月影に揺れる星3:紅牙は夜を裂く
夜風に揺れる、神殿区の高塔。
その屋根の上に、一つの影が滑るように移動していた。
すでに全員がそれぞれの持ち場に就いていた。
作戦開始まで、あと──3分。
「斎塔東、警戒詠唱師、現在四名確認。詠唱ログなし。動き静穏」
「書庫区、結界強度レベル2。ゴーレム巡回ルート固定。干渉なし」
「外周見張り塔、巡回兵、第三班に交代直後。警備態度、緩い」
それぞれの隊員が、風の魔術に乗せた報告を飛ばす。
それを拾うシエルは、屋根裏の陰で静かに頷いた。
「各隊、位置固定。タイムライン移行。第一段階、陽動開始」
瞬間、北門の上空が、真昼のように明るく輝いた。
火ではない。爆破でもない。ただ、光と音。
「なんだ!? 空が……!」
「魔力反応!? 上空から――っ」
騒ぎ出す詠唱師たち。
だが、その混乱に乗じ、別の影が裏門へと忍び込む。
東路から西路へ、三名の隊員が風のように移動。
転移術式の陣を設置し、精霊の結界をかけて、発動までの猶予を確保する。
「残り、120秒……!」
緊張の報告が飛ぶ中、最奥の聖室前へと辿り着いた影があった。
──シエルだ。
扉の前で、彼は一度だけ呼吸を整えた。
鍵は存在しない。
そこには、“開かれぬ”という術式による封印が施されていた。
だが、その封印術式も、すでに解析済だった。
カチリ、と音を立てて扉が開く。
中にいたのは、ひとりの少女──セシリア=ルクシア。
彼女は何も問わなかった。
ただ、ゆっくりと立ち上がり、一礼をして、そして歩き出した。
その仕草に、躊躇はなかった。
自らの意思で、光の外に足を踏み出す者の瞳だった。
シエルはただ、静かに彼女の一歩を見守っていた。
★
聖室から北路へ。
途中、巡回兵の足音が近づく。
が、その先には、カイが仕掛けた音の反響魔法が待っていた。
「な、なんだ? 足音が……あっちからも……!」
「どっちだ!? 幻聴か!?」
警備兵たちは足を止め、判断を誤る。
その隙に、セシリアとシエルは廊下を通り過ぎていく。
戦闘は、ひとつも起きなかった。
だが、確実に彼らは“突破”していた。
★
回収地点まで、あと20メートル。
転移術師の少女・ユーンが術式を起動している。
「詠唱、7割まで完了! 空間安定値、やや不安定!」
転移術式は、ただの魔術ではない。
空間干渉、魔力制御、そして信頼。
少しでも乱れれば、異界への転落さえあり得る。
「問題ない。続行。残り、90秒……!」
シエルの一言で、ユーンは再び魔力を集中させる。
その周囲を、ティナとカイが警戒にあたっていた。
(失敗は、許されない。でも、あたしならできる!)
「……詠唱、9割──!」
「敵影、左路より接近! 確認、三名!」
ティナの声に、空気が一気に張り詰めた。
「牽制のみ。手出し無用。残り、30秒……!」
シエルは静かに、だが有無を言わせぬ口調で命じた。
ティナは頷き、風の魔術を展開した。
音だけの暴風が廊下を満たし、相手の足を止める。
「転移詠唱、完了!」
ユーンの叫びと同時に、空間がたわむ。
セシリアは、最後に一度だけ振り返った。
そこにいたのは、何も語らないシエルの姿。
ただ、その瞳には、明確な意志だけが宿っていた。
「ここから先は、あなたの意志で」
その言葉に、セシリアは深く頷いた。
そして、光の中へと身を委ねる。
転移の光が、彼女の姿を包みこんだ。
──それは、夜の空に、
まるで星がまたひとつ生まれたように見えた。
次の瞬間、彼女の姿は、空間の揺らぎと共に消えていた。
転移が完了したのち、紅牙隊は即座に撤収を開始した。
戦闘は一度もなかった。
だが、静かに夜が裂けた。
誰にも気づかれずに。
誰も傷つけずに。
星の巫女は、夜空へと還ったのだった。




