
こうして身をもって味わわなければ、ディーンは信じなかっただろう。己と互角の十代の少年の存在を。ディーンは王国騎士団の一隊『牙狼隊』の副隊長であり、これでも己の実力にそれなりの自負を持っている。相応の実力を認められた者だけが就ける責任ある立場だ。本来なら騎士にもなっていない候補生に苦戦するなど、絶対にあってはいけない。
だがこうして殴り合っていると、素直な気持ちでそれを認める事が出来た。
この少年の強さは本物だ、と。
懐いたのは、将来が楽しみな才能溢れる若者に対する期待や感嘆ではなく。同等の戦士に対する敬意のようなものだ。
ディーンは相手はまだ子供だという侮りを完全に捨てた。ほとんど手加減などしていたつもりは無いが、更に己の挙動から甘さを無くしていく。もちろん少年に対して敵意も殺意も無いから、己の剣を抜きはしないが。戦意を漲らせて、余計な思考を削ぎ落としていく。
強化魔術の純粋な性能では僅かに負けている。
戦闘技術はこちらが多少勝っている。
そして実戦経験に関しては、恐らく同程度。……生きてきた年数の差を鑑みれば、ぞっとする推測だが。
以上の分析による結論としては、互いの実力はほぼ拮抗していると言えた。手加減なしとは言っても、ディーンはいまだ手段を選ばないほどの全力を出しているわけでも無いのだが、この少年もまだ底を見せてはいないと直感は告げていた。
◆
調子に乗っていた事を、認めねばなるまい。
遠慮が無くなってきた兜男の拳を咄嗟に受け止め、腕を痺れさせながら鋼は思う。
こちらの世界にやって来てから、ろくな強化の使い手を見ないものだから勘違いしつつあった。死の谷やルデスで魔物相手に生き残ってきた鋼は、人間相手であればもはやほとんど敵なしなのかも知れないと。
思い上がりもいいところだ。
――これが、戦闘を本職にしている人間か。
兜男は相当に強かった。やはり所詮、闇傭兵ギルドの兵隊達は多少凶悪なチンピラ程度でしかなかったと気付かされる。本来戦闘のプロとはこのような者を言うのだろう。
「ぐっ!」
戦うほどに兜男の動きは鋭さを増してきている。鋼も相手の行動パターンや思考の傾向を学習し、戦いの流れを支配しようとしているが成果は芳しくなかった。相手もまたこちらの動きを学習し、対応を変えてきている。それに兜男は簡単に次を読ませるほど単純な戦士ではない。
少し、押されつつあった。
鋼の右手にはいまだに長剣が鞘ごと握られている。不用意にこれで殴りかかれば一撃で壊される恐れがあり、徒手空拳の戦闘において非常に邪魔なので正直なところ、捨てたいのだ。さりとて兜男は腰に剣を差していていつでも抜ける状態なので、相手がいざ抜いた時対応できるよう捨てるわけにもいかなかった。
その不利分で、鋼はじわじわ追い詰められつつある。どうにかして巻き返さないとこのままではジリ貧だ。だが押されている状況から起死回生の一手を放つのは、いかにも分かりやすい予測しやすい選択肢であり、この相手にそれを仕掛けるのはリスキーに過ぎる。
それでも、分の悪い勝負だろうと打って出るしか無い。
「っ!」
短く息を吐き、鞘に入った状態の長剣を兜男に突き入れる。
勢いの乗った一点突破の攻撃は、いかに相手が強化していようとくらえば悶絶は必至。だからこそ全身全霊の速度をそこに乗せた。
ぎいん、と。鉄でもぶっ叩いたような鈍い音を耳にして、鋼は失敗を悟った。
突きが兜男を直撃する寸前。上から思いっきり落とされた拳骨が、長剣の軌道を曲げたのだ。見切られていた、という事だろう。
誰かから奪い、一度も抜かなかった長剣は今の一撃で微妙に斜めに曲がってしまった。
「うむ。これで抜けなくなったな。……それにしても凄まじい速度だった」
即座の反撃を警戒し下がった鋼を追いはせず、兜男は仕切り直すようにそう声をかけてくる。
鋼は無視した。油断を誘うための企みかも知れない。会話に乗る利点も特に無い。体の各部に不調は無いか確かめ、兜男の筋肉の動き出す気配を注意して観察し、奇襲を警戒する。
「……何か、最初と雰囲気が違うな?」
指摘された事に対する自覚はある。だが、だからといって警戒を解く理由にはなりはしなかった。
こちらを観察するような僅かな間の後。
兜男が腰の剣に手をかけた。
……後になって、冷静に考えてみれば。
相手からはこれまで一度も、敵意や殺意の類は感じなかった。だからその動きは剣を抜くためでは無く、恐らく腰から外そうとしたのだ。こちらの武器が無効化された以上、相手も武器を所持し続ける必要は無かった。鋼の警戒を少しでも解こうとしての動きだったのだ。
だがそうと分かったのも、後になっての話だ。この時の鋼には、彼が己の武器を抜こうとしているように見えた。
こちらの武器が抜けなくなったのを見て、今が好機と判断し止めを差しに来ようとする敵が鋼の目には映っていた。素手であれだけ強い男が、剣を手に襲い掛かってくる事がどれだけ脅威か。
長らく忘れていた、懐かしき感触。
命の危機。
それは鋼の意識の表層の、薄っぺらい思惑を削ぎ落とす。戦うにしても武器を使わず、なるべく穏便に済まそうという打算。同じ部屋にいるバートやリュン達が、何かやらかさないかという心配。切り札を人に見せるにあたっての躊躇。
必要のない余計なものが鋼から剥がれ落ちていく。この『今』が、命を懸けた敵との駆け引き、ただそれだけが、この場における世界の全てであり、不要なものを省いた鋼に残されたものだった。
入りかけていたスイッチが入り、意識が切り替わる。
致命的に足りていなかった危機感が補われ、己の優先順位から一位以外のものが全て弾かれる。
死の谷で鋼に芽生えた、人ではなく獣としての自らの意識がこの瞬間目を覚ましたのだった。
――思考する。
兜の男は強敵であり、剣を抜かせてしまえば更に厄介な敵となるのは目に見えている。剣を抜かれても本気になった鋼が遅れを取るとは限らないが、実際に戦ってみて試そうという気にはならない。
最も確実に相手に勝つ方法とは、相手に何もさせない事だ。
意識の切り替えと、勝利のための思考。ここまででまだ一秒の十分の一ほどの時間しか経っていなかった。兜男も腰の剣に手をかけただけでまだ抜いてはいない。だから思考は、剣を抜く前に倒すという結論を出した。
鋼は《身体強化》以外にも、一つだけ大いに得意な魔術的技術がある。
魔力の塊をただ放出する、というニールによると『魔術じゃない』らしい攻撃手段だ。魔力を固形化し弾丸のように放つ《魔弾》という魔術に似ているが、どうやら違うらしい。本来のプロセスを踏まないとても原始的なスキルであり、それを魔術と呼称するのは魔術師として抵抗があるそうだ。
確かに鋼自身も、それを弾丸のようには感じない。手が空いていなかったり敵に届かないといった状況で、仕方ないので魔力で殴りつけるという感覚だ。《身体強化》に物を言わし素手で殴りつける方が早いのなら使う意味が無いので、この魔力放出は威力よりも速度を優先して鍛え上げた。
無意識だったが、恐らくは速度のために術式を色々省略したのだろう。結果、形としては正しい魔術では無くなったようだが、これは鋼の切り札と言えるまでに実用的な攻撃手段となった。
それを、放つ。
兜男は避けられなかった。
「ぐぅっ!?」
魔力放出は鋼が全力で殴りかかるのと同程度の速度である。
ただし、魔術に本来ある発動までの時間がほぼ無く、鋼自身にも予備動作が無く、腕の長さの10~20倍ほどの射程がある。
避けられはしなかったものの、さすが兜男は両手でのガードは間に合った。しかし短く呻いた事からも分かる通り、速度優先のこの魔力のパンチは速度が乗っているので威力もそこまで控えめではない。全力で手で殴りつけるより、僅かにマシな程度だ。強化を使っていない相手であればこれだけで即死する可能性が高い、そういう攻撃だった。
すかさず放った二発目を受け止め切れず、兜男は「かはっ」と息を吐き出しながら後方の壁へと吹っ飛んだ。
ここで一旦攻撃をやめ、様子を見るほど鋼は甘くも愚かでもない。敵が無防備になっている好機を逃すような奴は、あらゆる能力において人間より強靭な魔物相手に勝利する事など出来はしない。
壁にぶつかりダメージを負う男に容赦せず三発目。魔力パンチは攻撃範囲が最低でも三十センチ以上あり、人の拳より相当に巨大なので避けるのは困難だ。兜男ももはや避けようとはせず、攻撃をくらった直後の体に鞭打って、強化した己の拳で迎え撃った。
衝撃がぶつかり合い、ぱあんと快音が鳴った。防がれたのを見て取った鋼はすぐに次の攻撃のために魔力を練り上げ始める。発動までに少し時間をかける代わりに、威力を高めるくらい造作も無い。魔力放出はかなりの応用が利く能力だ。
「な、めるなぁっ!!」
一瞬の隙を兜男も見逃さず、これまで使わなかった《身体強化》以外の魔術を発動させる。
魔法陣が正面に展開し赤く発光する。どんな魔術であろうと構わずに発動前に叩き潰す気でいた鋼は、驚異的な展開速度に眉をひそめた。正規の魔術でない鋼の魔力放出に比肩し得るとは、恐らくは相手の魔術行使も相当に常識外れだ。本格的に魔術に詳しいわけでない鋼にはどういった仕組みなのか推測も出来ない。
赤い魔法陣が発動し、赤い色の《障壁》らしき魔術が兜男を守るように現れた。
本来《障壁》とは魔術戦における最も汎用的に使われている防御のための魔術で、半透明のガラスのような見た目の壁を盾として設置するものだ。ちなみにその材質は《魔弾》と同じく魔力を固形化させたものであり、実際はガラスのように脆いわけではない。
兜男が発動させたものは普通の《障壁》とは違い、炎を混ぜ込んで水晶の中に閉じ込めたかのような赤い色合いの半透明の壁だった。そして見る者に威圧感を与えるほどに分厚かった。見た事の無い魔術であり、《障壁》とは別物と考えた方がよさそうだ。
鋼は念のために更に魔力を上乗せし、先端を尖らせた形状にして四発目となる魔力放出を行う。
ほとんど同時に兜男も新たな魔法陣を起動し、《圧風》らしきその術式でもって赤い障壁をこちらに撃ち出して来た。
互いの奥の手が二人の間で激突する。
「「なっ!?」」
驚愕の声は重なった。
鋼の魔力の杭は赤い障壁を砕いた。が、貫通はせずにその場でひしゃげ四散する。固形化が解かれて魔素となって空気中に散ったのだ。つまり結果は相殺だった。
鋼は貫通できず攻撃を止められた事に、相手は恐らくただの一撃で障壁が壊された事に、それぞれ驚き一瞬の隙を作った。それだけ両者にとって絶対の自信を持つ切り札だったのだ。
互いが動きを止めただけなら、それが戦局に影響を及ぼしはしなかっただろう。
だが今、鋼がほんの一瞬とはいえ驚愕の声を上げている間に、赤い障壁の破片が降り注ぎ目前まで迫っていた。
大きく退いて全てを完全に避けるタイミングは逸している。鋼の勝負勘は微かな警鐘を鳴らしたが、向かってくる大きな破片だけを手で振り払い、小さな破片は無視すると決める。
「っ!?」
触れた拳が焼かれる痛みで、赤い障壁の欠片が高温を宿しているのだと知った。
それでもただの火傷程度で、戦闘に支障が出るような負傷ではない。構わず問題のある大きさの破片だけを迎撃すると、制服を焦がす小さな破片を振り落とし鋼は一歩下がった。仕返しよりも未知の魔術への警戒が勝った。相殺したかに思えたが、こんな仕掛けが施されているとは予想外だ。
ほんの一瞬とはいえ、驚きから鋼が硬直してしまったのは未熟であり不覚だった。あとほんの少し余裕があれば、素手を使わずとも再度の魔術放出で破片を蹴散らし、ついでに敵を攻撃出来る好機だったのに。
獣の意識は思考する。
――まだ、甘い。
思わず動きを止めてしまったのは、まだ鋼の意識全てが戦闘本能に支配されていない事を意味している。これでは二年前の領域には程遠い。
自身の内にある魔力がうねりを上げる。
ならば、もっと近づけばいい。
「駄目ですコウっ!!」
戦友の少女の叫びに鋼ははっとなった。
横から飛び込んで来た馴染みの少女に気付けば抱き締められていた。
たとえ理性の全てを失った獣に成り下がろうとも、彼女を敵だと間違える事はあり得ない。戦闘本能はあらゆる他者を警戒するが、共に戦った戦友達はその例外だ。触れた場所から伝わってくる心地よい体温と魔力は、絶対の味方の存在を強く感じさせ、今の状態の鋼であっても安らいだ気持ちにさせた。
「ル、ウ……」
「駄目です。あなたに傷を負わせたあの相手にやり返したい気持ちは、よーく分かります。だから、私が代わりに戦いますから。これ以上戦わないで下さい。この部屋にいる全員を殺してしまいます」
燻っていた殺意や敵意が少しずつ萎む。それでも戦いで高揚していた精神は、容易に落ち着いてはくれないが。ある程度の理性と冷静さを、鋼は取り戻す事が出来た。
「いや、いい……。成り行きで戦いはしたが、多分、その男は敵じゃない……」
今の今まで敵と認識し戦っていた相手をそう評するのに、少しだけ抵抗を感じた。本能に引きずられた影響はいまだ色濃い。それを見て取った凛は気遣わしげな表情をした後、鋼から体は離さずに首を巡らせて兜男の方を向いた。
「……事情は知りませんし、どんな事情であっても今は聞き入れる気はありません。この場から立ち去って頂けますか?」
やや硬質で高圧的な物言いだ。彼女もまた、鋼と本気の戦闘を行っていた男に対する敵意を抑え込んでいるのだろう。
今度は完全に剣を抜く気でいたような、腰に手をかけた体勢で止まっていた兜男は考え込むように沈黙を返した。拒否の意思表示ではなく迷っているのだと雰囲気からなんとなく察せられた。
「それとも、次は私と戦ってみますか?」
問いかけと同時。
凛の正面、上空、周囲にある空間に、幾つもの光が生み出される。複数の魔術を同時に展開させ即時待機、それを短時間で数回連続で行う事で、一秒程度の時間で二十もの魔法陣が発生したのだ。
「この方を苦戦させるような相手に、私も手加減は出来ませんが」
多少魔術を学んだような者が無理やり複数展開したような、小さな規模のしょぼくれた魔法陣では無い。光の強さと陣の大きさを見れば、それぞれが単発で放つのに問題ない威力を備えているのは明白だった。
凛はこちらに体を密着させたままなので、鋼も魔法陣に囲まれた中央から光の海と化した室内を眺める事が出来たが、壮観の一言に尽きる。
彼女は戦友の中でも最も魔術に優れた少女だ。その圧倒的な才能の片鱗を目の当たりにし、兜男は息を呑んだようだった。腰にかけた手を離し、戦意を失った事を示す。
「………………大人しく、去るとしよう」
「はい。それではお帰り下さい」
顔も知らないこの男が、兜の奥でため息をついたのが鋼には見えたような気がした。
「全く、今日はなんて日だ……」
こちらを刺激しないように、慎重な足取りで兜男は出口へと歩き出す。やはりあちらもかなり消耗していたのか、最初見た時と比べて精彩を欠いた動きに見えた。
「……最後にこれだけはもう一度確認しておくぞ。お前達は確かに、人質を救出しに来たのだな? 俺が何も関わらずとも、人質は元いた場所に無事に帰されるのだな?」
「ああ、約束する。この組織とも話はつけたから、今後の安全も保障する」
「ならば、いい」
そんなやり取りを経て、兜男は部屋から出て行く。視界から消える直前、鋼は苦笑と共に謝っておいた。
「悪いな、正義の味方の出番を奪っちまった」
「ふん」
鼻を鳴らし、こちらは振り返らずに軽く手を挙げ、今度こそ名も知らぬ男は立ち去った。
待機状態の魔法陣が解除され、室内は通常の状態へと戻る。
しばらくは誰も何も言わなかった。それぞれが把握している情報に違いはあれども、これでようやく一段落ついたというのがこの場の全員に共通する認識であるようだ。張り詰めていた緊張が解けて、気の抜けたような空気が訪れる。
「……ルウ?」
こちらに抱きついたまま弛緩していた凛に、鋼は気まずげに呼びかける。
彼女の体型はなんというか人よりも凹凸が激しかったりするので、制服越しでも分かる自己主張の強い部分が当たっているし、そうでなくとも異性と密着したままの状態は色々と気恥ずかしい。脅威が去った事でようやく、この現状に対する自覚が生まれていた。
対して凛はまだ自覚が無いようで、きょとんとした顔で呼びかけた鋼を見上げる。
「……っ!? す、すすすすいません!」
それがかなりの至近距離である事に気付き、今の状態にもようやく思い当たったらしい。ぼっと火が出たかのように顔を真っ赤にした凛が、慌てて鋼から離れた。
室内の他の全員が、なんだか白い目をこちらに向けている気がする。
なんともまあ、締まらない最後になってしまったが。とにかくこれで、面倒な問題は粗方片付いたと思いたい。一つ息をつき気持ちを切り替え、鋼はミオンの拘束具を解除しようと再び壊れた牢へと足を向ける。
かくして、闇ギルドと満月亭にまつわる一連の事件は幕を下ろしたのだった。