26 『死の谷』からの生還者
かつて異世界のどこに落ちたか省吾に訊かれたのは、確か入学式の日だった。
そしてあまり正直に言いたい場所でも無かったので、少し鋼は嘘をついた。
それにまあ、落ちた場所は違ったがルデス山脈で半年過ごしたのもまた、事実なのだ。
見知った、共に戦った事もある顔に傷跡がある男が呆然とこちらを見ている。「バートさん、知り合いですか」と周りの男達に問いかけられているあたり、この集団のリーダーみたいなものらしい。
「信じ、られん……。あの状況から、生き延びたのか」
幽霊にでも遭遇したようなバートの反応に鋼は苦笑する。最後に別れた時は、そのまま死んだと思われていても不思議でない状況だった。もう二年と半年ほど前の事だ。
「まあな。さすがにあの時は死ぬだろうなと思ったが、なんとか切り抜けたよ」
こいつらのおかげで、と言い足しながら日向と凛を視線で示す。もちろん二人もバートとは顔見知りだ。死の谷とか呼ばれてるらしいあの地獄で、鋼達は同じ境遇の遭難者達に拾われた。バートはその一員だ。最後の方まで生き残っていた貴重な一人でもある。
しかし、まあ。鋼個人としては、それほどバートに対しては悪感情を抱いていないものの。鋼の戦友達と、彼の折り合いは悪い。
「お久しぶりですね、バートさん」
手の中の魔法陣は待機させたままで、にこりと笑って凛が声をかける。
「今では盗賊崩れのような犯罪者達の、兄貴分ですか。出世したじゃないですか。下劣で恥知らずなあなたには、よくお似合いの立場だと思いますよ?」
飛び出した毒舌に、マルに有坂、省吾がかなり驚いた顔をしていた。鋼はため息をつく。バートの周りにいた男達も、これにはさすがに逆上したようだ。
「兄貴、知り合いか知りませんが容赦する必要ないっすよね」
「もう何十人もやられてるって話だろ! 聞くまでもねえ!」
怒りを見せるでもなくいまだ煮え切らない態度のバートを差し置いて、部下らしい男達は魔力を活性化させた。そういえば至近で魔力活性化の気配を感じたので、凛に壁ごと吹き飛ばして倒してもらったのだが。既に一人この部屋にいた奴がやられているのもあってか、男達は完全にやる気になっている。
「俺らに喧嘩売ってただで済むと思うなよっ!」
《身体強化》の魔力光で全身を覆った男が一人、叫びながら飛び掛かってくる。これまで見た敵の誰よりも速い。地球で言えばトップクラスの陸上選手の、全力疾走に匹敵するだろう。さっきまで倒しまくっていた男達とは明らかに別格だ。その後ろに他の男が何人か続く。
凛がすかさず《圧風》を放つが、男達は強化にものを言わせた脚力で左右に散らばり避けてしまう。凛は焦らず、右に避けた最初の男にすぐさま手を向け直した。その手に依然輝く魔法陣を目にして、男の目が驚愕に見開かれる。
一度魔術が発動すれば、魔法陣は一旦消滅すると思い込んでいたのだろう。その予測と知識は正しいものだが、男は前提を間違っている。凛の手に待機している魔法陣は元から一つではないのだ。
一つの魔法陣に見えているだけであって、実態は違う。複数出現しているべき魔法陣の座標を、全て同じ位置にしているだけだ。凛は今も《圧風》の魔術を、複数同時にその手に宿している。
多重魔法陣。そう呼ばれる技術だった。
「ぐはっ」
二発目の《圧風》を避けきれず、くらった男がその場に倒れた。半端に強化した体で踏ん張ろうとしたものだから、風のダメージ全てをその体で受ける羽目になったのだろう。強化しているのだから、大人しく吹き飛んでおいたほうが衝撃が逃げて助かっただろうに。
隙ありとばかりに左から二人目の長剣を構えた男が凛に襲い掛かる。近距離戦は苦手と踏んでいたのだろう、油断しきっていた。逆に凛に一瞬で肉薄され、その顔面を手で掴まれる。
アイアンクローの要領で持ち上げられた哀れな男が、続いて凛の前に現れた三人目の敵に武器として振り下ろされた。唖然とした表情をしながら三人目が腕を交差させてそれを受け止めるも、即座に横合いから放たれた日向の蹴りはどうする事も出来ず。呻き声と骨が折れる音を響かせながら、三人目は床に沈む。
凛が片手で持ち上げている二人目を、警戒して止まった四人目にぶん投げて《圧風》で加速させる。四人目は体勢を低くして衝突しながらも受け流すが、二人目が持っていた長剣を凛がちゃっかり奪っていた事には気付いていなかったようだ。《加護》で強化されている膂力で、凛は瞬時にそれを投擲していた。
肩に長剣が突き刺さり、悲鳴を上げて四人目は苦痛にへたり込む。先陣として襲い掛かってきた四人はそれで一旦、片付いた。
――結局、ほとんどを凛一人に任せた形となってしまった。
「わりいな、ルウ。お前にばっか負担かけて」
「いえ。気になさらないで下さい。負担だなんて思っていません」
心からそう思ってくれていると分かる表情で振り向いた凛がそう言ってくれるが、女にばかり戦わしている男という構図には違いない。鋼としてもばつが悪い思いだが、それぞれの特性を考えればこの配置が妥当なのだった。
四人が容易く無力化されたのを目にして他のバートの取り巻き達が二の足を踏む中、一人だけ誰もいない方の壁へと素早く駆け寄る男がいた。この部屋に元からあった物を集めたらしい一画があって、目当てはそれだ。男は一番大きい木箱に飛びつき《身体強化》で持ち上げた。
「ならその女は後回しだ!」
全力でそれを、鋼目掛けてぶん投げる。
恐らくは凛がこちらの中で最も強いと思い込んだ男が、目標を切り替えたのだ。
くるくると回転しながら、四角い木箱が走る車の勢いで迫る。その威圧に鋼の隣で片平が身をすくませた。もちろん鋼はいざとなれば彼女を守るつもりだったが、やはりその必要は無く。ぴたりと木箱が、空中に静止する。
既に待機させていた《圧風》を使い切っていた凛が、かざした手に新たな魔法陣を発生させている。凛の横を通り過ぎようとした木箱がたったそれだけで空中に留められているのだ。以前《火矢》を風圧で握りつぶした光景が思い出される。
「――《射出》」
木箱を投げた男に手を向け、凛が小さく呟いた。それは最近、早朝での鋼や日向との魔術トレーニングで、凛が編み出して練習している術式の名だった。
「っ!」
筒状に展開した《圧風》で物を器用にも空中に固定し、後ろから更なる《圧風》で射出する。
砲弾並みの速度で大きな箱が一息に男に迫った。危機を感じ取ったか投げた男が焦った表情で既に回避行動に移っていたが、攻撃が速過ぎてほんの少し間に合わない。箱は男の片腕を掠め、背後の壁に当たって粉々に粉砕された。
「あ、ああっ! ぐ、お、痛えよぉ……っ!」
中身の酒瓶も砕けて壁と床がアルコール浸しになる中、のたうち回る男の声を皆が耳にする。
バートや省吾達の呆然とした視線の先には、掠めただけでズタズタに引き裂かれ、無残に折れ曲がった彼の腕がある。拳銃の原理を風で再現した凛のその術式は、火力に乏しいと言われる風系魔術にしては隔絶した攻撃力を備えているのだ。
「――こちらも、警告しておきましょう」
苛立ちを抑えたような淡々とした声で、凛は半分に減った男達を睥睨する。
「この方に手を出して、ただで済むと思わない事です」
その宣告と気迫に、室内がしんと静まり返る。
――そこは俺だけじゃなく、私達にと言っておくべき場面だと思うのだが。
ちらりとそう考えた鋼だが、この場でわざわざ口に出す事でもないかと諦める。この凛という少女は、どこか鋼を戦わせない事を己の使命としている節があったりする、かなり過保護な奴なのだ。
魔力容量に余裕があり魔術を乱発できる彼女と違い、確かに鋼はあまり魔力を消費する行動は取れない。それにそもそも戦闘における手札も少ないから、鋼が前に出て敵の攻撃をいなす場合、魔力消費の激しい力業に頼る事が多くなってしまう。
対応力の高い凛がなるべく前に出て、鋼の魔力を温存させようと考えるのは無理からぬ事なのだ。それで鋼も強くは言えず、基本的に彼女に任せる事が多くなる。情けない限りだが。
「……少し、やり過ぎではないのか?」
沈黙を恐れる事なく、あるいは空気を読まず、ひどい状態になった男の腕を見てマルが口を開いた。
凛はそちらに視線を向け、物分かりの悪い生徒に根気良く教える教師のような表情で、木箱の残骸を指差した。
「あの残骸をよく見て下さい。あんな重くて割れ物が詰まった、危ない箱だったんですよ? それを人に投げつけるなんて、信じられません。神経を疑います。下手すれば命に関わる大怪我ですよ。あまりにひどいと思いませんか?」
倍以上の速度でぶつけ返そうとした奴の台詞としてこれは許されていいのだろうか。
「む? その理屈だと一番ひどいのは――むがっ」
言いかけたマルの口を省吾が慌てて塞いだ。ファインプレーだった。
「だからやり過ぎだとか、可哀そうだとか、この人に対して感じる必要はありません。殺人未遂なんですよ?」
この場合凛だって殺人未遂だが、先に手を出してきたのが相手だというのはかなり重要なポイントとなる。彼女が後々罪に問われたりする可能性はほぼ無いといっていい。殺意ある攻撃に対してのみ、殺意ある攻撃で反撃してよいと予め鋼も彼女達に言い含めてある。
「……相変わらずの忠犬ぶりだな」
悪びれない凛に対し、事態を静観していたバートがようやく口を開いた。
◆
忠犬。
カミヤの前に立つ二人の少女をそう評したのはからかいの類ではなく、本心からだ。聞いたカミヤが少し不快そうな顔をする。
気にした様子もなく、呼ばれた当人である少女はバートを見た。
「それで、あなたは来ないのですか?」
「……やめておく」
「部下がやられているのに? まあ、腰抜けのあなたらしい判断だとは思いますけど」
誰がその手に乗るか。あからさまな挑発で、先にこちらに攻撃させようという腹なのは分かっている。今すぐにでもバートを叩きのめしたいという強烈な敵意が、少女の眼光には宿っている。
この時点でバートは、彼女達がカミヤに先制攻撃を禁じられているのだと看破していた。でなければ攻撃されない理由がない。バートの知る限り、谷でカミヤと行動を共にしていた少女達は皆、カミヤの言う事には絶対に従う。
忠犬という呼び名を考えたのも、そもそもバートではない。猟犬、あるいは忠犬。時にはカミヤの犬だとか。死の谷にいた頃、仲間達はカミヤに従う四人の少女の事を、そんな風に渾名していた。さすがに不愉快そうな反応をするカミヤの前では皆、口にするのをなるべく控えていたが、バートは中々的確な言葉だと思っている。
あれは、いつだったか。死の谷にいた頃の話だ。
入るのは比較的楽だが、出られない。死の谷とはそういう場所で、だからあんな地獄にも、外から人間がやって来る事がままあった。追放された罪人や、無茶な依頼を受けた間抜けな冒険者などだ。気付いたらここにいたという、カミヤのような訳の分からん輩も何人かいたようだが。
あの地獄は間違いなく、人間が一人で生きていける場所ではない。様々な事情でやって来た奴らは皆、本来なら個々に死んでいくはずだった。それが偶然にも出会いを重ね、いつしか生き残るための集団が形成されたのだと聞いている。バートも途中で合流した人間なので、最初の経緯はよく知らないが。非力な人間でも、徒党を組めばなんとかかんとか、生き残る事くらいは出来るらしかった。
それでも毎日が必死だ。幸運に見放されればすぐにでも全滅する、死と隣り合わせの戦いの日々だ。
新たな遭難者を見つければ協力者は増えるが、魔物との戦いで死んでいく者も当然いる。
そしてとうとう、ある日の魔物の襲撃で、かなりの人数がやられた時があった。
死者多数。何より最悪なのが、集団をまとめていた凄腕の剣士がくたばった事だった。
元々地獄での生活で荒んできていた皆の心の均衡は一気に崩れた。おかしな空気になりつつあった。不安や苛立ちの矛先は、集団内でほとんど役に立っていなかった四人の子供へと向けられる事になる。
生き残るために協力していただけで、罪人や盗賊も中にはいるのだ。特に素行の悪い奴の主導で、何人かの男達がある晩行動を起こした。戦いで全く役に立っていない四人の少女がそのターゲットだった。
早い話がまあ、彼女たちを性欲の捌け口にしようと思い立ったのだ。まだ十三か四のガキだろ、という意見はおかしな空気の前に封殺される。役立たずのクセに貴重な食料を消費しているのだ、せめてその体で役立ってもらうのは当然と、主導した男が言う。色々と限界だった男達も彼に乗せられた。白状してしまうと、バートもその中の一人であったりした。
結果的にそれは未遂に終わる。止めたのはカミヤだった。
「なら、こいつらをちゃんと戦力に数えられるようにすれば文句はないな?」
カミヤは四人の少女達と同年齢くらいの少年だったが、四人とは違い早い段階から戦いの才能を発揮し、既に最前線で戦う一人に数えられていた。集団内ではかなり役に立っている方で、死んだまとめ役の男からの信頼も厚く、まだ子供とはいえ発言力は高い。そのカミヤにそう言われてしまっては、不埒を働こうとしていた男達も一旦引き下がるしか無かった。
まあ、どうせ無理だろう。バートを含め、男達は高を括っていた。四人は明らかに、戦いに向く性格をしていない。素人で、女で、子供。足手まとい以外の何者でもない。しっかりと訓練を積める環境にあったとしても、果たしてこの谷でまともに戦えるレベルに彼女達を鍛え上げられるかはほとほと疑問である。
四人の少女はカミヤの弟子的な扱いとなり、以後カミヤは彼女達を連れて魔物と戦うようになる。形だけ見れば女を囲い込んでいるとも取れるその行動に対し、集団内の男達は揶揄するような事を色々言っていたようだ。だがそんな事よりも。バートが心配していたのは、貴重な戦力であるカミヤが足を引っ張られて命を落としはしないかという事だった。
しかし一体、どういうカラクリか。
カミヤも少女達も死ぬ事なく、日々は過ぎ去る。
いつの間にやら少女達は戦士の顔つきになり、むしろおっかない印象をバートに抱かせるようになる。カミヤが戦闘の技術を教えるのが余程上手いのか、少女達が恩人であるカミヤの指導に応えようと相当頑張ったのか。色々な歯車が上手く噛み合ったのだろう。子供達は頼りになる戦闘集団へと変貌を遂げ、もはや四人をただの女子供と侮る者はいなくなった。
だがまあ、当然の事ながら、一部の男達に襲われかけた一件は尾を引いたわけで。四人の少女は優秀な戦力になったが、扱いづらい事この上無かった。集団内の男が近寄ればあからさまに距離を取り、話しかければ警戒と猜疑に満ちた視線が返ってくる。まともに話せるのはカミヤだけだ。なのでバート達他の遭難者も無理に彼女達と交流しようとはせず、扱いはカミヤに一任する事で集団はなんとか安定を保っていたのである。
だから当時の谷の生き残り達は、彼女達それぞれの内面などろくに知らない。しかし外から見ているからこそ、案外よく分かる事もあったりする。
それは例えば、カミヤが傍にいる時といない時での、彼女達の態度の違いだとか。カミヤに対してしか絶対に向けない、信頼に満ち溢れた微笑だとか。カミヤを悪く言った奴に対する虫でも見るかのような視線だとか。カミヤがいない場所であろうと全力で発揮されている、彼への忠誠心だとか。そういった諸々だ。
カミヤの忠実なる猟犬。
誰が言い出した忘れたが、四人の少女達の渾名がそのようなものになったのは、至極当然の事だとバートは思っている。多分納得していなかったのはカミヤくらいのものだろう。当の少女達ですら、その渾名を耳にして嫌そうな顔をした事など一度も無かったように思う。
「おい、手当てしてやれ。あいつらの相手はするな」
五体満足な部下達にバートはそう指示を出す。戸惑いつつも部下達が、やられた奴らの介抱に向かった。
バートの眼前では、ほとんど一人で自慢の部下を五人ばかり無力化させた少女が立ちこちらを睨んでいる。腰抜けと挑発されようが、この相手に挑む気には全くなれなかった。
「……すまねえな。最初に止めとくべきだった」
負傷した部下達に謝る。カミヤ達の登場があまりに予想外すぎて、動揺したバートは様子見を選んでしまった。完全に無駄な犠牲である。
「ああチクショウ! うちの組織に喧嘩売った三人組がカミヤだと知ってたら、待ち伏せなんてやらずにとっとと逃げてたものを」
「……随分俺達を買ってくれてるんだな?」
カミヤが少し意外そうに言うが、こちらこそ何を言うのかと問いたい気分だ。
「当たり前だ。俺の中で絶対に敵に回したくない第一位だぞ」
勝てるはずがない。バートはそう確信している。
カミヤの戦闘における天才っぷりは、谷にいた頃からよく知っている。
そのカミヤから教えを受けただけの四人の少女の内、当時最も弱かったこのルウという少女にすら、バートは勝てる自信が無い。
「組織を潰すって言うなら好きにしてくれ。俺は止めん」
手を上げ、バートは素直に降参だと告げる。
組織の顔役として許される行動ではないだろう。だがバートは、己は命のためならプライドなどドブに捨てる男だと自負している。命を何よりも優先するその考えこそがバートが死の谷で学んだものであり、今ここでこうしていられる理由なのだから。
だから何も、己に恥じる事は無かった。