幕間:報告と記録の帳――ギルドの片隅で、彼女は記す
冒険者ギルド、東側の文書閲覧室。
陽の傾きかけた午後、厚い書架に囲まれた一角で、一人の若い女性が机に向かっていた。
名は、ミリア=ルヴェール。
記録とは、何のために残すのだろう。
誰かのためか、自分のためか。
それとも、忘れないためか──忘れてはならぬもののためか。
筆を走らせるたび、ミリアはその問いに向き合い続けていた。
黒革のカバーがかけられた報告書を、淡々と綴る。
内容は、先日の異常個体《クレクナス(進化体)》との交戦記録。
術式痕跡の解析結果、魔力波の偏位、精神干渉の可能性。
筆致は明快で、簡潔。それでいて、どこか、静かな熱があった。
「……“召喚術”との関連性は高い。
ただし、術式の改竄跡あり。断定は避ける」
ミリアはペンを止め、手帳の別のページを開いた。
そこには、別の筆跡で書かれた古い記録がある。
兄セオドアが最後に遺した手帳。その多くの箇所が暗号化されていて、まだほんの一部しか解読できていない。
『記録干渉という現象について』
『召喚術の本質は外界の力の借用ではない』
『存在の記録そのものを書き換える技術である』
(兄様……。あなたが追っていた真実が、こんなに身近にあったなんて)
星神印が微かに疼く。教会にいた頃は感じなかった"揺らぎ"。
目を閉じれば浮かぶ、戦場での光景。
レオンたちと共に戦ったときの充実感。
教会の「器」としてではなく、一人の人間として必要とされる喜び。
(私は、兄様の遺志を継ぐことができるかしら)
(記録を残し、真実を護る。それが……私の選んだ道)
細やかな補足と図式を添え、封緘の印を一つ押す。
その手際は、まるでかつての“教会の文官”のようだった。
けれど今の彼女に、肩書きはない。
──“名もなき隊”の、仮の一員。
それだけが、今の自分を示す呼び名だった。
「……少しは、役に立ててるのかしら」
ふと、机の上の羽ペンを置く。
目を閉じれば浮かぶ、戦場での光景。
あの時の“結界”は、間に合った。
あの時の“加護”も、最大限に尽くした。
けれど──
(……私の魔術が、もっと強ければ。レオンがあんな無理をする必要もなかった)
胸に残るのは、理ではなく、感情。
かつて教会では“不要”とされ、抑えてきた“揺れ”。
ミリアは小さく息を吐いた。
けれど、ほんの少しだけ、頬が緩んだ。
(でも……そういうところ、変わったのかもしれない。あの隊に入ってから)
ライナの声。
カイルの沈黙。
レオンの背中。
どれも、彼女の中の“式”では計れないものたち。
「……報告完了。次は、明日の準備」
立ち上がり、報告書を封筒に収める。
資料棚に目を向ければ、魔術符文や術式痕跡の文献が、未整理のまま積まれていた。
思考の中に、微かに熱が灯る。
(まだ足りない。まだ、もっとできる)
ミリアは書架の一冊に手を伸ばす。
薄明かりの中、魔術師としてではなく、“仲間として”戦うために。
“記録”されること。
それは、存在の確かさを示す手段であり、祈りにも似た行為だった。
教会の術式も、星神の契約も。
すべては“記されたこと”に宿る力。
だが──忘れられたものに、意味はないのだろうか。
誰にも読まれない記録にも、価値はあるのだろうか。
そんな想いが、時折、彼女の胸をよぎる。
風が小さく、窓を揺らした。
それは、明日へ向けた旅立ちの風のようだった。




