20 正義の在り処
ある大人は、以前鋼に言った。
「もっと大人を信用しろ」と。
「他人に頼る事を覚えろ」と。
と、いうわけで。
今鋼の前には、頭痛をこらえるような表情のシシド教官がいる。
「またお前らは……、とんでもない物を持ってきてくれたな……!」
その手にあるのは満月亭の店主から預かった手紙である。内容は要約すると、以下のようなもの。
娘は預かった。
店の土地の権利書を持って、午後二時に指定の場所へ来い。
警備隊に知らせれば、娘の命は無いと思え。
「なんとかなりませんか教官! こんな非道、許されるものではありません!」
マルは息巻くが、対するシシドはさすがの貫禄でぎろりと睨み返す。
「警備隊に知らせるなという事は、それを防ぐために店が見張られているという事だ……! それを迂闊にもお前らは、証拠となる手紙を堂々と持ち出したんだぞ! 分かっているのか!?」
若干怯んだマルに代わり今度は鋼が答えた。
「店には裏口から入りましたし、見張りの有無は確認しましたよ。恐らく大丈夫かと。それに俺達は別に、警備隊じゃないっすから。屁理屈かもしれないですが、奴らとしても目的のブツをまだ手に入れてない以上、今の段階で人質の命をどうこうする理由は薄いはずです」
「……」
シシドの顔には熟考の色。
「本来なら、学園生徒でも何でもない者の事情など関係ないと突っぱねたいところだが。……さすがに誘拐というのは、穏やかではないな」
「では教官」
「まず言っておくが、学園としてはこの誘拐事件に関して、何らかの対処をする事はできん」
一旦明るくなったマルの表情が、忙しなく今度は怒りの形に変わろうとする。それを制してシシドは続ける。
「俺が個人的に、警備隊にツテのある知り合いに相談してみよう。事件について漏らさないと断言出来る、信用できる人間だ。お前達はこれ以上余計な事をせず、通常通り午後からも授業に出ろ」
「教官、何か僕達にも出来る事はありませんか!?」
言い募るマルに、シシドはぴしゃりと言う。
「無い。いいかガンサリット、これ以上お前達は動くな。人質の命がかかっている、くれぐれも軽々しい真似は控えろ。この件に関して、絶対に悪いようにはせん。後は任せて、お前達は続報を待て」
シシドにとって縁もゆかりも無い、学園の外の事件だというのに。彼の対応は真摯なものだった。この人は信用していいだろうと鋼は思った。
何か手伝いたいのに、という顔で悔しそうに立ち尽くすマルの肩を、後ろから叩く。「お願いします」と一緒に頭を下げ、鋼とマル、そして同伴していたターレイと凛は、シシドの私室も兼ねていそうな準備室を後にした。
午後の授業が一つ終わる。
手紙に指定されていた時刻は、既に少しだけ過ぎていた。今頃は満月亭の店主が犯人と接触しているはずだ。
といってもシシドに釘を刺された上、ただの生徒に過ぎない鋼達に出来るのは漫然と授業を受ける事だけだ。もちろん授業をさぼって何か行動を起こす事は可能かもしれないが、それは事態の解決に奔走しているはずのシシドの誠意を踏みにじるのと同義である。
「教官に何か進展があったか、聞いてくる」
いてもたってもいられない、といった様子でマルが教室から出て行くのを鋼は見送る。恐らく何の進展も無いだろう。教官に知らせてから今まで、いくらなんでも時間が無さ過ぎる。
店主には犯人達の要求通りにさせ、後から介入して土地の権利書を取り戻す、という方向でシシドは事件の解決を狙うはず。警備隊にツテのある知り合いにも、そのための手配を頼むに違いない。
「あの人、大丈夫でしょうか」
「大丈夫やと信じたいわなあ……。最悪、店取られても命さえ無事やったらええと思うよ、ほんまに」
片平が心配し、省吾もしみじみ言う。さすがに誘拐事件とあっては明るい雰囲気になる訳も無い。
その内にシルフ組から凛と有坂もやって来た。
「あのいきなり魔法撃たれた時も結構な事件だったけど。こんな大事になるなんてね……」
「はい……」
ややシリアスな空気を保ちながらも、ぽつぽつと雑談。
そのうちに五分が経ち、十分が経った。
「おせーな、マルの奴」
「教官と話し込んでるんちゃうん?」
「もしくは見つけられずに探し回ってるか、だな」
解決の目処が立つまで、シシドはあまり詳しく誘拐事件については話してくれない気がする。マル相手なら尚更だ。時間がかかっているのは教官相手にマルがしつこく詰め寄っているか、教官を見つけられないか。そのどちらかだろう。
誘拐事件それ自体に、思う事がないわけではないが。鋼は思ったよりも冷静な自分に気付いた。
まあ、こんなものかもしれない。
家族や友人、大切な仲間が連れ去られたのなら誰だって平静ではいられないだろうが。所詮は数回会っただけの少女だ。
やがて、次の授業の時間が迫ってくる。
マルはまだ帰って来ない。
さすがこれは少しおかしいのではないかと、鋼達も思い始める。
この日。
鋼の知る限り、初めてマルが授業を欠席した。
◇
ほんの少し時間を遡る。
「そんなすぐに進展があるか!」
とシシド教官から叱責をもらい、マルケウス=ニル・ガンサリットは教室へと引き返していた。
肩を落として、とぼとぼと歩いている。カミヤが同行しなかった理由が今なら理解できた。
――僕は、無力だ。
貴族ではあるが、所詮は学生という立場の弱さ。カミヤに及ばない剣の腕。
そういった弱さだけでない。何より己に足りていないのは冷静さだ。マルケウスとて、その自覚くらいはある。
目前に明らかな悪がいれば、マルケウスは騎士として、危険を顧みずに挑む事が出来るだろう。しかし人がさらわれ、所在も分からないという今の状況では、どう動いて良いのか全く分からない。思考は空回り、考えるのをやめて直感で動くには、かかっている人の命は重過ぎる。
途中経過を自身が聞く事に何の意味があるのか。結局は教官に全てを委ねるしかない。
あまりに無力だ。
「……」
教室に真っ直ぐ帰るという気分でもなく、マルケウスはふらふらと遠回りの帰路を選ぶ。
ふと、二つ前の剣術実技の授業を思い出す。誘拐事件やムライとアリサカの試合とは何ら関係ない、取るに足らない些細な事だが。あの時そういえば、同じクラスの女子生徒が、髪留めをどこかに落としたとか騒いでいた。
なんとなしに校舎の傍の茂みを見つめ、マルケウスは決めた。ぐだぐだと暗い思考に陥るくらいなら、待つ間のこの時間をもう少し有意義に使おうと。
落とし物探しに夢中になってしまい、我に返った頃には結構な時間が経っていた。
しまった。これは授業開始に遅れるかもしれない。
粘った甲斐あって、落とし物らしき髪留めは発見できたのだが。いつの間にか校庭近くの茂みにまで足を伸ばしている自分に気付き、苦笑する。
「すまんな、わざわざ来てもらって」
声が聞こえたのは、目的も果たしてさあ立ち上がろう、というタイミングだった。
学園の教師の中でも特に聞き慣れた、シシド教官の声だ。
「まあ今の仕事は巡回だけだし、いいんだけどさ。わざわざ学園に呼び出すほどの用事か?」
応えるのはシシドと同じ年代くらいだろうか、知らない男性の声である。さすがにぴんときた。
察するに、誘拐事件に関する話だ。巡回と言っていたし、相手の男は警備隊の人間だろう。二人は友人か、少なくともある程度気安い知り合いという関係らしい。
もう休み時間は終わっているのか、周囲に他の人の気配は無い。シシド達が立っているのは校舎沿いの歩道で、それと校庭に挟まれる形でマルケウスを隠している茂みがある。今立ち上がれば、間違いなく見つかる。
盗み聞くのは気が咎めたが、じっと息を潜めてマルケウスは耳を澄ませた。
「少し、立て込んでいてな。警備隊としてじゃなく、個人的に相談に乗ってもらいたい事がある。内密の話だ」
「おいおい……、どんな厄介事だよ。内容によるぞ」
「数日前にうちの生徒が、魔術で攻撃される事件があったろう。またあれ関係でな。捕まった男とよく共に行動していた、他の男達について調べるよう、学長が頼んでいただろ。あれどうなってる?」
マルケウスは当事者ではないが、あらまし程度は聞いている。カミヤが狙われた一件だ。
「いや、そりゃ調べたけどね……。なんだ、また同じような事件があったのか?」
「……うちの生徒ではないが。生徒の友人が、誘拐された。その男達が犯人の可能性が高い」
驚愕した様子の相手の男に、シシドは今回の件について懇切丁寧に説明した。店への嫌がらせや、先日の《火矢》襲撃事件はそのとばっちりだと予想される事など。身を隠すマルケウスには二人の表情は分からないが、警備隊の男は苦い声で告げる。
「……言いたくないんだけどな」
「ん?」
「警備隊が堂々と動く訳にはいかないんだろ? ちょっとそれは、どうしようもないぞ」
「分かってる。店主が犯人の言い分に従って、店を手放して娘が戻ってきてからでいい。後から警備隊と協力して、犯人を捕らえて店も戻す、という風に出来ないか?」
マルケウスにとって、それはなるほどと唸らされる解決法だ。自分では思いつきもしなかったが、聞いた後ではそれしか無いように思える。やはり教官は、頼りになる人だ。正義の人だ。頷くマルケウスはしかし、次の相手の言葉を聞いて硬直した。
「……すまん。多分、それは難しい」
「難しい? 脅しに使われた手紙もこっちにあるんだぞ」
「……本当に、すまん。どうしようもないって言ったのはその事で。犯行現場を押さえれば話は別だろうけど……、後から逮捕は難しいと思う。あの男達が犯人なら、少し問題があってな……」
「……。調べたと、言っていたな。一体どういう事だ」
「『闇傭兵ギルド』って聞いた事ないか? 生徒への襲撃事件で捕まえた男は、どうもそれ所属らしくてな」
初めて聞いたがふざけた名前だ。どう考えても正規のギルド名ではない。
「聞いた事はあるが……。非合法の依頼を受ける、傭兵どころか盗賊みたいな奴らの集まりだったか」
「お前だから教えるけど、他にこういう事は漏らさないでくれよ。……あれは警備隊にとっても禁忌の一つでな。迂闊に手出しできないんだ」
その言葉はマルケウスに頭を殴られたのと同等以上の衝撃をもたらした。
今、彼はなんと言った? 警備隊が手出しできない?
――そんな存在が、あるというのか。それは許されるのか。
「……そんなにでかい組織なのか?」
「それもある。大本はセイラードにある同じ名前の組織のようだ」
王都セイラードはこの国の首都だ。国王陛下のお膝元だ。
断じて犯罪組織がのさばっていい場所ではない。ない、はずなのだ。
「……他の理由は?」
「……ほんとに、その、言い辛いんだけども。そのギルドに干渉しようとすると、うちのお偉いさんがいい顔をしない」
意味が分からない。本来であればマルケウスは、今にもここから出て行って警備隊の男を問い詰めただろう。
それすら出来ないほどに、座り込むマルケウスに与えられた動揺は大きかった。
「警備隊の上層部にも影響があるとなると、貴族か。くそっ、そういう事か……! 後ろ暗いところのある貴族にとっても、非合法の依頼を受ける組織は役に立つ」
「ああ……。さっきも言ったように、現行犯なら話は別だ。闇傭兵ギルドが相手だと伏せて、その手紙を警備隊の詰め所へ持って来てくれれば、動く事も出来ると思う。だけど、後からその組織を調査して、誘拐があったと証明するのは多分無理だ。上から止められる」
「……他に方法は何か無いか?」
「ちょっと思いつかない。……力になれず、すまない」
「……いや。お前が悪いわけではないさ。そのギルドについて聞かせてくれただけでも十分助かった」
「本当に、すまん。僕だって、警備隊のそういうのには納得いってないんだ。警備隊は悪を見逃さない正義の集団だと、入隊前は思ってたんだけどな……」
「結局どこも、そんなもんだ。綺麗事だけで世の中は回ってない」
「ああ。入隊してからは、それを実感する毎日だよ」
――やめてくれ。そんな話を、僕に聞かせるな!
マルケウスの叫びは実際には声にならなかった。
がらがらと、足元が崩れていくような感覚。何より許せないのは、悪をのさばらせている大きな原因が貴族だという事だった。
マルケウスは正しい貴族であれと、常々自らに言い聞かせている。誇りと正義を失った貴族になど、何の価値も無いと思っている。
だがこの考えは、貴族全体で見ればむしろ異端だ。
後ろ暗い事をしている貴族の話など、いくらでも聞く。清廉潔白と信じている尊敬する父でさえ、お前は性根が真っ直ぐ過ぎるとマルケウスに言う。
シシドも言ったが、綺麗事だけで世の中は回っていないのだ。
そうと知っているつもりだった。知った上で、それでも尚マルケウスは他の規範となるよう、正しい騎士になると誓っていた。
だが、いざ目の前に突きつけられた現実はどうだ。マルケウスはそれに、易々と打ちのめされている。貴族に守られた悪人が民の暮らしを脅かし、警備隊はそれをただ見過ごす。そんなものが、今の世の中の当たり前だというのか。
目頭が熱くなるのを、歯を食いしばって押さえ込む。
自分は貴族だ。騎士候補生だ。泣くものか。泣いてたまるか。誰も見ていなくとも、情けない真似をする訳にはいかない。
だが、しばらくの間、マルケウスは立ち上がる事が出来なかった。
呆然と茂みの中で時間を過ごして、どれくらい経っただろう?
気付けばとうに、シシド教官と警備隊の男はいなくなっている。もはや授業も遅刻では済まず、欠席となっているだろう。
ようやく少し、感情の整理がついてきた。
周りに誰もいないのを確認しながら、立ち上がる。
シシド教官は言っていた通りに、誘拐事件をどうにか解決しようと動いてくれていた。それは確かだ。
だが、先程の会話を思い出せば一つの疑念が浮かんでくる。
――彼を信じて待ち続ける事に果たして意味はあるだろうか?
誘拐されたのは生徒ではないから、学園が動く事は出来ない。本来ならそれは警備隊の仕事だ。そしてその警備隊は全く頼りにならないと、先程聞いたばかりである。もはや全てを諦め、店を手放す事で店員の少女が戻ってくるのを願うくらいしか、出来ないのではないか。
人質の命は無事で済むかもしれない。だがあの親子の収入源であり、住む場所である店が理不尽に奪われるのを、ただ黙って見過ごす事は、己の正義にかけて出来ないとマルケウスは結論した。
ここで引き下がるくらいなら、騎士候補も貴族もやめてやる。敵は大きな闇組織だというが、どうなっても構うものか。
決意を胸に、マルケウスはこの場を後にした。