水無瀬課長は誘拐していない。
掘り炬燵式のテーブルに、品の良いお通しとグラスが並ぶ。
普段は来る機会のない高級居酒屋で、一人立つ課長の水無瀬が現実離れして見えた。
「……わずか8年という短期間ではありましたが、在職中は多くの方にお世話になりました」
水無瀬の殊勝な挨拶が続く。
三十人は入るであろう大きめの部屋に、衣摺れのようなざわめきが聞こえた。
皆の苦笑が口から漏れたのだ。
比較的明るい雰囲気のなか、俺だけが感情を押し殺すことに必死だった。
暗示が解けない。
水無瀬は誘拐犯じゃない、と何度も自分に言い聞かせているのに。
製薬業界の評判は良いが、一部ベンチャーの職場環境は普通に『黒い』。
俺が務める黒猫製薬も例外ではない。
その黒猫製薬において水無瀬は天災と呼ばれた。
若手もベテランも産休明けの職員も、分け隔てなく心を潰す男。
この時代に残業三桁は当たりまえ。
成果を出せ、と休日も言う。
口癖は「雇ってもらえるだけ有難いと思え」「休む時間があるなら仕事をしろ」だ。
小さなことでも満足できなければ、水無瀬は平気で暴力をふるう。
オフィス内だけでなく、オフィスの外でも水無瀬は厳しかった。
ふらりと入ったカフェや居酒屋で、突然個別面談をし、日々の進捗を報告させた。
一言敬語を間違えれば怒鳴り、報告書が不明確であれば説教した。
そのくせ、水無瀬の指示やメールは「アレ」や「アノ」といった代名詞が多い。
現代人はストレスに弱いもの。
たとえば「死ね」「無能が」「申請せずに残業をしろ」と言われれば、一カ月と持たない。
実際にうちの課では、退職者や異動希望者が多かった。
三年生存率は五パーセントと揶揄された。
俺以外の課の職員は、いつだってその年の四月に異動してきた面々だ。
俺は心を壊さず四年も水無瀬の下で働いている。
コツは自己暗示。
パワハラ上司と付き合う方法として、ネットに書かれていた『空想誘拐法』だ。
空想誘拐法のストレス軽減効果は抜群で、実践した当日から俺は勇気が漲った。
『パワハラ上司を誘拐犯だと思いましょう。あなたは一人娘を誘拐された親。娘を返して欲しければ誘拐犯の要求に従わねばなりません。家族で笑える日まで頑張りましょう』
俺は悲劇の父親だった。
「一億円用意しろ」や「崖の上から飛び降りろ」と言った要求と比べれば、水無瀬など屁でもない。
罵声を飛ばされても、俺は娘のために頑張れた。
奥歯が折れるほど殴られたときは、流石に気持ちも折れそうだったけれど、強い暗示で乗り切った。
空想誘拐法は、暗示が強いほど、ストレス軽減効果も高い。
俺は精神を守るため、空想の娘を具現化した。
名をミカという。
黒髪で目の大きな七歳だ。
二次元ゲームのキャラクターで、画像は印刷して定期入れにしまった。
通勤時間や休み時間になれば、俺は定期を取り出し、ミカの無事を祈った。
俺は不屈の男歴四年。
残業時間が百二十を超えても平気だった。
むしろ百二十程度で良いんですか? と水無瀬に質問したくらいだ。
ミカの存在価値は俺の命よりも重い。
水無瀬の転職は今日の昼過ぎに知らされた。
庶務の四十万谷さんが部全体に流したメールのタイトルは『送別会』。
突然の吉報に課内の奴らはそっと沸いた。
メールに書かれていた「皆様、必ずお集まりください」「参加費は一万五千円となります」という凶悪な文面も、見えていないようだった。
水無瀬がオフィスにいたため、喝采はメールの中だけに抑えられていたけれど、数カ月にわたる鬱憤は、一メールあたり二十行以上の文章となって反映された。
三十分後、『RE:』の文字で、メールのタイトル欄が埋まった。
――ミカはどうなる?
俺だけが苦しんだ。
偽りの心配が俺を混乱させていた。
「……業務では至らない点も多々あったと思いますが、皆様のご協力のおかげで業務を行うことができました」
さっきよりも大きい笑い声が聞こえた。
皆リラックスしてきたようだ。
これが水無瀬と同じ空気を吸う最後の時間。
そう考えればある程度の無礼も許される。
幸いなことに、今日は部長や社長も参加していた。
俺も頭では状況を理解する。
ただ心は「誘拐犯が消えてしまうぞ!」と悲鳴をあげる。
――ミカ!
俺の目は大粒の涙を流していた。
誘拐犯が人質を返さない場合の結末は一つ。
もうミカは無事じゃない。
水無瀬に殺されたのだ。
いや、まてまて。
水無瀬は誘拐犯じゃない。
そもそもおまえ、子供どころか嫁もいないだろ?
頭と心が乖離する。
殺したいほどの怒りと、死にたいほどの悲しみが、俺の全身にのしかかる。
俺は一刻も早く暗示を解かねばならなかった。
正気に戻る必要があった。
「それではここで水無瀬課長に対する感謝の印として、花束を贈呈したいと思います。贈呈者は……喜田……さん?」
司会を務めていた四十万谷さんが、俺を見つけて絶句した。
皆も俺を凝視した。
なぜ泣いているの?
頭がおかしいの?
無言のメッセージが俺に届く。
俺はなにも言えなかった。
なにも言えないほど号泣していた。
嗚咽が止まらず呼吸が苦しい。
心を落ち着けようと、定期入れのミカを見たことも悪かった。
「喜田、大丈夫か?」
水無瀬が俺を見つめた。
細い目が赤くなっていた。
明らかに勘違いしている様子だった。
バカじゃねえの? 勝手に貰い泣きすんな。




