何か悪いことしたかな
数日後にはいよいよ文化祭。
準備も大詰めといったところで、演劇のクオリティも初期より格段に上がっていた。
BGM担当の僕は、各役者の動きの流れを完全に把握し、的確なタイミングで曲を流せるようになった。
戸波さんの演技にもさらに磨きがかかっており、妖艶な魔女になりきっている。
なるほど、これが美魔女……いや、それだと意味が変わってくるな。
その日のOCの時間に、「今日もまた再婚相手候補が自宅に来るから、カフェに一緒に行かない?」と戸波さんから誘いがあり、「もちろん行くよ」と快諾。
午後六時前、演劇の練習が終わり、いざカフェへ向かおうとした矢先、なぜか文化祭の実行委員の人に呼び止められた。
どうやら、BGMの音量が大きすぎたらしく、隣のクラスから苦情が出たため、どれくらいの音量に調節すべきか話し合いに来たらしい。
すぐに終わるかが分からなかったので、戸波さんにはカフェへ先に行ってもらうことにした。
それほど時間もかからず話し合いが終わり、急いで駅近くのカフェへ向かう。
カフェが見える所までやってくると、入り口付近で何か話し合っている男女が目に入る。
近づいていくと、それは戸波さんと、なんと以前彼女に告白していた先輩だった。
話しぶりからして、不穏な空気が漂っているのはすぐに察知した。
ここは割って入るしかないか。
「戸波さん、大丈夫?」
「あ、辻川くん……」
戸波さんは困惑の色を隠せない。
彼女と対峙している先輩は、僕の乱入に大きく目を見開く。
「君は確かあの時の……! まさか、君らは付き合ってるのか!?」
「いや! そういうわけじゃないですけど……」
「ハッ、そうだよな、君みたいなのが彼女に釣り合うわけがない」
さすがにイラッとした。
確かにその通りかもしれないが、あんたには言われたくない。
すると、戸波さんが険しい顔つきで口を開く。
「今後はこういうことはやめてもらえませんか?」
「いや、あれから色々考えたんだ。あの時は俺の本気度が足りなかったんじゃないか、って」
「いえ、そうじゃなくて、今後は私の後をつけてくるのはやめてもらえませんか?」
なんだか話がかみ合っていない。
というか、戸波さんをストーキングしてきたのは大問題じゃないか。
こんな人の相手をしていても埒があかない。
それならば。
「行こう!」
僕はとっさに戸波さんの肩を叩き、ここから一緒に逃げるように促す。
彼女も僕の意図をすぐにくみ取り、一緒に駆け出して先輩の元を離れた。
後方で先輩の呼び止める声が聞こえる。追いかけてきているようだが、構わず走り続けた。
しかし、このまま振り切れるとも思えない。
どうすべきか。
道の角を曲がったところに、コインパーキングがあった。
即座に、パーキングに駐車してある車の方へ向かっていき、車の陰にしゃがんで隠れるように戸波さんを誘導した。
うまく身を隠せたのだろうか。
少しだけ頭を上げ、車の窓ガラスごしに周囲を確認する。
僕達を見失った先輩が辺りを見回しながら、少しずつコインパーキングから離れていった。
「なんとか逃げ切れた……」
「はぁ、あの人しつこいなぁ」
戸波さんがため息混じりにつぶやく。
これほど執念深いとなると、簡単には諦めていない気がする。
まだその辺をうろうろしている恐れは十分あるし、見つかったら厄介だ。
ここは、彼女の安全を第一に考えた方がいい。
「思ったんだけど、いつものカフェが使えないから、今日のところは家に……そうか、家には帰れないんだったら、戸波さんの最寄り駅で滞在できそうな所に――」
「辻川くんは帰っちゃうの……?」
彼女の表情を見てハッとした。
とても心細そうな顔。
そこには普段の落ち着いた様子の彼女はいなかった。こんな戸波さんの姿は見たことがない。
そこで考えを改め、周辺を見渡す。
すると、斜め向かいのカラオケ店が目に入った。
いつものカフェは先輩にバレて使えないけど、あそこでも十分に役割を果たせる。
「あのカラオケに行こう」
僕達は先輩が辺りにいないか慎重に確認しながら、カラオケ店へ向かった。
***
カラオケ店の一室に入り、ようやく緊張が少し和らぐ。
戸波さんも安心したのか、ソファに座りゆっくりと息をはいた。
僕も彼女の隣に腰かけ、二人して頭をソファの上部にゆだね、なんとなく斜め上を見つめる。
歌を歌うのでもなく、ドリンクバーにドリンクを取りに行くのでもなく、ただじっと。
薄暗い空間で、言葉を交わすことなく、意識が宙に浮かんでいるかのような時間。
ディスプレイに流れているミュージックビデオの小さな音だけが、かすかに耳に届いた。
「私、何か悪いことしたかな……?」
ふと、戸波さんが消え入りそうな声で言葉を発した。
「昔からそう。中学の頃、仲良くもない男子から告白されて、断ったことがあったよ? でもそれって悪いこと? それでSNSに悪口書かれたり、その男子と仲良くしてた女の子のグループから意地悪されたり……何でそんなことされなくちゃいけないの?」
彼女の言葉に込められた悲痛な叫び。
理不尽さにひたすら耐えてきた彼女の本音だった。
「今回だって、家に帰れないから、あのカフェを見つけたのに。あの先輩のせいでカフェにも行けなくなっちゃった。何でみんな私から居場所を奪うの?」
聞くだけでもつらいのに、本人の苦しみはどれほどのものか、想像もつかない。
「なんかもう、やだ……」
今にも泣き出しそうな彼女の声。
黒く重いものに押し潰されそうな彼女に、一体何をしてあげられるのか。
僕ができることなんて、たかが知れている。
彼女を救うことなんて、到底できないかもしれない。
でも、それでも。
「僕が、居場所になってあげられないかな」
戸波さんの方を見据え、穏やかに包み込むような口調で告げた。
彼女はこちらに顔と意識を向け、静かに口を開く。
「……君もなの?」
彼女の声音には当惑と、少し落胆の色が混ざっているような気がする。
瞬時にはその言葉の意味が分からなかった。しかし、彼女のその声と表情から、言葉の意味は自ずと推測できた。
彼女の脳裏に、彼女が過去に関わってきた男達の姿がよぎったのかもしれない。
その瞳はまるで「君もあの人達と同じなの?」と訴えているかのようだった。
僕は彼女の瞳をしっかりと見つめ、言葉を紡ぐ。
「付き合ってほしいとか、そういうことを言いたいんじゃないよ。ただ、戸波さんがつらくて苦しい時に、話を聞いてあげられたら、少しでも元気になってもらえたらいいなと思ったんだ」
わずかでも、彼女の力になってあげたい。
「僕じゃ頼りないかもしれない。でも、何もせずにはいられないんだ。戸波さんにはもっと笑ってほしい。そう思える女の子なんだ」
純粋な気持ちを言葉に乗せる。
「だから、助けが必要な時はいつでも言ってほしい。僕にできることなら何でもするから」
少しでも、彼女の心に届いてほしい。彼女の背負う重荷を軽くしてあげたい。
黙って僕の言葉を聞いていた彼女だったが、かすかに声が漏れる。
「……っ、なに、それ……」
彼女は先ほどまで、泣くのをこらえていた。
でも今は、目元に湛えた涙が抑えを失い、頬を伝って流れ落ちている。
そしてしばらくの間、彼女の泣きじゃくる声がカラオケルーム内を包んだ。