月影に揺れる星1:囚われの聖女と月下の囁き
星神教会本庁──大聖堂の神殿区、その最奥。
そこには、「聖室」と呼ばれる祈りの場がある。
選ばれし星の巫女──聖女と、ごく一部の高位関係者のみが入室を許される、密閉された空間。星神への祈りと、器の保管。二つの使命が、そこには重なっていた。
表向きは「聖女の私的な祈りの場」。だが実際は、扉の外に常駐する護衛によって、出入りが厳重に管理されている。療養という名の、美しい牢獄だった。
風の音も届かない石造りの小部屋に、今日もまた、白き祈衣の少女が静かに膝を折っていた。
セシリア=ルクシア。
星神教会の聖女にして、星神から授かる神意の印、星神印を背負う者。
だが今、その肩を包む清衣には、どこか憂いの影が差していた。
星の沈黙に向けて、祈りを重ねる日々。
あの日から、星の声は聞こえない。星神印は、ただ静かに──応えないまま。
星神の沈黙。それは彼女にとって、かつては“試練”に他ならなかった。
けれど今、その沈黙は、どこか歪で、何かが──意図的に遮られているような気がしてならない。
記憶の片隅にある、あの日の“追放”。
そして、その日以降に続いた、奇妙な沈黙、気配、そして閉ざされた扉。
自分が“聖女”であるということ。それは本当に、信じる者に光をもたらす役割なのか。
それともただ、都合のいい“器”として、祀り上げられているだけなのか。
そんな疑問が、言葉にならぬまま、胸の奥でじわりと広がっていく。
与えられる祈りの台本。
持ち込まれる食事、制限された筆記、話すことも許されぬ日々。
それが“聖女”の務め──そう教えられた。
けれど。
(わたしは、“器”なのですか……?)
その疑問は、いつから胸にあったのだろう。
彼女の膝元には、一冊の薄い手帳が置かれている。
セシリアはそっとそれを手に取り、静かにページをめくった。
──ふと、静寂の中に、その小さな音だけが響いた。
自分の思いを綴ってよいと許可された、唯一の私物。
そこには、少女の震える文字で、こんな言葉があった。
──きょう、神さまのこえはきこえませんでした。
──でも、だれかのなみだにふれたきがしました。
──そして、しらないひとのこえが、わすれてはいけないって、いっていました。
──わたしは、いのっています。みんなの、えがおを。
セシリアは、そっと目を伏せた。
まだ幼かった頃の記憶。
聖女候補として育てられていたセシリアは、時折、教会の外に出て王宮の儀礼や貴族の挨拶を学ばされていた。
その日、同行していたのは、魔力制御訓練に付き添っていた、グラン=デスト王国第一王女であるクラリスだった。
『セシリア、力みすぎ。魔力の流れを“閉じ込める”のではなく、“受け流す”のよ』
『……ごめんなさい』
失敗して落ち込むセシリアに、クラリスはふっと笑って言った。
『何度暴走したっていいのよ。わたくしなんて、毎週のように吹き飛ばしてたもの』
そう言って豪快に笑うクラリスが、眩しくて──羨ましかった。
あの人は、自分を隠していない。
貴族の娘でも、姫君でもない、“クラリス”としてそこにいた。
そんな姿に憧れていた。
──そして、もうひとつ。
もうひとりの、忘れられない“記憶”。
『お前、あんまり無理するな』
優しい声ではなかった。
むしろ、素っ気ない一言だった。
でも、あのとき確かに、温かい手が差し出された。
星神の器としてではなく、“セシリア”として。
たった一度きりの出会い。それでも──。
それは、確かにあったのだ。
名前を呼んでくれた少年が、自分をただの少女として見てくれた、奇跡のようなひとときが。
(……あの人は、わたしを救ってくれた)
カツ、カツ──。
足音が、聖室の奥へと近づいてくる。
この場に通される者は限られている。だが今夜、その足音は静かに、しかし確かに、セシリアのもとへ向かってきていた。
コン、コン──。
静かなノックが、密閉された聖室の空気を震わせた。
ややあって、戸が開かれる音。
「ごきげんよう、セシリア」
その声に、セシリアはゆっくりと振り返る。
「アルヴィス……様?」
問いかけるように名を呼ぶ。
つい数日前、この聖室で彼と言葉を交わしたばかりだった。
それでも、今こうして改めて再会した彼の姿には、決意の光が宿っていた。
「私は王家の教会儀礼監察役という名目で、月に数度、貴女に会うことを許されている。
──しかし、次はないかもしれません」
その声は静かだったが、どこか焦燥の色を滲ませていた。
「驚かせたならすまない。どうしても、君に会わねばならなかった」
彼の声には、王族の格式よりも、ひとりの“友”としての想いが滲んでいた。
「君がこの“聖室”に囚われているとわかって、いてもたってもいられなかった」
セシリアは、戸惑いながらも顔を上げる。
「……ここは、聖女に与えられた"場所"です」
そう答えかけて──ふと、言葉を飲み込んだ。
「与えられた、ですか」
アルヴィスの声に、かすかな皮肉が混じる。
「先週、君が庭園に出ようとして、止められたと聞きました。
療養中の方が、なぜ外出を制限されるのでしょう?」
「それは……」
言葉が出てこない。確かに、療養なら新鮮な空気を吸うことは治療になるはずだった。
「手紙の検閲もそうです。病気の人の手紙を、なぜ"内容確認"する必要があるのか」
静かな問いかけが、胸の奥に刺さる。
「君がそう思い込まされているなら、それが一番の監獄だ」
アルヴィスの声は優しく、だが確かな熱を帯びていた。
「君の“意志”は、どこにある?」
問いかけに、セシリアは答えられなかった。
セシリアの瞳が、揺れる。
「君がここにいる理由を、自分の言葉で言えるか?」
沈黙。
ただ、聖室の空気だけが、静かに流れていた。
その沈黙を破ったのは、アルヴィスが差し出した一通の封筒だった。
「……これは?」
「クラリスからの手紙だ」
手が、震えた。
クラリスは、いつも寄り添ってくれた。励ましてくれた。
けれど、手紙はいつしか、彼女の元へは届かなくなっていた。
セシリアは、深く息を吸い──
震える指で、ゆっくりと封を切った。
中から一枚の手紙が現れる。
…彼女はそっと、それを手に取ると──
一文字、一文字をなぞるように、目を落とした。
> 親愛なるセシリアへ
>
> やっとわたくしの手紙があなたに届いたようね。
>
> わたしくはね、誰のために手を貸すのか、ちゃんと考えているのよ。
> 心配しないでなんて言われても、心配してしまうの。
>
> だってあなたが大切で大好きなんだもの。
>
> いつでも笑っていてほしいのよ。あなたが泣くのは見たくないわ。
> だから、もしものときは、わたくしが、助けて差し上げてもよくってよ?
>
> どこにいても、わたくしたちは繋がっている。
> あなたは一人じゃないのよ。
>
> あなたの友 クラリスより
読み進めるうちに、目元が熱くなる。
強気な口ぶりの奥にある、温かい友情。
言葉では言い表せない“想い”が、そこに確かにあった。
「……わたしは」
唇が、震える。
「わたしは、自分の意志で、誰かを癒し、誰かを救いたい。
……それが間違いなら、わたしはその間違いを選びます」
アルヴィスは、ほんのわずかに目を細めて頷いた。
「君の意志が、何よりの真実だ。……セシリア。必ず、自由を手に入れよう」
そのとき、聖室の小さな光が揺れた。
月は隠れていた。
だがそのとき、確かに──“星の鼓動”が、生まれ落ちた。
(あなたは、まだ……わたしを見捨ててはいないのですね)
わたしは、覚えています。
あの夜、“名を呼ばれた”時に感じた、あたたかなものを。




