彼が黒髪だったから
侯爵令嬢の私にある日、王城への招待状が届いた。今年十二歳になるという王太子様の婚約者探し兼ご友人探しのためのお茶会が開かれるというものだった。
私は瑠璃色の髪と目の、顔立ちは頑張ったら上くらいになるかなってくらいの容姿。両親や屋敷のみんなが可愛いと褒めてくれるけどそれは身内だけだと知っている。美人というわけでない私が、王太子様の婚約者に選ばれるはずもないし、そもそも王妃に興味はない!
両親にもただ楽しんでおいでとだけ言われた私は、とても気楽にそのお茶会に参加することができたのだった。
お茶会の場所は王城にある庭、薔薇が好きな王妃様のために王様が作ったという薔薇が咲き誇る綺麗なところ。そこに置いてあるテーブルには滅多に見られないような美味しそうなお菓子があった。だが何十人ものご令嬢とご子息はお菓子なんて目もくれず、王太子様を囲んでいた。特にご令嬢たちの勢いがすごかった。
王太子様は私の二つ上の歳で、同じ人間かと疑うほどに綺麗な顔立ちをしていた。太陽の光のような淡い金髪に碧眼の、まさにおとぎ話にでてくる王子様って感じのきらびやかな人だった。
あまりにも眩くて目がつぶれそう!
美形免疫のない私は薄目でしか見れない。
周囲には美形だと思われる子息がちらほらいるのだが、王太子様とは比べ物にならない。あの美貌に高貴な身分なら令嬢たちが色めき立つのもわかる。
とはいえ、私は王太子様に好かれようとかそんな気持ちは全くない。
王太子様よりもお菓子の方が気になっているほどには興味がなかった。だけど、周りに合わせた方がいいかと思った私は、特に何かするわけでもないが一応その中に混じっていた。
そしてしばらくして、私の体調がその場所にいるにつれだんだん悪くなっていったのだった。
原因ははっきりしている。ご令嬢たちがつけている香水のせいだった。
野外にもかかわらず、むせ返るようなひどい匂い。強すぎる香りが周囲の薔薇のいい香りを消してしまっているどころか混ざり合って悪臭と化していた。
みんななんで平気なの…?
周りの令嬢たちが王太子様を巡って鋭い目つきで牽制しあっているのに、私は立っているのに精一杯だ。
気を抜くとすぐに倒れてしまいそう。
ぐわんぐわんと頭が揺れているような、そんな気持ち悪い状態。座り込みたいけど、周りの迷惑になりそうなこんなところでは無理。少し離れた場所に向かいたいけど動けない。顔から血の気が引いて真っ青になっているだろうことが自分でもわかった。だが、周囲は王太子様に夢中で私のこの状況に誰も気づいていない。
もう限界…
倒れそうになった瞬間、誰かにガシッと腕を掴まれた。
「大丈夫か?」
全然大丈夫じゃない。
そう思いながら見上げると金色の瞳と目があった。
強面な顔で心配そうに顔を覗きこんできた、黒髪の、私より年上と思われるその人。
強面の顔の彼、平常時ならその怖い顔にびびってしまうだろうが、今はそれどころではなかった私は助けてという気持ちを込めて小さく首を横に振った。
早くこの場所から離れたい!
その私の様子に頷いた彼は私の背に手を添え、近くにいた騎士に「彼女が具合悪いみたいなんだ。休める場所ってありますか?」と尋ねた。どうやら休憩室というものがあるらしく、その場所を聞いた彼は一言断りをいれ、ドレスを着て重量があるはずの私を軽々と横抱きにしてその休憩室まで連れて行ってくれた。
歩けないほどに気分が悪いということに気づいていたからそうしてくれたのだろうが、私はただ恥ずかしく、申し訳ない気持ちでいっぱいであった。
休憩室につくと、そこにベッドはなく代わりに大きいソファがあった。
そのふかふかのソファに私を寝かせてくれたが、少し回復したこともあり、感謝を伝えたくて起き上がった。彼は近くにあった椅子を持ってきて座った。
「ありがとうございます」
「うん、それより気分は?横にならなくて平気か?」
「あ、大丈夫です。だいぶマシになりました」
「そうか、ならよかった」
あの悪臭のする空間から離れたということと、揺らさないように彼がゆっくりとした歩みで進んでくれていたためにこの休憩室につく頃には体調は先程よりは良くなっていた。
彼はホッと息を吐き、安心したようにへらりと笑ってみせた。強面の顔だが、意外にも可愛らしい笑顔だ。
その笑みをぼんやりと見入っていた私はあることを思い出して慌てて尋ねた。
「あの…」
「ん?どした?」
「王太子様とお話しなくてもよかったのですか?」
このお茶会は王太子様と親交を深める絶好の機会だ。その機会を邪魔してしまったと思い落ち込むと、彼はポンポンと私の頭を優しく叩いた。
「気にすんな!それにあのくっさい空間にいるのも辛かったからな、俺的にはラッキーだった」
「そ、そうですか」
全く気にしてない様子にホッとした。
その後、休憩室にやってきた王城のメイドさんと入れ替わるようにして彼は「お大事にな!」と、私の頭に手を乗せ、お茶会の場に戻っていった。それをぼんやり見送った私は、彼が去っていってしまってしばらくしてから気づいた。
私、彼の名前聞いてない…!
しかも自分も名乗ってない。
今からでも、聞きに行くべき?…でもまたお茶会とかがあれば会えるはず。
私はそう考え、その時はソファに横になって寝入ってしまった。
それから数日経ち、彼がヴェルダン領の者ーー魔物から国を守るため滅多に領地から離れない人ーーだと知ってショックを受けることになる。
ヴェルダン領は辺境地であり、王都からかなりの距離があるため私から会いに行くことは叶わない。超上級魔法である転移魔法が使えたら話は別なのだが、私に使えるはずもなく。
だから次会えるとしたらいつになるのかわからない。ヴェルダン家も来るという建国記念日は、いつも辺境伯爵と夫人だけ来ていたというし、もしかしたら彼が辺境伯を継ぐまでは会えない可能性もあった。
だけど、いないとわかっていても、お茶会に参加すると必ず彼の姿を探してしまうし、同じ黒髪の人を見つけるとじっと目で追ってしまっていた。
たった一度だけ会って助けてもらっただけの関係。それでもそういうことをしてしまうくらいに彼のことが気になっていた。
それは私の淡い初恋だったのかもしれない。
そんな初恋をしてしばらく経ったある日のこと。
父が機嫌よく、満面の笑みを浮かべて帰ってきた。そして出迎えた私の顔を見てこう言ったのだ。
「アリシア!パトリッジ公爵家のシリル様との縁談を決めてきたぞ!だから頑張るんだ!」
「え?」
頑張る、の意味がわからず首を傾げた。
そして、次の日その人物がうちにやってきた。
「シリル・パトリッジと申します」
私は彼を見て気づいた。父の言っていた頑張る、の意味を。
私はルーベルト様を思い出し、よく黒髪の方を
見つめていた。
まさかこんなことになるなんて。
お父様、もしかして勘違いしたの!?
彼は私の初恋の相手、ルーベルト様と同じ黒髪を持つ人物だった。
§
パトリッジ公爵家は、代々優秀な魔法使いを輩出していた。そのパトリッジ公爵家で有名なのは、辺境伯爵様の元へ嫁いだ氷魔法が得意な『氷の妖精女王』と呼ばれたジェシカ様。つまり、ルーベルト様のお母様。
一人娘だった彼女が辺境伯爵様の元へ嫁ぐため、従弟であった現パトリッジ公爵様を周囲に納得させるほどに自らの手で後継として鍛え上げたことはひっそりと語られている。
ジェシカ様に鍛えられた現パトリッジ公爵様は誰にも負けぬほど優れた魔法の腕を持ち、今や魔法師団長になっている。だが、その魔法師団長様よりも魔法の才能があると言われているのがシリル・パトリッジ様だった。
私がいつも目で追っていたその黒髪。
はっきりとした切れ長の瞳はアメジストみたいな紫色。お茶会で見た王太子様と引けを取らないほど、端正な顔立ちは息を飲むほどに美しい。だが、その眼差しはひんやりとしていて威圧感を覚えた。
なぜ、こんなことに…
原因は私が黒髪を見つめていたことと、それを見たお父様が、黒髪の人物であるシリル様に恋をしたと勘違いしたことだろう。
それにしてもなぜパトリッジ公爵家と縁談するなんて了承を得ることができたのか。うちは侯爵家だが、それほど名高いわけでもないのに。
チラリと目の前に座る、ひんやり無表情な彼を見るに婚約をよく思っていないことが伝わる。
な、何を話せばいいのか。とりあえず、縁談に積極的でないから安心してほしいと伝えたい。
混乱と緊張で指先までもが震えて、紅茶がうまく飲めそうにない。言葉を発せずじっと固まっていると、うちの庭園を案内する方向へ話が進んでしまっていた。しかも二人きりで。
「では、アリシア。案内よろしくね」
楽しげなお母様に引きつった笑みを返す。
そのまま両家の親は去って行ってしまった。
残された私たちの間には沈黙が落ちる。
気まずい。
「あ、えっと、庭園に案内させていただきますね」
震える声でそういい、案内を始めると彼は黙って私の後をついてきた。その間ずっと沈黙が続いている。周囲には色とりどりの花が咲き誇っているのに、見る余裕もなく私は必死でこの縁談をどうにかするか考えていた。
「…この縁談は」
沈黙を破ったのは彼だった。
「貴方は、この縁談を望んではいないのでしょうか」
「はい!望んではないです!」
縁談をどう断ろうとか考えていたせいで、つい全力で肯定してしまった。言ってすぐ顔から血の気が引いていく。しまった、これはかなり失礼なのでは。
「違うんです!シリル様には私ではなくもっと相応しい方がいるってことで!シリル様はその、素敵ですし、それにーー」
私には、好きな人がいるんです。
それは口に出さずに止まる。不自然な切り方をしてしまった私を、シリル様はじっと見つめてくる。その整った顔で見つめられ、私は視線をおろおろと彷徨わせた。
「君は僕を見て、好きになったりしないの?」
「??」
急に何の質問だろう。
突然の質問に私はぽかんと口を開けた。
「君は、違うのか」
シリル様は一人納得して先程までの無表情を崩し、ふわりと笑みを浮かべた。
その美貌から作り出された眩しすぎるその笑みに私は、つい目を見張って固まる。
その眩しい笑みはすぐに無表情へ変わってしまった。え、幻?
なんかすごいものを見たような気がする…!??
混乱と驚きで動かない私の手を何を思ったかシリル様は手に取り、そこへ口付けた。
「!!??」
声も出せないくらいに驚いた。一瞬心臓が止まった気がする。
顔を真っ赤に染めた私に、再びシリル様はあの眩しい笑みをふわりと浮かべた。
「うん、君がいい。ねぇ、僕の婚約者になって」
「…はい?」
突然のことに思考が追いつかない。
え??今、なんと…?
「了承してくれて嬉しい」
「えっ、ぎゃあっ!?」
いきなり抱き上げられ、つい淑女らしくない悲鳴を上げてしまった。
でも待って、本当に待ってほしい。今の「はい」は了承ではなく確認のための返答だから!
頭の中ではそう言い訳できるのに、パニックになりすぎて言葉として発することができない。
パクパクと声にならない声を上げる私にシリル様は嬉しそうに甘い笑みを浮かべていた。
私の悲鳴のせいか近くまで来ていたシリル様の両親は驚いたような顔をされており、私の両親は微笑ましそうに私たちを見ていた。
どうしてこうなったのだろうか。
よくわかってないまま私はシリル・パトリッジ様の婚約者となったのだった。
§
あの日から六年経った。
なんだかんだシリル様と婚約者として接しているうちに、ルーベルト様への初恋は憧れへと姿を変え、私はシリル様を恋愛感情として好きになってしまっていた。
その間にルーベルト様は家督継承権を放棄し、幼馴染の少女を伴い、冒険者ルートとして隣国の冒険者の聖地と呼ばれる場所で活躍されていた。そのため、次期辺境伯爵となるのはルーベルト様の弟であるグレン様。私は彼の婚約者であるユーリ様と親しくなり、ルーベルト様改めルート様の活躍を知るために彼が載っているゴシップ誌を頂いている。
最近もらったゴシップ誌には、一面に『凶暴なドラゴンを仲間に!?』という見出しでドラゴンに乗った彼が笑顔で写っていた。
とても楽しそう。
その姿をぼんやりと見つめ、微笑む。
関わりはあの日以外になかったけれど、あの日見た頃から大人びた彼のその笑顔は変わっていない。そのことにいつも嬉しく思い、彼の後ろで少し照れたようにはにかむ茶髪の少女をほんの少し羨ましいと感じる。
私は彼の隣にいたいわけではない。
今の私が隣にいたいと思うのは彼ではない。そもそもの話、彼は隣国にいるため当然不可能である。
見ているだけで幸せ。
明るい雰囲気が伝わってくる彼の笑顔を見てるだけで、気合いが入る。彼が、クラーケンを倒したという記事を読むだけで、最近の憂鬱な出来事が忘れられる。
たびたび載る、建物を破壊したという記事に「またやってしまったのか」とほっこりする。
私は彼が載る、雑誌や新聞を可能な限り集めていた。十六歳になり、学園に通ってもまだ続けている。ユーリ様には「アリシア様はルートのファンだね」と言われた。ファンとは、特定の人物に対する支持者、愛好者のことをいうらしい。
ちなみにだが、私はルート様関連の雑誌等でヴェルダン領を見たことがあるものの、一度も行ったことはない。転移魔法が使えるグレン様に頼んでみたことがあるのだが「シリルに連れて行ってもらうといいよ」と返されてしまった。だが、残念ながらシリル様は転移魔法を使えないのだ。
ついでにいうと、私はこの趣味のことをまだシリル様には話せていない。
いつ話そうか頭を悩ませていたけど、最近はもう話さなくてもいいかなと思い始めていた。
なぜなら、今はそれどころではないからである。
私の通う学園は、とある方が原因で騒がしい。
そのとある方の名前は、リリアン・ヒルトン。
男爵令嬢である彼女。もともと平民出身で、学園に入学するまでに貴族らしいマナーを習得できなかったそうだ。
そんな彼女がなぜ騒ぎの原因になっているのかというと、見た目麗しい男子生徒たちを次々と虜にしているからである。
貴族の令嬢らしからぬ、天真爛漫な振る舞いをする彼女。それが新鮮に映ったのか、それとも彼女が持つモテる技のせいなのかはわからないが、魅了されたものたちはリリアンにデレデレで、所構わず愛を告げていた。
魅了された彼らとは、彼女と同じクラスだった騎士団長子息から始まり、そこから、第二王子と宰相子息、侯爵令息、そして魔法師団長子息ーーシリル様までもが彼女に愛を捧げるようになった。もともとこの学園には同性異性関わらず美形が割と多いのだが、その中でも特に顔の整った、かつ身分が高い人を骨抜きにしていったのだ。
そのせいで学園内では、リリアンと第二王子たち取り巻きと、その婚約者たちによる争いが多発していた。
何とかしようとした最上級生である王太子殿下が「婚約者を蔑ろにするな」と諌めるも全く聞かない。それどころか、リリアンが王太子殿下に会いたいとねだったため、わざわざリリアンと共に上級学年の校舎に向かい騒いでいたそうだ。
王太子殿下と同じクラスのユーリ様が、苦笑しつつそう教えてくれた。
なんて迷惑なんだろう。
今日もまた、中庭でリリアンを中心に囲い、所構わず愛を告げている男たちを私は冷たい目で一瞥し、早足でその場から立ち去った。
そして、その男たちの中に加わっている婚約者、魔法師団長子息のシリル・パトリッジに対して、頭の中で叫ぶ。
シリル様のばーか!!
それは、その光景を見た私が必ずするようになった行いである。
一応言っておくが、私とシリル様の仲は悪くはない。
むしろ、他の取り巻き連中と婚約者たちのバトルを見る感じから比べると私たちの仲はいい方だと思う。
ううん、思うじゃなく週に一回、私の住む屋敷で紅茶を飲みながら他愛もない話をするくらいには仲がいいのだ。
まあ最近のシリル様は、忙しかったと言って遅れて来たり、来たとしても早く帰ってしまったりしているんだけどね。それでも、私は来てくれるだけで嬉しく思ってしまう。
それなのにシリル様はこっちの気持ちなんて知らず、第二王子たちと一緒になってリリアンを囲っているのだからむかむかしてしまうのも仕方ない。
一体何を考えてリリアンたちと共にいるの?
リリアンが好きなのなら、さっさと私との婚約を解消するとかしてほしい。
でも婚約解消になったらなったで私は絶対泣くけれど。そりゃあもう大泣きする。淑女らしさのかけらもなく泣きわめくし、お幸せになんてリリアンの元に見送ってやれない。
そりゃそうでしょ。だって私はシリル様のことが好きなんだから。大好きになってしまったのだから。
とはいえ可能性を考え、婚約解消された際にはヴェルダン領にある修道院に入ることに決めている。
婚約解消された令嬢にある次の婚約相手なんてきっと、なにかしら問題のある人物か私よりご高齢の方だ。それならば修道院に、なおかつ憧れの人の故郷に行きたい。グレン様に直接頼み、もうすでに修道院のことは約束してもらっていた。
私から婚約解消を申し込むつもりはない。すべてシリル様次第だ。私はただただむかむかする胸を押さえて、傍観するだけの日々を過ごしていた。
今日はシリル様がやってくるお茶会の日。予定の時間からかなりすぎた頃にやってきたシリル様はまだ制服のままだった。
そんなシリル様はなんだか機嫌がいいようだった。表情は明るく、雰囲気もどことなく嬉しそうな感じがした。
まさか、ギリギリまでリリアンと一緒にいたのではないか。
そんな疑惑の目で見つめる私に気づいていない様子のシリル様は、メイドが入れた紅茶を口に含んだ。
そして口元をほころばせる。この紅茶はシリル様の好きなものだ。ついでに私もこの紅茶の味も香りも好き。しばらく無言の時間が続く。
そしてようやくシリル様が紅茶を机に置き、口を開いた。
「アリシア、君はヴェルダン領に行きたい?」
唐突にそんな話をされた私は戸惑い、そして青ざめた。
もしかして、シリル様は、私が婚約解消された時、ヴェルダン領の修道院に行く予定だということを知ってしまったのだろうか。
つまり、婚約解消を求められている…?
震える手で紅茶を机に置く。もしここで肯定したら婚約を解消されてしまうのだろうか。ただ青ざめ、無言の私をシリル様はじっと見つめてくる。
「わ、私は…」
ヴェルダン領に行きたいかという質問に対しての私の答えはもちろん肯定だ。一度も訪れたことのない、ルート様の故郷。ファンである私にとっては聖地といっても過言ではない場所。だけど、肯定して婚約解消を言われたら嫌だ。
言い淀む私を見て、シリル様はどこか傷ついたような顔をした。
「…彼には婚約者がいることは知っているだろう?」
「…………え?」
なんの話?
婚約解消を言われるのかと怯えていた思考が、一瞬にして大量の疑問符に埋め尽くされた。
首を傾げるとシリル様は眉間にしわを寄せて怖い顔をした。
な、なんか怒ってる…?
端正な顔立ちのため、怒るとより冷たく見えて怖い。一気に辺りの気温が下がったような気がした。
あれっ何この反応。意味がよくわからない。
驚いて、逃げようと身を引くと立ち上がったシリル様に腕を掴まれた。
彼を見ると目が据わっている。
ひぃ!?
先ほどよりも疑問が強まった。え、何どういう状況??
離してほしくて掴まれた腕を見下ろすと、シリル様の右手中指に、小さなラピスラズリが埋め込まれた指輪をしているのを見つけた。
シリル様、指輪なんて一体いつからつけていたの。私が指輪に気をとられていると、ぎゅっと抱きしめられた。
「え!?」
パニックになってもがいていると、更に強い力で抱きしめられた。そして次の瞬間、唇に柔らかい感触がした。
え。
「い、今。ききききき…」
突然のことに驚きすぎてうまく言葉を話せない。出会った頃のあの日と似たような状態だ。あの時言葉を発することができなかったことに比べると少しは進歩したのかもしれない。
抱きしめられたまま「きききき」と言い続ける私に、シリル様は耳元でこう囁いた。
「僕は君を諦めるつもりはないから、覚悟しておいてほしい」
!?
一体何の覚悟!?
真っ赤な顔をしたまま固まっていると、シリル様は私の頭に手をのせて優しく撫でてきた。
「じゃあ僕、帰るね」
そういってシリル様は帰っていった。
私はこんなにパニック状態だというのに、そのまま放置されてしまった。
一体何が起きたのか、全くわからない。婚約解消されず、ホッとしたものの先程のあれは何だったのか。シリル様はリリアンを好きなはずなのに。
どういうことなの?
疑問符が飛び交う中、ただ私の初キスが奪われたということだけは理解した。
§
その翌日。
「エリン・グラント!貴様との婚約を破棄する!!!」
お昼休みのみんな集まる食堂内で、見た目麗しい彼らに庇われるリリアンと、怒りで顔を赤くした第二王子が婚約者である令嬢にそう宣言していたのを見たとき、「ああついにこの日が来たのか」とそう思った。
しかし、その予想は思わぬ形で裏切られた。
リリアンを庇うように立つ、貴族子息たちが順番に婚約者に婚約破棄を叩きつけた。その最後を飾ったのは私の婚約者、シリル様。
ゆったりとした足取りでやってきた彼は、私の前で立ち止まる。そして言ったのだった。
「アリシア・ブレーデル嬢、僕と結婚して妻になってほしい」
「…はい?」
先程までの流れをぶち壊す展開に、周囲が唖然としていた。
だけど、一番驚いたのはおそらく私だった。シリル様はリリアンを好きだったのではないのか。そう疑問に思っていると、甲高い声が聞こえてきた。
「私のこと好きじゃなかったの!?」
そう叫ぶリリアンに、シリル様はしれっとした顔をして返した。
「僕、君を好きって言ったことないし。そもそも僕はアリシアが初恋で、僕の恋はこれからもずっとそれだけ。どんな人に出会ってもアリシアだけが大好きだから」
そして続ける。
「魅了魔法なんて使う君を、誰が本気で愛するというの?それにかかる彼らもどうかと思うけどね。ーーじゃあ、あとは任せますのでよろしくお願いします。僕、アリシアと話したいことがあるので」
魅了魔法…?
いろいろと聞きたいことが山ほどありすぎて頭の中が真っ白になる。
シリル様は、いつのまにかやってきていた王太子様そしてグレン様の方に目を向けた後、私の手をぎゅっと繋ぐ。
え?
魔法が展開されたと感じた次の瞬間、食堂の中だった景色は一変し、のどかな土地に変わっていた。ここって…
「リリアン嬢への監視任務の対価としてヴェルダン殿に転移魔法を教えてもらったんだ。アリシア、ここどこだかわかる?」
「ヴェルダン領…?」
「正解」
キョロキョロと周囲を見回す私に、シリル様は柔らかい笑みを浮かべた。
うーん、相変わらず眩しい笑顔!…ってちょっと待って。いや、本当によくわからない。
え、なんで私、ずっと行きたいと願っていた聖地に今いるの…?
それに、リリアンの監視任務?転移魔法を教えてもらったって何!?
最近私は驚いてばかりいるような気がする。すべてシリル様のせいだ。私はジトっとした目で睨む。そんな私の手を両手で優しく包み込み、シリル様は真剣な表情でこう言った。
「アリシア、先程の返事を聞いてもいいかな」
「へ、返事?」
「うん。僕の妻になってくれる?」
「え、えっと、シリル様はリリアン…様のことが好きだったのですよね?」
「ヒルトン嬢については監視任務のため、側にいただけで好意は一切ないよ。それに僕はアリシア、君のことがずっと大好きなんだよ」
「…好き…?」
「うん、大好き」
いつも以上に甘くまるで愛しいものを見るかのような目で見つめてくるシリル様に、一瞬にして顔が火照る。
本当に、シリル様が私を、好き…?
シリル様の表情を見るだけでもうその言葉に嘘がないことがよく伝わってきた。
嬉しい。
私は幸せな夢を見てるような気分だった。
私もシリル様のことが大好きなのだ。
返事はもちろん決まっている。
「…はい」
「君がヴェルダン殿を好きだということはわかって…ん?」
「え?」
私の言葉とシリル様の言葉が被り、二人で顔を見合わせる。
今、なんと…?
「アリシア、今、はいって言った?」
「言いましたけど。えっ、シリル様、私が誰を好きだと仰いました?」
「え…ヴェルダン殿、じゃ、ない、の…?」
「それはもしかして、グレン様のことですか?」
「違うの?」
「違いますよ!私が好きなのは貴方です!」
眉を寄せ困惑した様子のシリル様の手を、先程とは逆に、がっしりと握って詰め寄った。
「なぜ、そのような勘違いを!?」
「だって、君はヴェルダン殿と仲が良いだろう?それに会った日は一日中嬉しそうだし、それに、ヴェルダン領についての雑誌や記事を集めていると聞いていたから…」
「それは…!」
私はぐっと言葉に詰まる。そして深呼吸してから説明を始めた。
正確に言うと、グレン様ではなく彼の婚約者のユーリ様と仲がいいんです!それに、会った日はルート様関連のものが手に入るから機嫌がいいだけです!ヴェルダン領についてもルート様関連!!ルート様のファンだということだけで、グレン様は全く関係ない!!です!
このような内容の説明を、ルート様の人物紹介を添えて行った。
いつか話そうと思っていたこれをまさかこのタイミングで言うことになるとは思わなかった。
そもそも、シリル様が私がグレン様を好きだと勘違いしていたのが予想外だった。
「えーっと、つまり、アリシアは僕のことが?」
「好きです!大好きです!愛しています!!」
せっかくシリル様がプロポーズしてくれた記念すべき日になるはずだったのになんてことだ。
説明に疲れ、甘さもムードもなく勢いだけでそう叫ぶ私に、シリル様は瞠目したのち、今まで見た中で一番というくらいに心底嬉しそうな表情を浮かべ、私をぎゅっと抱きしめるのだった。
後日、私の屋敷にあった大量のルート様関連の雑誌や新聞のコレクションを見てシリル様が唖然とし、ルート様に対して少し嫉妬することになるのは、あともう少しだけ先のお話。
おまけ(指輪のお話)
「指輪?これは魅了魔法無効の効果があるんだ。任務中ずっと身につけないといけないなら絶対アリシアの色を入れたくて。綺麗だろう?」
「魅了魔法無効…でも、私が初恋でずっと好きって仰いましたが、リリアン様にドキドキしませんでしたか?あんなに近くにいて」
「何?もしかして、妬いてくれているの?」
「………はい」
「しないよ。僕はアリシアしか見てないし」
「そーですか」
「アリシアの顔、真っ赤になってる」
「見ないでください!」
「僕は今、とても君の顔が見たいんだ」
「拒否します!」
読んでいただきありがとうございました。