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水無瀬課長は誘拐していない。

作者: えぬ氏
掲載日:2026/06/16

 掘り炬燵式のテーブルに、品の良いお通しとグラスが並ぶ。

 普段は来る機会のない高級居酒屋で、一人立つ課長の水無瀬が現実離れして見えた。


「……わずか8年という短期間ではありましたが、在職中は多くの方にお世話になりました」


 水無瀬の殊勝な挨拶が続く。

 三十人は入るであろう大きめの部屋に、衣摺れのようなざわめきが聞こえた。

 皆の苦笑が口から漏れたのだ。

 比較的明るい雰囲気のなか、俺だけが感情を押し殺すことに必死だった。

 暗示が解けない。

 水無瀬は誘拐犯じゃない、と何度も自分に言い聞かせているのに。


 製薬業界の評判は良いが、一部ベンチャーの職場環境は普通に『黒い』。

 俺が務める黒猫製薬も例外ではない。

 その黒猫製薬において水無瀬は天災と呼ばれた。


 若手もベテランも産休明けの職員も、分け隔てなく心を潰す男。

 この時代に残業三桁は当たりまえ。

 成果を出せ、と休日も言う。

 口癖は「雇ってもらえるだけ有難いと思え」「休む時間があるなら仕事をしろ」だ。

 小さなことでも満足できなければ、水無瀬は平気で暴力をふるう。


 オフィス内だけでなく、オフィスの外でも水無瀬は厳しかった。

 ふらりと入ったカフェや居酒屋で、突然個別面談をし、日々の進捗を報告させた。

 一言敬語を間違えれば怒鳴り、報告書が不明確であれば説教した。

 そのくせ、水無瀬の指示やメールは「アレ」や「アノ」といった代名詞が多い。


 現代人はストレスに弱いもの。

 たとえば「死ね」「無能が」「申請せずに残業をしろ」と言われれば、一カ月と持たない。

 実際にうちの課では、退職者や異動希望者が多かった。

 三年生存率は五パーセントと揶揄された。

 俺以外の課の職員は、いつだってその年の四月に異動してきた面々だ。


 俺は心を壊さず四年も水無瀬の下で働いている。

 コツは自己暗示。

 パワハラ上司と付き合う方法として、ネットに書かれていた『空想誘拐法』だ。

 空想誘拐法のストレス軽減効果は抜群で、実践した当日から俺は勇気が漲った。


『パワハラ上司を誘拐犯だと思いましょう。あなたは一人娘を誘拐された親。娘を返して欲しければ誘拐犯の要求に従わねばなりません。家族で笑える日まで頑張りましょう』


 俺は悲劇の父親だった。

「一億円用意しろ」や「崖の上から飛び降りろ」と言った要求と比べれば、水無瀬など屁でもない。

 罵声を飛ばされても、俺は娘のために頑張れた。

 奥歯が折れるほど殴られたときは、流石に気持ちも折れそうだったけれど、強い暗示で乗り切った。

 空想誘拐法は、暗示が強いほど、ストレス軽減効果も高い。


 俺は精神を守るため、空想の娘を具現化した。

 名をミカという。

 黒髪で目の大きな七歳だ。

 二次元ゲームのキャラクターで、画像は印刷して定期入れにしまった。

 通勤時間や休み時間になれば、俺は定期を取り出し、ミカの無事を祈った。


 俺は不屈の男歴四年。

 残業時間が百二十を超えても平気だった。

 むしろ百二十程度で良いんですか? と水無瀬に質問したくらいだ。

 ミカの存在価値は俺の命よりも重い。


 水無瀬の転職は今日の昼過ぎに知らされた。

 庶務の四十万谷さんが部全体に流したメールのタイトルは『送別会』。

 突然の吉報に課内の奴らはそっと沸いた。

 メールに書かれていた「皆様、必ずお集まりください」「参加費は一万五千円となります」という凶悪な文面も、見えていないようだった。


 水無瀬がオフィスにいたため、喝采はメールの中だけに抑えられていたけれど、数カ月にわたる鬱憤は、一メールあたり二十行以上の文章となって反映された。

 三十分後、『RE:』の文字で、メールのタイトル欄が埋まった。


――ミカはどうなる?


 俺だけが苦しんだ。

 偽りの心配が俺を混乱させていた。


「……業務では至らない点も多々あったと思いますが、皆様のご協力のおかげで業務を行うことができました」


 さっきよりも大きい笑い声が聞こえた。

 皆リラックスしてきたようだ。

 これが水無瀬と同じ空気を吸う最後の時間。

 そう考えればある程度の無礼も許される。

 幸いなことに、今日は部長や社長も参加していた。

 俺も頭では状況を理解する。

 ただ心は「誘拐犯が消えてしまうぞ!」と悲鳴をあげる。


――ミカ!


 俺の目は大粒の涙を流していた。

 誘拐犯が人質を返さない場合の結末は一つ。

 もうミカは無事じゃない。

 水無瀬に殺されたのだ。

 いや、まてまて。

 水無瀬は誘拐犯じゃない。

 そもそもおまえ、子供どころか嫁もいないだろ?


 頭と心が乖離する。

 殺したいほどの怒りと、死にたいほどの悲しみが、俺の全身にのしかかる。

 俺は一刻も早く暗示を解かねばならなかった。

 正気に戻る必要があった。


「それではここで水無瀬課長に対する感謝の印として、花束を贈呈したいと思います。贈呈者は……喜田……さん?」


 司会を務めていた四十万谷さんが、俺を見つけて絶句した。

 皆も俺を凝視した。

 なぜ泣いているの?

 頭がおかしいの?

 無言のメッセージが俺に届く。


 俺はなにも言えなかった。

 なにも言えないほど号泣していた。

 嗚咽が止まらず呼吸が苦しい。

 心を落ち着けようと、定期入れのミカを見たことも悪かった。


「喜田、大丈夫か?」


 水無瀬が俺を見つめた。


 細い目が赤くなっていた。


 明らかに勘違いしている様子だった。


 バカじゃねえの? 勝手に貰い泣きすんな。

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