Act.2 『After school』
―――キーンコーンカーンコーン…
この日、午前授業のみの学習棟では、3時限目終了のチャイムが鳴り響いていた。
訓練室は無人となり、扉には鍵が掛けられている―――筈だった。
一人の訓練官と二人の生徒が、追いかけっこをしていた。
「待ぁてこるぁぁっ!」
訓練官が、顔に青筋を立てて叫んでいる。
その訓練官に追われている生徒は、長い焦げ茶色の髪を靡かせて走っている。
生徒は壁へ向かって、疾風の如く走る。訓練官は不審に思いつつも、その生徒の後ろを追いかける。因みにもう一人の生徒は隙をついて、この時脱出している。
生徒は壁にぶつかる寸前、向きを180度変えて、壁を打ち抜く勢いで蹴った。生徒は訓練官に向かって突っこんだ。訓練官はその動きに反応できず、すぐ近くをすり抜けていった生徒に手を伸ばすのが遅れてしまった。
生徒は扉に向けて駆けた。扉の向こうには、先程訓練室を出て行ったもう一人の生徒が居た。
もう一人の生徒は、口に手を当ててメガホンの形を作った。そして、
「もうそろそろ現役引退したほうがいいよ~、おっさぁ~ん」
訓練室で鼻を押さえてうずくまる男に向かって、ありったけの大声で叫んだ。
◇
「じゃ、今日はこれで~。さいなら~、レイ~」
「じゃ」
レイと呼ばれた生徒は、もう一人の生徒―――友人が、黒塗りの自家用車で帰るのを校門の外で見送った。
レイは、車が去ったのとは逆方向に進みだした。
しばらく歩くと、大通りの喧騒が耳に飛び込んできた。
自分が下宿している酒屋の前を素通り、隣にある八百屋も素通り―――
「よお、お前また買い物か?こりねぇ奴だな。昨日も一昨日も行ってたじゃねえか」
―――できなかった。
「別に。下見だけだし」
レイは―――正確には、レイオール・フランチェは、声を掛けてきた八百屋のおじさんにそう言い放った。冷たい視線も、この時一緒に放った。
「そうかあ?ここ最近ずっとじゃねえか。そんなに諦めきれないものなら、俺が」
「いい」
なにやら一人で盛り上がられたので、早々にレイオールは話題を切り上げた。
「別に遠慮するこたねーんだぞ?お前は小さい時から」
「いい」
「だから」
「いい」
「お」
「いい」
「…まだ何も言ってない」
切り上げたはずだったのだが、いつまでも食らいついてこられた。
しょうがないので、レイオールは本当の事を言うことにした。ただし、花を買っていることは話さなかった。
話し終えると、おじさんは静かに一人で頷いた。
「そうか、そうだったのか…。いや、訊いて悪かった。そうだよな、人には誰しも、他人に言いたくないことの一つや二つや九つはあるよな。そうだよな…」
なにやら自己完結された挙句、話がどこかずれてしまった。しかしレイオールは非情にも、一人で頷いてる隙に逃げ出した。
大通りの人混みに紛れて、霊園に続く細い道へと向かう。花は、今日は持っていない。
大通りの喧騒を感じさせない細い道を、レイオールは何の感慨も無さそうに歩く。
細い道を抜けると、いつもと変わらず、ただただ墓石が鎮座していた。
レイオールは、いつもの様に両親の墓石の前まで歩いた。そして、歌は歌わなかった。
ただただ、そこでじっとしていた。何もせず、視線を墓石に固定したまま、時が止まったように動かなかった。その姿は、一種の亡霊の様でもあった。
どれぐらいの時間そうしていたのか、レイオールにも分からなかった。けれど、あまり時間はたっていないようだった。
レイオールは立ち上がると、元来た細い道へと歩き出した。
◇
石畳の細い道は、この町の戦争時代の名残。
新世界暦842年。資源が豊富で緑の多いこの星は、戦場と化した。その資源を巡って、その自然を巡って、その豊かな土壌を巡って、貪欲な人々は、周囲の人々を巻き込み、散々暴れまわった。後に人々はこの戦争のことを『緑星争奪戦争』と呼んだ。
『緑星争奪戦争』によって、多くのものが即死し、溺死し、餓死し、自殺し、銃殺され、刺殺された。
建物は爆破され、撤去され、倒壊した。
多くの建物は、戦争が終わった後に新しく造られた。その殆どが、要塞のようなコンクリートで作られた。その中でこの町は、兎に角異彩を放っていた。
白い土壁、赤い瓦屋根、暖かな暖炉、そこから伸びる、茶色い煙突。
道は石畳で、一歩奥に入れば、迷路だったり、一本道だったり、近所の住民ですら迷うことがあるほど入り組んでいる。
地球のヨーロッパを思わす、不思議な町になった。
新世界暦1058年、近くにある第4生活地区の地区長及び幹部の人々は、平和な日々には何も価値がなく、意味のないことだと思い始めていた。やがてその考えは肥大し、戦争を無意味に起こすまでに至った。
その標的になったのは、第3生活地区。理由は、ただ単に近かったのと、第3生活地区が他の地区と比べて裕福だったため。この頃の第3生活地区は、物流の要とまで言われるほど、多くの物が、人が、金銭が行き来していた。このことを利用して起業し、成功する者も多かった。何より、地区長は賢く、温厚な人だった。そして、善悪の判断は情をはさまず常に公平だった。それが自分の息子でも、悪いことをしたなら相応の罰を与え、それが浮浪者でも、良いことをしたなら相応の礼と褒美を与えた。そんな人だった。そして、平和を愛する人だった。そのため、町も平和だった。
平和だったから、恰好の餌食にされるはずだった。
新世界暦1059年5月24日早朝、第4生活地区の軍は、光線銃や特殊な爆弾を装備し、頑丈な戦闘服を身に着けて、第3生活地区へと攻め込んだ。唯一つ難点があるとすれば、軍人の殆どが半年しか訓練を受けていない素人だということ。第4生活地区の幹部は、軍が成長するのを待てなかったのだ。
戦争は、意外にも短期間で終了した。
第4生活地区の軍は、まず大通りを爆破。他の地区に続く道は全て封鎖された、はずだった。全ては封鎖されなかった。軍は、細い抜け道を見逃していたのだ。近隣住民しか知らない、幾つもある避難通路を。避難通路は、後から急ピッチで作られたものではなく、相当前からあったものだった。
新世界暦842年、『緑星争奪戦争』の直後から、ずっと。
事前に情報を得た第3生活地区の住人は、必要な荷物を持ち、避難通路から非難した。5月23日の昼間には、第3生活地区からは人気が消え去った。
第4生活地区の軍は、まんまと騙されたわけだった。
人の居なくなった第3生活地区で、第4生活地区の軍は、どうしたか。
建物を破壊し尽くすような、愚かな事はしなかった。それよりも、更に愚かなことになってしまったのだ。
軍から逃げ出す人が居たのだ。
逃げ出した軍人は容赦なく殺された。その場で銃殺。
それに反発した軍人が、発砲した軍人を襲った。その場で絞殺。
やがて軍は、内部で二つの組織に分かれていた。組織に属さない軍人は、どちらに付くか答えを出せずに、虐殺、撲殺された。
二つの組織は愚かな小競り合いを始めたのだ。第3生活地区という、他人の領土で。
そんな軍を、幹部は見捨てた。『この無意味な戦争は、軍が勝手にやったことで、自らは関係ない』と。後にこの時代の幹部は、皆例外なく断頭台にて処刑された。第4生活地区の住民の手によって。
では、第4生活地区の軍は、どうなったか。生存者が17名。それ以外のおよそ10万人は、皆死んだ。己の仲間であった人々に殺された。
そして第3生活地区は、静かになった。
町には、死体が発する腐臭が満ちていた。死体に集った蝿もいた。脳漿や、骨や、肉片や、潰れた眼球や、ありえない方向に曲がった指や、変色した皮膚や、乾き初めて黒さが増した静脈血や、焼けた衣服と思しき炭や、半分だけ潰れた心臓や、首から上がなく鎖骨が肩から飛び出した胴体や、そんな物がいたる所に転がっていた。殺伐としていた。
誰も入ろうとはしなかったその場所へ、一人の旅人が入っていった。
その旅人は、軍の武器を集めた。そこらに転がる元生者たちは、旅人が公園で燃やした。それも、全て。
旅人は、売れそうなものは容赦なく持っていった。ただし、小さいものだけ。
旅人は死者を燃やした公園で、軍の武器を分解した。そして、希少価値のある金属があると、その金属を残して、元武器を適当にそこらに抛った。
次の日には、旅人の姿はなかった。誰も遭遇してはいなかった。故に、この旅人のことを知る人はいない。
だから今に伝わる歴史も、本来のものとは少し違う。
住民たちから見た、ありのままが伝わっている。
◇
石畳の、細く入り組んだ路地。
枝分かれのないその道を、レイオールは何と無く歩いていた。目的が無いわけではない。帰宅するため、ただそれだけだ。
細い道の両側に聳え立つ白い土壁には、緑色の細く長い蔦が絡まっている。それは、この第3生活地区が古くからこの場所にあることを、無言で伝えている。
ふと、レイオールの足が止まった。今まで意識していなかった聴覚を、ただ目に映ったものを脳に送るだけだった視覚を、そして警戒心を、鋭くして、レイオールはその場に佇んだ。
曲がりくねった道の先、ここからは見えない場所から、低い男の声が聞こえてきたのだ。それも、二人分。
それだけなら、レイオールも普通に通り過ぎることだろう。普通の人も、躊躇こそするものの、急ぎ足で通り過ぎるだろう。
けれど、レイオールは二人の男が話す単語を聞いてしまった。
お嬢様。人類滅亡。それから、隕石。
それらの単語が意味すること。先程友人から聞いたこと。そして、今の自分のこの状況。
レイオールは理解して、そして笑いたくなった。これは、悪い嘘ではないか、と。
普段あまり笑わないレイオールがそう思うほど、今の状況は笑えないものである。
そして、嘘である可能性は確率は、残念なことに、半分よりも低い。
今ここから逃げ出すことも可能だ。けれど、レイオールは逃げなかった。確信があった。
逃げれば殺される、という確信が。
自分から今日を命日にしたくはないもので、それは世間で普通に生きる、何の変哲もない人間ならば、誰しもが思うことである。
だから、レイオールは逃げなかった。たとえそれが、自分から厄介ごとに首を突っ込むようなことでも。それを承知で、レイオールは逃げなかった。
それが誰かの意図にしろ、運命にしろ、偶然にしろ、レイオールの知ったことではなかった。
低い声の全てを拾い、全てを覚える。単純そうに思えるその作業は、実は困難な作業であったりする。
まず、低い声の全てを拾うこと。
これには鋭い聴覚と、絶対に油断しないことを必要とする。
鋭い聴覚がなければ声は聞き取れず、油断をすると聞き漏らす。
次に、全てを覚えること。
これはまず、聞き取ることができなければ話にならない。つまり、鋭い聴覚と油断しない精神がなければ話にならない。更に必要なのは、記憶力。
『記憶力』と人は言うけれど、実際には、情報を脳に記す『記』、記した情報を分類する『分』、記された情報の存在を更に記憶する『再記』、過去に記された情報を思い出す『再生』、そして『再生』した情報から新たに発見した情報を共に保存する『共記』、過去に『再生』された情報と一致しているかを確認する『点検』。
その中でも〔覚えること〕〔思い出すこと〕〔発見しそれを忘れないこと〕が―――つまり、『記』『再記』『再生』『共記』が特に必要となる。
つまり結論を言えば、『低い声を全て拾い、全て覚える』ことは、感覚器官感覚神経を研ぎ澄まし、それでもやはり難しいことである。
人は誰でも油断をする。それは人間が生身の人間であっても、頭脳が電脳化されても変わらない。
だが―――訓練され、〔そういうこと〕に長けた人間であれば、不可能ではない。
現に、レイオール・フランチェは『低い声の全てを拾い、全てを覚え』ている。
そして、男たちの会話も終焉を迎えた。男たちが、レイオールの方へと歩き出したのだ。
今までの会話を全て聴き、全てを覚え、おおよそ理解したレイオールは、威風堂々と、何事も無かったかのように歩き出した。
男たちの方向へ。
互いに視認できるところまで来て、互いの距離が縮まって、
すれ違い、また距離が開いて、
レイオールは立ち止まり、男の一人は振り返り、
―――発砲。
静かな細い道に、銃声が響く。
男の手に握られた細い筒状の銃の先端からは、青白い硝煙が立ち上っている。
筒状の銃から飛び出したのは、今では珍しい、鈍重な光を放つ鉛の実弾。レトロな実弾は、弧を描くことなく火薬が爆ぜる勢いを利用して、真っ直ぐにレイオールへと向かった。レトロな実弾は―――レイオールへと届く前に、目に見えないモノによって消滅した。
静かな細い道に、銃声が響く。
レイオールの『義手』―――今は『武器』となった左腕の先端からは、空気衝撃の余波が広がっている。
レイオールの左腕から飛び出したのは、今では珍しい、最新技術の集合体である、音エネルギーの塊。エネルギーの塊は、弧を描くことなく別のエネルギーに弾き出され、真っ直ぐに男たちへと向かった。エネルギーの塊は―――男たちに届く前に、金属の塊を消滅させた。
エネルギーの塊は停まることなく男たちへと向かい、筒状の銃を持った男の胸にぶつかり、その勢いを殺すことなくそのまま貫いた。
もう一人の男は、ただそこに立っていた。肉片になりつつあるかつての仲間を、ただ静かに見つめた。そこにはどんな感情も見出すこともできない。
そんな男の様子を知ってか知らずか、レイオールは歩き出した。
人を殺すこと。そのことを後悔しているかと聞かれれば、後悔しているとしか答えようがない。
しかし、他に選択肢がなかった。殺さなければ、殺されていただろう。レイオールの生存本能は、意地らしくも、生きることを選択した。世の中を何の変哲もなく平々凡々と過ごすたいていの人間は、今日という日を命日にしたくはないもので、それはレイオールも同じことであった。
それに。
話を盗み聞くことにしたときから、何と無くこうなることは解っていた。
レイオールが人を殺し、男たちの仲間を敵に回すことも。
レイオールが人を殺しても、法律で裁かれることはないだろう。その代わり、男たちの仲間に追われることになるだろう。それは、死ぬまでずっと。
どちらにせよ、もう逃げられない。
もう一人の男はきっと、仲間に報告しただろう。だから、レイオールもすぐに追われることだろう。そうなれば、もう酒屋には居られない。第3生活地区からも出なければならないだろう。
レイオールは、その事を別に気に病むでもない。
唯一つ心残りなのは、気軽に友人に会えなくなったこと位だろう。
◇
事態は、少年の望む様にはなっていない。
こんなにドンパチやらかすのではなく、静かに、一瞬で終わることを望んでいた。
…それなのに。
何故あの少女は、こんなに回りくどいやり方をするのだろう。
少年は居ても立ってもいられず、駆け出していた。
鐘のなる中、階段を最上階まで突っ走った。
バタンッと屋上への扉を乱暴に開けると、そこには先客がいた。
「やはり来ましたね、待ちくたびれてしまうところでしたよ」
腰まで届きそうな黒く艶のある髪を風に靡かせ、少女は微笑んでいた。余裕綽々としたその表情は、どこか少年を苛立たせた。それと同時に、少年の戦意を削いでいた。
少女はゆったりとした足取りで少年の目の前50cmほどのところで停まると、その口を開き、新たに言葉を紡いだ。
「苛立っているのは判りますけど、たったの1週間と少しですよ?それに、あなたの依頼は規模が大きすぎますよ。確実に成功させるための時間を、私に下さらないかしら?」
少年は何も言わず、ただ目の前に居る少女を睨みつけた。
少女はそんな少年を見て、更に口を歪めた。
「化けの皮が剥がれれば、ただの短気少年ね…。でも、必ずあと9日必要なのよ。変更はできないわ」
「なん…っ」
何で、と続く言葉は、少女に遮られてしまった。
「もう、始まったからよ…」
少年は、その言葉の意味を察した。
始まったら、停まらない。それはもう、解り切っていた事だ。途中で後戻りなんて、できない。
昼間は雲ひとつない快晴だった空は、今は雨が降りそうな曇天となっている。
肌寒い空の下、遠くから、二つ重なった銃声が聞こえてきた。
◇
授業終了の鐘が響く中、教室を一人の少女が出て行った。
ゆったりとした足取りで、階段を駆け上った。確かに少女は歩いていたはずなのに、走っているのかと思うほど早く少女は進んでいた。
授業の鐘が響き終わったとき、すでに少女は屋上にいた。
その長い黒髪を風に靡かせ、曇天に移り変わりつつある空を、その瞳に映していた。
待つ時間は、そう長くはなかった。
「やはり来ましたね、待ちくたびれてしまうところでしたよ」
少女はニッコリと笑いかけた。少年は少女の顔を見て、少しむっとした表情になった。
少女はそんな事に構うことなく、少年の目の前50cmのところまで歩いた。ゆったりと、先程と変わらぬ歩調で。
少年の表情を見て、態度を感じて、自分の思うとおりになっていることに、少しだけ余裕を感じた。
「苛立っているのは判りますけど、たったの1週間と少しですよ?それに、あなたの依頼は規模が大きすぎますよ。確実に成功させるための時間を、私に下さらないかしら?」
少年は何も言わず、ただ目の前に居る少女を睨みつけた。
少女はその視線を受け、自分が優位にたっていることを実感し、少しだけ愉悦した。
「化けの皮が剥がれれば、ただの短気少年ね…。でも、必ずあと9日必要なのよ。変更はできないわ」
「なん…っ」
何で、と続く言葉をわざと遮り、少女がこの場の勝者となるために最後の言葉を紡いだ。
「もう、始まったからよ…」
その言葉を聞いた少年が、全てを察したのを少女は感じた。
始まったら、停まらない。それはもう、解り切っていることだろう。途中で後戻りなんて、できない。
銃声が耳の鼓膜を震わす中、少女は曇天を見上げた。
快晴だったその空から、今にも天から涙が零れてきてしまいそうだ。
◇
遠くから、二つ重なった銃声が聞こえてきた。
その銃声を合図に、ぽつり、またぽつりと雨が降り出した。
二人は無言でその場所に立っていた。雨宿りをするでもなく、ただそこで固まったように動かなかった。まるで、本当に固まってしまったかのように。
少女は雨水に濡れた前髪を右手でかき上げた。少女は全身ずぶ濡れで、濡れていない箇所など無い様に見える。
髪の先からは水滴がぽつぽつと、雨の真似でもするかのように滴っている。
少年は寂しそうに、愉快そうに、雨に濡れる少女を見ている。
少女はその視線に気付いたのか、首をゆっくりと動かして、少年を正面から見た。
「羨ましいかしら?」
少女はそう問いかけると、少年の手に触れた。触れると、そこだけが水に濡れた。
少年はそれを見て、何も言わずにその場から消えた。文字通り、次の瞬間には何も無かった。
少女は特に何も反応を示さず、ゆっくりと屋内へと続く扉へと歩いた。
扉には、屋内から鍵がかかっている。
ガチャガチャ、ジャラ
「お嬢様…」
扉が開かれると、中から年老いた男が出てきた。その手には、清潔なタオルと着替えが乗せられていた。
男は少女の顔を見て、少しばかり驚いた。
少女の顔は、雨水以外のものでも濡れていた。
少女は、泣いていたのだ。
悲しみで、心残りで、後悔で、不安で、焦燥で、圧力で、
―――喜びで。慶びで。悦びで。
消え往く世界に別れを告げるように。
その姿はまるで、神に祈りを奉げる修道女のようであり、神に代わり全てを包み込む聖母のようであり、消え往く世界にただ絶望するだけの民衆のようであり、世界を消すための生贄のようでもあった。
静かな小雨はやがて本降りとなる。
世界を包む優しく厳しい音は激しさを増して、これが最後とでも言わんばかりに、長く長く続くようであった。
長く、永く―――