文化祭の終わりに
文化祭の当日を迎え、校内は活気にあふれていた。
あの日、泣きやんで落ち着いた戸波さんを、先輩と遭遇しないよう駅まで見送った。しかし、それ以降、彼女とはほぼ話をしていない。
OCの時間もここ数日は無かったし、教室では元々ほとんど挨拶程度。
メッセージアプリで、『体調は大丈夫?』と聞いてみたところ、『大丈夫』と一言返ってくるだけで、それ以上は踏み込めなかった。
先輩が戸波さんをストーキングしたことについて、先生への相談も試みた。しかし僕一人で話しても、それほど真剣に取り合ってはくれないのが歯がゆい。
ここ数日気が晴れなかったが、彼女が大丈夫と言うならそれを信じるしかない。
廊下は普段の無機質さと異なり、華やかな飾り付けがなされている。
演劇のセットが組まれた教室内は、普段とは別の空間にいるようで不思議な感覚だ。
演者もそれぞれ衣装に着替え、戸波さんも黒いマントととんがり帽子を身に着けて、見事な魔女に扮している。
彼女の内心がどうなっているのかは分からない。でも、普段通りに動いている姿を見て、ひとまず安心する。
文化祭が開催時刻を過ぎ、生徒や生徒の家族、他校の生徒などが校舎内にあふれる。
うちのクラスの演劇も客足は順調で、上演の各回ともなかなかの混み具合だった。
戸波さん目当ての客も少なくなかったように思う。
この劇で一番盛り上がるのは、魔女がヒロインに対して魔法をかけようとするシーンだ。魔法をかける様子を舞台袖から見守り、タイミングよくBGMを流すのは独特の緊張感があったが、しっかりとやりとげた。
僕も戸波さんもそれぞれ交代休憩の時間はあったが、戸波さんは須藤さん達と校内を回りにいったようで、そこでも顔を合わせることはなかった。
***
無事、文化祭の終了時刻を迎えた。
一条と顔を見合わせ、おつかれ、と声をかける。
今日のために準備してきたことをやり遂げたという達成感があり、こういう疲労感も悪くない。
明日に控える後片付けは面倒だが、今は皆、この後にある後夜祭の方に意識が向いている。
「あれ、凛見なかった?」
須藤さんが戸波さんの行方を友達に聞いているが、誰も知らないようだ。
演劇が終わってしばらくは見かけたが、今は確かに姿がない。
「もうすぐ後夜祭始まるから早く行こー。戸波さんも先に行ってるかも」
「う、うん。分かった」
友達に促されて、須藤さんも渋々ついていく。
そろそろ僕も一条と、後夜祭の会場である校庭へ向かおうかと思ったところ、スマホが何かを着信した。
それは、『教室に残ってて』という戸波さんからのメッセージだった。
校庭から大きな音が聞こえ、後夜祭が始まったと思われる頃。
演劇の舞台設備がそのままになった教室に一人残っていると、しばらく姿を見なかった戸波さんが教室の中に入ってきた。
「あ、どこ行ってたの?」
「それは……別に気にしないで。ここにずっといたら歩美達に連れてかれて後夜祭に行くことになってたと思うから、教室を離れてただけ」
どうやら須藤さん達に後夜祭へ連れて行かれるのを避けていたらしい。
「え、でも何で?」
「……君に言いたいことがあって。メッセージでもいいかなとも思ったけど、やっぱり直接話したかったから」
戸波さんは少しうつむきがちに、視線をさまよわせながら続ける。
「この前は、その……ごめん。あんなことに巻き込んじゃって……」
「そんな、戸波さんのせいじゃないよ」
「それに、色々変なことも言っちゃったし……」
「別に変じゃないよ。全然気にしなくていいし、それに戸波さんの本音が聞けてよかったと思ってる」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
自信をもって答えることで、僕が本気であることを伝えた。
すると、彼女は少し安堵した表情をみせる。
「ねぇ、あの言葉、信じていいの?」
「ん?」
「その……居場所になってくれる、って」
「もちろん。嘘はつかないよ」
その場しのぎであのようなことを言ったわけではない。
目の前にいる女の子の置かれた現状を理解し、それでもなお支えてあげることはできないかと思えた。それを言葉にしただけ。
「そっか……じゃあ、少しだけ付け足してみてもいい?」
「付け足す?」
そう言った彼女は、改めて僕の目の前に立ち、右手を胸の辺りに添えて告げる。
「辻川晴人くんは、私、戸波凛だけの居場所になってくれますか?」
付け足された言葉の意味。
その意味を理解した上で、問いに対する答えには何の迷いもなかった。
「僕、辻川晴人は、戸波凛さんだけの居場所になることを約束します」
それを聞いた彼女は、目元に涙を浮かべながら――
「うんっ、本当に嬉しい……ありがとう」
普段、表情が硬めな彼女からは想像がつかないくらい、それは柔和で素敵な笑顔だった。
その花開くような笑顔は、クールなどという言葉とは程遠く、日だまりのようにとても暖かい。
そうか、僕は今までずっと、この笑顔を見たかったんだな。
過去のことから、心を閉ざし続けてきた彼女。そんな彼女が本当に喜ぶ姿を見ることで、僕自身も救われたような気がした。
戸波さんがこぼれそうな涙を指でぬぐっている時、廊下の外から少しずつ大きくなる足音が耳に届く。
うわ、誰か来たっぽい。
「こっち!」
急に戸波さんに腕をひっぱられ、舞台裏の方へ二人で駆け込む。
僕達が舞台設備の後ろに身を隠した直後に、女子生徒が教室の中に入ってきたようだ。
「あれ、電気ついてるからいるかと思ったのに……どこ行ったんだろ?」
それは須藤さんの声だった。
おそらく戸波さんを探しに来たのだろう。
目の前では、戸波さんが口元に人差し指を立てて、声を出さないようにと無言で伝えてくる。
やがて、教室の外へ足音が向かっていき、再び教室内は僕達二人だけになった。
見つからずに済んで一安心……と思いきや。
隠れることに夢中だったので、すぐ目の前に戸波さんの顔があることに今更ながら驚く。
僕の視線に気づき、彼女は少し照れたように視線をそらす。
彼女の髪から香るシャンプーの匂いが、僕の思考回路を停止させる。
しばしの沈黙の後。
戸波さんは僕の様子をうかがうように、こちらにチラッと目を向けた。
「えっと……実は辻川くんにまだ言ってないことがあるの」
「え、何?」
「私、本当はオーラルコミュニケーションできるんだよ」
「ほんとに!?」
それは確かに初耳だ。
というか、OCの授業での彼女の様子を知っている自分からしたら、にわかには信じられないことだった。
じゃあ、わざと英語ができないふりをしていたということだろうか。
「試してみてもいい……?」
彼女の問いに僕がうなずく。
すると、彼女の顔がこちらへ、ぐっと近づいてきて――
彼女の薄桃色の唇が、優しく僕の唇に触れた。
その感触はとても柔らかく、温かい。心がとろけそうな気分だった。
しばらくして彼女が唇を離すと、はにかんで少しうつむき、上目遣いでこちらを見てくる。
「うまくできてた……かな?」
うまいもなにも、こんなに意識がふわふわするオーラルコミュニケーションは初めてですよ……
「ええ、それはもう……満点です」
「何か口調変わってるよ?」
「……自分でもよく分かんない」
「変なの」
そう言うと彼女は、ふふっと、いたずらっぽく笑う。
言いようのない恥ずかしさと高揚感。
全身の血が沸騰しているかのように熱い。
こみ上げてくる感情が抑えられず、思わず声を発する。
「こっちからも、していい?」
「えっ……う、うん……」
戸波さんは少しだけ慌てたが、やがて目をつぶり、両手を胸の前に当てて静止する。
僕は彼女の両肩にそっと手を置き、首を少し傾け、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
僕達二人にとっては、この舞台裏が表舞台になっていた。スポットライトを浴びることはないけれど。
思えばこの時、いや、それよりもずっと前から、僕は彼女の魅力という魔法にかかっていたのかもしれない。