祈りの名を持つ少女
静寂が、礼拝堂を包んでいた。
祭壇の前に膝をつき、セシリア=ルクシアはゆっくりと目を伏せる。聖衣の裾が白い大理石の床をなぞり、淡く銀糸が揺れた。
二重の扉が閉じられた空間に、誰の声も届かない。ただ天井の高窓から差し込む光だけが、少女の姿を照らしている。
祈りは、形式。
加護は、義務。
聖女とは、神の器──
だと、誰もが口を揃える。
でも、わたしは──
「……いいえ」
小さく声が漏れた。
それは、誰に対しての否定だったのか。
神に? 教会に? それとも、自分自身に?
二人の修道女が、遠巻きにこちらを見ている。彼女たちは決して、近づこうとはしない。
敬意を装った距離。その内実が恐れであることを、セシリアはとうに知っていた。
(わたしは、“特別”なのではない。ただ、“特異”なのだ)
神託の力。癒しの加護。そして、“完全な星神印”の刻まれた身体。
──星神印。それは、主神である星神アストレアを始めとした星の三柱、星神の加護を受けた者に刻まれる“神意の印”。
セシリアは星神アストレア由来の印を持ち、「神の器」として育てられてきた。
それでも、心が望んだのは――名を呼ばれること。
“器”ではなく、ただの“セシリア”として、誰かと交わす言葉だった。
あれは8年前──わたしがまだ10歳で、聖女候補として教育を受け始めた頃。
彼女の記憶の中に、ひとりの少年の姿がある。
優しい琥珀の瞳と、まだ幼さの残る潤色の髪。
「セシリアっていうのか……うん、よく似合っている」
そう言って、野の花を編んだ冠を、そっと頭に乗せてくれた。
それは、彼女が初めて“誰か”として認められた瞬間だった。
それだけで、胸の奥に小さな灯が灯った気がした。
“器”ではない、“わたし”として見てくれた、そんな気がして。
わたしのことなんて忘れてしまったかもしれない。
でも。
ほんの一瞬でも、名前を呼んでくれたその記憶だけが、心の支えになったのだ。
少年は騎士になったと聞いた。
けれど最近、教会に連なる“儀式”で不穏な噂が流れ始めていた。
「責任を取らせるべき者がいる」
「聖女の加護に異変が」
「“器”の適合度が揺らいでいる」
真偽はわからない。ただ、その言葉の端々に、嫌な胸騒ぎがした。
夜、静まり返った塔のバルコニーに出て、月を見上げる。
手には聖典。だが、文字はもう頭に入ってこない。
「……ねえ、神さま。
わたしは、誰かのために祈ってもいいのでしょうか?」
小さく、吐息のような声。
聖女は万人のために祈るべき存在。
でも彼女の願いは、たったひとりのためにある。
名前を呼んでくれた、あの少年。
“セシリア”という、祈りの名に心を宿してくれた、あの人。
「あなたの背中を……ずっと、見ていたのです」
夜風に聖衣が揺れた。
その胸の奥、祈りとは別の“願い”が、そっと灯る。
それが、星の運命に抗う第一歩になるとは──
このときの彼女は、まだ知らなかった。