僕と彼女の唯一の接点
「試してみてもいい……?」
次の瞬間、彼女の唇が僕の唇に触れた。
初めてのキス。
濃密な数秒間、僕は柔らかくて心地よい感覚に溺れた。
***
「戸波さん、今日も可愛いな……」
隣にいる友達の一条が独り言のようにつぶやく。
彼が見つめているのは、同じクラスの戸波凛という女の子。
吸い込まれそうなほど美しい瞳に、整ったフェイスライン。滑らかな純白の肌と艶やかなロングヘアの黒髪が鮮やかなコントラストを成している。
そして、女性の中では長身でスタイルもよく、クールビューティーという表現がぴったりだ。
しかも、大人の女性のような完成された美ではなく、あくまで高校一年生という成長過程。美しさと可愛さが同居しているのはもはや反則的と評する声まである。
などと列挙してきたこれらは、周囲の男子の共通認識。
そんな注目の的の戸波さんなのだが、実際に彼女にやすやすと声をかける男子はほとんどいない。
名前の通り、凛とした佇まいの彼女は、どこか気軽には話しかけづらい雰囲気をまとっていた。
一条がこちらへ顔を向ける。
「辻川はOCで戸波さんと一緒だもんなぁ。いいよなぁ」
僕のことをうらやましがる一条。
僕も他の男子生徒と同様、戸波さんとの接点はほぼないのだが、唯一彼女と接する機会がある。
それが、オーラルコミュニケーション、通称OCの授業だ。
OCは英会話の授業で、出席番号順に男女がペアとなって一年間英会話の練習相手となる。
出席番号順、つまり名前の順に男女を並べた際、ちょうど辻川晴人の相手になったのが戸波凛だった。
「まあまあ、来年はペアになるかもしれないし」
「ちょっ、来年戸波さんと同じクラスになるか分からないし、俺の名字的に可能性ほぼゼロだろ!」
そう言って、一条はがっくり肩を落とす。
確かに、今まで通り出席番号順なら絶望的。残念。
***
OCの時間は週に一回で、今日が三回目。つまり、戸波さんと接触するのも三回目ということになる。
OCの開始時間が迫り、テキストなどを持って専用の教室へと移動する。
教室に入り、縦に三列あるうちの真ん中の列、一番後ろの長机を見ると、既に戸波さんが着席していた。
僕も彼女の左隣の席に着席し、軽く声をかける。
「今日もよろしく」
「うん」
僕の方へちらっと視線を向けた彼女は、一言返事をして、またすぐ正面に視線を戻した。
思わず彼女の横顔に見入ってしまいそうになるが、不審に思われそうなのであわてて前を向く。
その後は会話することもなく、OCの授業が開始される。
こんなクールな戸波さんなのだが、僕は知っている。
おそらく、彼女と親しいごくわずかの人以外は知らないこと。それは……
「アイ……ゆーじゅありー、わっち あ もび、むーびー……」
戸波さんは壊滅的に英会話が苦手なのだ。
見た目の雰囲気的には英会話とか得意そうなのに。
英会話の授業なので、皆たどたどしくなるのは当然なのだが、普段の彼女の凛々しい感じとあまりにもギャップがあり、少しほほえましい。
英語が分からなくて、手元にある紙をちらちら見ながらあたふたする戸波さん。
こんな姿を見られるのはここしかない。
「マイ ふぁぼりて……」
「favoriteね。ネットでは確かにファボって言うけど」
「ゴー、えへ……あへ?」
「Go aheadね。どうぞって意味」
「アイ わ、うぉんと ゆー……」
途中で止まって手元の紙に目を落とす戸波さん。
「その一文を実際に使うときには、後に続くto以下をすぐ言った方がいいと思うよ」
「どういうこと?」
「言いにくいけど、I want you.だけだと、男女の身体の関係を求めてるって意味になるから」
「……」
彼女は目を細め、汚らわしいものを見るような視線を向けられた。
いや、アドバイスしただけなんだけど。
***
「ねぇ、辻川くんって英語得意だよね」
OCの授業が終わって席を立とうとしたところ、戸波さんから不意に聞かれた。
「まあ、好きな教科だから、そこそこ得意な方かな」
それにしても、戸波さんの英語力は割と心配になる。
英会話のあの出来具合だと、おそらく文法やリーディングなどの方もかなり苦手なのではないかと。
通常の英語の授業で、予習してきた英文の和訳を発表する時がある。今後彼女にも順番が回ってくるはずだが、そういう時はどうするんだろう。
「連絡先教えて。英語で分からないとこあったら聞きたいから。逆に数学とかだったら教えられるし」
僕に頼る気満々だった。いやまあ、いいけども。数学も教えてもらえるみたいだし。
最近、彼女は数学の小テストで成績優秀者として発表されていた。
英語があのような状況でどうやって入試を乗り切ったのか考えると、数学などの理系科目の方でカバーしていたのかもしれない。
クラスの皆は、戸波さんはすごいな、勉強もできるのかと感心していたので、英語も当然できると考えているはず。
だからこそ、僕も英会話でのギャップに驚いたけど。
「いいよ。結構英語苦手そうだよね」
「うん、だって日本人なんだから英語勉強する必要ある?」
出た、英語嫌いな人が言いがちなやつ。
「オーラルコミュニケーションってそもそも何? どういう意味?」
「オーラルは口だから、口頭で意思伝達するって意味だね」
「ふーん、そうなんだ」
聞いてきた割に、たいして興味もなさそうな返事をする戸波さん。
それにしても、戸波さんから連絡先を聞かれるというのは驚きだ。彼女の連絡先を聞きたくても聞けていない男子生徒は多いだろう。一条が知ったら何を言われるか……
「そういえば、須藤さんから英語教えてもらえばいいんじゃ。仲良さそうだし」
「歩美も英語苦手なの」
「ああ、なるほど」
仲の良い女友達より自分が選ばれた理由はここにあるわけね。
***
戸波さんの連絡先を手に入れてしまった。
個人的には、彼女のことを特別意識しているつもりはなかったのだが……いやこんなことを考えている時点で意識しているようなものか。
ここからどんな会話が始まるんだろう、などと想像を膨らませたりもした。
だが、実際にスマホのメッセージアプリでやりとりが始まっても、自分が予想していたような展開にはならなかった。
彼女が解けない英語の問題を聞いてきたり、問題文を撮った写真を送ってきたりしてそれに答えるのだが、それ以外のやりとりはほぼ皆無。
ためしに「休みの日とか何してるの?」と雑談を振ってみるが、「たいしたことはしてないかな」と適当に流されてしまう。
そんな淡々としたやりとりの繰り返し。
学校でも会話するのはOCの時間だけだし、彼女にとって僕は苦手な英語を教えてくれる便利屋みたいなポジションに落ち着いているのだろう。
とはいえ、戸波さんに頼られる状況というのは悪いものでもない。
彼女が英語を苦手だと周囲に知れ渡ったら、彼女に教えたがる男子は多いはず。普段、話しかけにくい彼女に近づく理由ができるのだから。
僕より英語ができる人はたくさんいるし、そうなれば、彼女が僕に頼る理由はなくなる。
そう考えると、彼女が英語を苦手なことはなるべく人に知られない方がいいのかも、などと自分本位なことを考えてしまう。
なので、今置かれている状況に特に不満はない。
自分みたいな普通の男が彼女と接点を持てているだけで幸運なのだから。