放課後の隠れ家
季節は秋に差しかかり、文化祭の準備に取り組む時期となった。
うちのクラスは演劇をやることとなり、役割分担をどうするかが話し合われた。
ここで一番注目されるのは、もちろん劇の配役だ。
戸波さんをヒロイン役に推す声が多かったが、彼女は断固として拒否。
代わりに彼女は悪役の魔女をすんなり受け入れた。
すると、魔女が美しすぎる、魔術の実験台にされたい、と男子の間で異様な盛り上がりを見せ、ヒロイン役の女の子が目立たない感じになって少し気の毒ではある。
***
その日も当日に向けての準備で、放課後に残って作業をしていた。
午後六時を回り、作業を止めて皆帰り始め、僕も帰宅の途につく。
駅までの道を歩いていると、前方に戸波さんと須藤さんの並んで歩いている後ろ姿が目に入った。
方角が一緒なので、少し距離をとりながら二人の後を歩いていると、須藤さんが戸波さんに手を振りながら駅とは別の方向へ歩き出した。
戸波さんが一人になったので、隣まで近づいていき声をかける。
「おつかれ、魔女様」
「……カエルにしてやろうか」
「冗談に聞こえなくて怖い」
「雰囲気出てるでしょ?」
ふふんと言わんばかりにドヤる戸波さん。
どうやら魔女役を意外とお気に召しているご様子。
「帰り道で会うのって珍しいよね」
「そうかも。このまま帰るの?」
「まあ、そうだね」
「ふーん、そうなんだ……」
僕の返事を聞いた彼女は、何かを思案しているのか沈黙している。
駅の入り口が見える場所まで到着したところで、戸波さんが口を開く。
「ねぇ、ちょっとだけ時間作れない?」
***
日もすっかり落ち、空は暗闇に包まれていた。
何もなければ電車に揺られている時刻だが、僕は戸波さんに導かれるまま駅近くのカフェへと入店し、対面で座っている。
まさか、戸波さんからお茶に誘われるとは。
彼女がホットコーヒーを注文。それを見て、なんとなくカッコつけて普段は頼まないホットコーヒーを注文してしまった。なんか逆にダサいぞ、自分。
「駅の反対側にこんなカフェがあったんだね。全然知らなかった」
「そこがいいんだよね。うちの生徒にはあまり知られてないから、落ち着いた雰囲気だし」
「結構来るの?」
「うん、ときどき」
そう言って戸波さんはカップを手に取り、コーヒーを飲む。
学校の外で彼女と向かい合っているこの状況はなんだか不思議な気分だ。
ふと、彼女から薦められた本のことを思い出す。
「そういえば、『わかりやすい二重スリット実験』っていう本読んだよ」
「あ、読んでくれたの?」
「うん、面白かった。あんなに変化するんだ」
「でしょ! 不思議だよね」
戸波さんが少し身を乗り出し、声のトーンが高くなる。普段の落ち着いた様子とはずいぶん対照的だ。
メッセージ上ではあまり分からなかったけど、本について語る時はこんなに熱が入っていたのか。
それから、本の内容についてあれこれ感想や意見を言い合った。
いつもはそれほど表情を崩さない彼女が、こんなに笑顔を見せてくれる。心が温かくなり、まるで夢を見ているようだ。
さらに、最近思ったことや観た動画のことなど話は多岐にわたり、少しの滞在のつもりがいつの間にか時間が過ぎていた。
スマホが振動し、何を受信したか確認した際に時刻が目に入る。
「あ、もうこんな時間か。そろそろ帰る?」
「ううん、まだ帰らない」
「え、もう8時過ぎたし、家族が心配するんじゃ……」
「今日はまだ帰りたくない。……向こうはお楽しみだと思うし」
そう言った戸波さんは、先ほどまでの楽しそうな表情が一転して憂いを帯びていた。
「どういうこと?」
「お母さんがうちに男の人を連れてきてるの。今帰ると会うことになるから」
話の内容からしてこれ以上踏み込むのはマズそうだと感じた。
何を言うべきか迷っていると、彼女は伏し目がちに重い口調で説明を続ける。
「うち、お父さんが早くに亡くなって、母子家庭なの。お金にそんなに余裕が無くて、お母さんが頑張って働いてるんだ」
話しながら、彼女はコーヒーカップの受け皿の縁を指でなぞる。
「そんな時に、お母さんの前に結婚したいって人が現れて。お母さんも最初は迷ってたけど、これで私に少しでもいい暮らしをさせてあげられるならって、再婚の話を進めたの」
そこで何かを思い出したのか、彼女が眉をひそめる。
「でもその人、再婚する直前に『別れて欲しい』って言ってきて。何で急にと思ったら、他の女性のところに行っちゃったみたいで」
戸波さんの沈痛な面持ちを前に、僕はどのような表情をすればいいか分からなかった。
「なんなの、って思った。あんなに本気そうな顔してたのに。男って結構適当なんだな、って」
男に対する怒りと失望感を彼女が吐露する度、自分のことではないのになんとも心苦しい。
「この前、私に告白してきた先輩も『本気なんだ』って言ってた。でも私は心の中で、『一回しか会ってないのに何で本気になれるの?』って思った。それですぐ気づいたよ。ああ、この人も結婚から逃げたあの男と同じなんだ、って」
彼女の男に対する見方は、そのような過去に大きく影響を受けているのがはっきり分かった。
「今日、お母さんが会ってる人も、新しい再婚相手候補なの。『前にあんなひどいことされたんだからやめたら』って私は言ったけど、『もしちゃんとした人だったら、凛にとっても良いことなんだから』ってお母さんが」
戸波さんのお母さんの思いもひしひしと伝わってくる。自分のためだけではなく、娘のことを大事にしたいという気持ち。
「私も今度の相手候補に会ったよ。優しい人だった。でも、前みたいにまた裏切られるんじゃないかって思うと……」
戸惑いの色を隠せない彼女。過去への懸念から、現状をどのように捉えるべきか分からず悩んでいる。
彼女が話をしている間、僕はうなずくことしかできなかった。
大人だったら、何か的確なアドバイスができるのかもしれない。でも正直、何と言ってあげればいいのか、分からなかった。
これほど大事な話をされているのに、黙り続けたままなのは不誠実だと思うのに。
自分はあまりにも無力だった。
「そうだったんだ……そんなつらいことが……」
「あ、ごめん。私ばっかり話しちゃったね」
「いや、そんなことないよ。教えてもらえてよかった。でもそれじゃあ、帰りたくないよね……」
「ほんとにね。何が正解か分かんない。数学みたいに答えがはっきりしてたらいいのに」
それから一時間ほどが経過。戸波さんのお母さんから、相手の男性が帰ったから凛も家に帰ってきて、と電話があった。
それでようやく戸波さんも帰宅する気になり、僕と彼女はカフェを出て駅へ向かう。
彼女とは乗る線は同じだったが、進行方向は反対だった。お互いが乗る電車は同じホームの両側の位置に到着する。
二人でホームまでやってきて、どちらかが乗る電車が到達するまで話し続けていた。
戸波さんが乗る電車が先に到着したので、別れを告げて彼女が電車に乗り込む。
窓から戸波さんの姿が見えたので軽く手を振ると、彼女もそれに気づき少しだけ手を振ってくれる。
その時の彼女がどことなく寂しそうに見えたのは、僕の思い違いだったのだろうか。