20歳 夏
福岡県は修羅の国と呼ばれている。
これは、北九州のJR小倉駅で手榴弾が発見されたというニュースがあったこと (どうやらオモチャだったらしい)や、元ネタである北斗の拳の「修羅の国」が海を越えた先にあることから、本州の人々からみた九州地方への揶揄の意味を含めたことが原因だろう。
だが実際福岡は治安が悪い。犯罪率や飲酒運転率は高いし、北九州には指定暴力団事務所があるので発砲事件も起こる。高校時代に友人が大学を受験するために北九州のホテルに泊まっていたところ深夜に発砲音を聞いたという話をされたこともある。他にも警察官の使う方言「なんばしよっと?」が"None but shot (撃つしかない)"に聞こえて外国人が驚く、といったジョークもある。
こんな治安が悪い福岡県で私が実際に体験したエピソードを紹介させていただく。
この日、私は高校時代の友人2人と天神で飲んでいた。天神は福岡県で最も主要な都市であり、県庁所在地である博多市よりもむしろ栄えている印象だ。天神駅から出ればすぐに濃厚な豚骨スープの香りが漂う。天神にはとにかくラーメン屋台が多い。前に数えたときは50個をゆうに超えていた。それら全てのラーメンが絶品であり、ハズレはほとんどない。そして何より安い。福岡のラーメンの平均価格は600円を下回り、中には駅前の一等地に店舗を構えているにもかかわらず一杯280円で提供する店もあった。
そこから少し歩けば全国でもかなり大きい規模である中洲の風俗街にぶつかる。この中洲風俗街の場所がひどい。天神駅から巨大ショッピングモールであるキャナルシティに最短距離で向かおうとすれば必ずこの近くを通ることになる。一本でも道を逸れればそこは男と女、大人の世界である。数メートル進むごとにスーツを着込んだキャッチの男性が両手をわきわきさせながら、「お兄さん、おっぱいですか?」などと声をかけてくる。だがここは福岡人、「いや、ラーメンです」と答えれば美味いラーメン屋を教えてくれる。福岡県民はとにかくラーメンが大好きなのだ。
話が逸れた。とにかく私はこの天神で友人たちと浴びるようにお酒を飲み楽しんでいたのである。
店に入って1時間は経過し、相当に酩酊していた私がトイレから帰ってくると、私の席に見知らぬグラスが置いてあった。小ぶりなそれはどう見てもショットグラスであり、中には赤茶色の液体がなみなみと注がれていた。
これはいったいなんだと友人に訪ねるが、麦茶だ、酔ったお前のために頼んでおいたなどと返ってくる。そんなわけがあるかと少し口をつければ鼻を突き抜ける強力なアルコール。どう考えてもウイスキーである。それもストレート。
私があまりに強烈な味と香りに顔をしかめるのを見てケタケタと楽しそうに笑う友人2人。外道である。そしてこのウイスキーを一気飲みしろなどと囃し立てる。
「もう頼んだものだしどうせ飲まなきゃいけないんだ、ちゃっちゃと片付けようぜ」
「お前がそれ飲まないと帰れないだろ、ちゃんと飲んでくれよ」
勝手に頼んでおいてこれである。このときほどコイツらを恨めしく思ったことはない。
「少しずつ飲むからアルコールを感じて飲めなくなるんだ、一気にいけばなんとかなる」
アホである。いやコイツらがアホというだけではなく、酔っ払いはすべからく皆アホである。人間は酒を飲めばアホになるのだ。酒は飲んでも飲まれるななどという言葉があるが、量の多寡は関係ない。たとえ酔っていまいが飲んでいれば飲酒運転・酒気帯び運転になるのと同じで、一滴でも飲んだ人間の言葉は少しも信用してはいけないのだ。果たして自分もそのアホであった。友人の言葉になるほどそういう考えもあるか、などと感心しぐいっとグラスを傾けた次の瞬間に猛烈な後悔に襲われた。むせるよなアルコールの臭気が口から鼻から抜け出てゆき、胃の中がかぁっと熱くなるのを感じたと同時にトイレに向かって走り出す。が、間に合わなかった。
口の中からアニメで言えば虹色の加工処理がかけられる液体が勢いよく飛び出してきた。さらに、慌てて口を押えたのがよくなかった。圧力を加えられた液体はより圧縮され、抑えた指の間からスプリンクラーのように噴出されたのだ。店内は当然大惨事である。自分で拭いてくれとタオルを渡してきた店員の引き攣った顔が忘れられない。
さて汚れを全て拭き終え、席に戻って口直しをしながら友人たちに文句を言い始めたそのとき、横の席の男性たちに胸倉を掴まれ立たされた。
「あんたので汚しといて謝りもしないのはどうなんだ? 席に座る前にすることがあるだろ」
正論である。店内は綺麗に清掃したが彼らのことは完全に失念していた。まさかバリケードを挟んだ先にまで飛散していたとは。
しかしこの男性たち、よく見ると全く汚れていない。液体が服についたのなら染みができてそうなものだが、見当たらない。いやでも目立たないところについているのかもしれない、不快にさせたのは自分だと誠心誠意謝罪した。具体的には土下座した。地面に頭を擦りつけまくった。だって怖いんだの。この間友人たちは声を抑えて苦しそうに笑っていた。本当に許せない。
そのあとお冷と料理を頼み口直しを行ってさあ帰ろうかと会計に向かう。レジには先ほど引き攣った顔でタオルを渡してきた若い男性が立っている。このお兄さん、私の顔を見るとまた顔を引き攣らせて、
「あの、先ほどのグループの方たちが、会計はあなたに払わせるようにと……」
そう言って渡された伝票には3万円の文字が。どうやら会計を私に押し付けてそのまま帰ったらしい。立派な無銭飲食である。今思えば私が支払う必要は全くないのだが、払ってしまった。罪の意識というもののせいだろうか。いや、ただただ私がアホだからである。飲めもしないウイスキーを一気飲みしてゲロを噴射するアホだからでしかない。ていうか5人で飲んで3万てどんだけ飲み食いしたんだ。ウチら3人で8000円だぞ。
嘘のように薄くなった財布をポケットにしまい、店から出るとすぐに囲まれた。先ほどの男性グループである。逃げられないよう四方を固められる。友人たちの方に目を向けるがどこにもいない。逃げたようだ。
「服、汚れたんでクリーニング代欲しいんですけど」
囲んでいるウチの一人に声をかけられる。飲み代を支払ったことを伝えるがそれとこれは別だろうという返事。いくらかと問えば3000円払えとのこと。財布の中にはぴったりと3000円が入っていた。仕方なく払うと、男性グループはそのまま離れていった。解放された安堵で手を膝についてふぅ~っと大きく息を吐いていると、友人たちがニヤニヤと笑いながら近づいてくるのが見えた。いやコイツらは友人じゃない。ゴミとカスとクズを練って人間の形にしたものだ。思い出したせいでなかなかに腹が立ってきた。
まあそんなこんなで財布がまっさらになってしまった私は、連れに電車賃を借り、家に泊まってまた飲み明かしたのであった。
20歳になった夏のころの思い出である。




