第四話 俺氏、犬と夜食とコンビニと
「糞もおしっこもするんじゃないぞ、吠えるのもだ」
「わん」
「言ったそばから吠えるんじゃねえ」
結局はぐずるチャッピーを俺の家に招くことになった。
ボロアパートの一室。自慢LDK、風呂トイレ別だ。ユニットバスなんかくそくらえだ。
「ふう」
俺はロングコートを脱ぎ去って全裸になった。やはりいい。
「わん」
「ん? なんで人間なのに裸になるのかだと? ふっ、犬畜生にはこの高尚かつ哲学的な自意識など理解できんか……」
自分でもなにを言っているのか分からないが、つまり気持ちいいのだ。
「と思ったが少し寒いな、いや少しな」
俺は箪笥からTシャツとトランクスを引っ張り出して着る。
「わん」
「うんまあこういう日もある」
時計を見るとまだ次の日にはなっていない時間帯だった。
あれほど話し込んでいたというのに、出かけてから一時間も経っていない。
「あそこまで行くのに三十分は掛かるんだけどな……まあいっか」
持ち前だった気がする前向きさを発揮すると、夜食づくりに取り掛かる。
「全部ぶちまけたから腹がすいてかなわん」
「わん」
俺の「わん」に被せてくるとはこの犬畜生め。
「お前の分はないぞ」
「わん」
「はいはい動物愛護動物愛護」
冷蔵庫を漁る。潤いのない一人暮らしには食へのこだわりは欠かせない。
あるのは卵が三つ、ウインナー一袋に朝に炊いたご飯が二合。野菜の類は沢庵しかない。
「ふむ……夜食セットを作れと俺に言っているのだな、この取り合わせは」
夜食セットの内容は、おにぎり、卵焼き、焼いたウインナー。以上。
シンプルだが日本人には悪魔的な組み合わせだ。
「俺はウインナーにケチャップをからめて炒めるぞ」
「わん」
チャッピーが鼻をくんかくんかさせて、足元をうろつくのを無視しながら調理を進める。夜食セットは簡単に出来るのが一番の利点だ。安い早い美味いは正義である。
「よし出来た」
ちゃぶ台に並べられたそれはまさに芸術だ。
「いただきます」
「わん」
「うん裏切らない味」
「わん」
「やっぱりケチャップ味ウインナーは米とよく合うな」
「わん」
「わん」
「わん」
わんわんうっせー。
しかもうるさいのは俺だけという絶妙な声量で吠えやがる。これならお隣さんも安心だちくしょう。畜生だけに。
「わかった、わかったよ」
あらかじめ作っておいた塩なしおにぎりと味付けなし卵焼きを小皿に移す。
「ウインナーはなしだ。病気になられても困るからな」
最近の動物愛護はうるさいのだ。
まあ同じペットフードを延々やり続けても健康で長生き出来るからと文句を言われないし、飼い主にとっても楽だろう。
まあ俺には関係ないか。ペットの気持ちなんて分らんしな。
チャッピーの前に小皿を置くと、それまでの煩さは鳴りを潜め、くんくんとペット版夜食セットを嗅ぎ始める。
「どうした? 食べていいんだぞ」
「わん」
いただきますをした後に、チャッピーは勢いよく食べ始めた。
まあお利口さん。
「わん」
「はいはいお粗末様」
腹に食い物を入れて一息つくと落ち着いた感性が俺に語りかけてくる。
このまま落ち着いていていいのか。お前にはまだ気づいていないことがあるのではないのか、と。
「饅頭が怖いなあ……」
そうだったなんだか磯臭いゲロを吐いた後、塩や醤油やケチャップ味の夜食を食ったからか、無性に甘味に飢えだしたのだ。
「よし買いに行こう」
未だにこの地方で二十四時間営業を頑張っているコンビニが近くにある。
便利なものは有効活用するのが現代人の努めである。
「ということでチャッピーはお留守番」
「わん」
「付いてきてもなにも買ってやらんぞ」
「わん」
「しゃーない一緒に行くか」
脱ぎ捨ててあったジーパンを引き寄せ履き、ロングコートを羽織る。ふっ、お前を素肌で感じられなくて寂しいよ。
しかし行くのはコンビニ。俺はまだ法に屈するわけにはいかないのだ。
深夜の空気は先程にも増して冷ややかさを感じさせる、筈だが今は先程よりも暖かい。何故だろうね。
隣にはチャッチャと足音を響かせながら歩くチャッピー。
紐がないので離し散歩である。深夜だから許してね、でもよいこはまねしちゃだめだよ。
ペットを殺されても文句言えない行為だからね。
道のりは普通だった。
倒立する便器もないし、人語を喋る犬もいない。いたって普通の道のりだ。
ふうやれやれ。平和が一番だ。
「あれっ⁉」
「わん」
「眼鏡どこやったっけ!」
気取ってくいっと眼鏡を上げようよしてようやく気付いた。
何時もしている眼鏡がないのだ。俺のおっちょこちょい!
「どこで落としたんだ……やはり便器に吸い込まれた時、いや超絶美少女に殴られた時か? いやいやあれは夢だった体でいこうとしていたんだった」
ではどこに?
眼鏡は直ぐに見つかった。コートのポケットに入っていたのだ。
「ふー驚かせやがって」
眼鏡はけっこう高いのだ。貧乏である俺にスペアなどあるはずもなく――
「って度きっつぅ!」
「わん」
なんだこれは、こんなきつかったか? 確かに俺の視力は小数点第二以下だがそれにしたって……。
「あれ? 普通に見えてる」
「わん」
俺が今まで眼鏡をしていなかったことに気が付かなかったのは、無論今まで必要なかったからだ。あとチャッピー合いの手要らないから、独り言だからこれ。
「視力が良くなっている……というか凄くなってる⁉」
「わん」
そういえばここら辺ってこんなに明るかったっけ? 街灯もぽつぽつとしか存在しない、地方都市の財政状況をまざまざと見せつけられるこの通り道。
バブル期はもっと何本も建っていた気がするんだけどなあ……諸行無常である。
そしてだ。
「おお……星の数がすげえ……」
腐っても日本の町だ。街灯はもとより様々な明かりが夜を照らしていてそんなに奇麗に見えないはずが。
「高原の星空ってこんな感じなのかな……」
「わん」
ああチャッピーは見たことあるのね。この馬鹿犬、俺より人生経験豊富なんじゃないだろうな。
俺は眼鏡をポケットに戻す。
「まあもうけもんだな」
すんなりと事実だけを受け取って、思考を放棄した。
なんか色々あったせいで妙なことに耐性が付いているようだ。
あれ妙なことってなんだっけ? おかーさーん。
「わん」
「合いの手はいいから」
俺は馬鹿犬と共にコンビニに向かった。
*
「いらっしゃーせー」
消え入るような店員の挨拶に、今が深夜であることを自覚する。
これでいいんだよこれで。あんまり元気がいいとこっちがね、その、つらい。
「さてと、饅頭こわい饅頭こわい」
今のは心の声ね、だと思いたい。最近独り言が自然に出るんです、これって病気ですか?
饅頭を品定めする。
犬用の饅頭は……流石にないか。ドックフードはどうだろうって高けえ! なんだよこれ……信じらんない。俺ってもしかして犬以下……いやいやいや、ぴんきりぴんきり。
これはブルジョアジーな犬の餌だ。チャッピーは違うだろう、相沢さん家は中流階級の典型だったはずだ……このご時世、中流で頑張っているのは素直に凄いな。相沢のお父さんありがとう。日本の社会を守ってください。
「ありあとあっしたー」
結局俺はどら焼きと塩豆大福にお茶を購入した。
レジの横にあるほかほか肉まんも魅力的だったが、ほら、店員さんに悪いでしょう? わざわざ取ってもらうのは、ねえ?
「わん」
「おうチャッピー、お前には何もなしだ。コンビニっていうのはそもそも――」
「おじさん!」
驚いたね、馬鹿犬の方を見ないで喋っていたから。カビの生えた心臓には辛かったね。
まさかチャッピーが女の子の声で「わん」以外の文字列をこなすなんて。まさに男子三日会わざれば刮目して見よ、だね。オスかメスか知らんけれど。
「おじさんがチャッピーを見つけてくれたの?」
「あ、ああ……ふらついてるのを見かけたもんだから……」
「ありがとうございます。夜に気が付いたら居なくなっていて……朝にはポスターを張ろうと言っていた所なんです」
相沢さんの奥さんが俺に頭を下げると、風呂上がりらしいシャンプーの匂いがふわりと漂った。
奥さんは泣きぼくろの艶めかしい美人さんだ。
相沢のお父さん、前言撤回します。あなたは人類の敵でした。
「ほらチャッピー! 暴れないのもう……じっとして」
「わん」
チャッピーは由紀ちゃんにもふもふされて嫌そうに……いや見えないわ。だって表情が変わらないんだもの。ここまで変わらない犬も珍しいわ。
「よかったなチャッピー」
「わん」
チャッピー。これからも愛玩動物として頑張ってくれ。
そしてその言葉は墓まで持っていってくれ。
「ありがとうねおじさん」
由紀ちゃんは幼さの残る笑顔を俺に向ける。眩しい。
「本当にありがとうございました」
奥さんは少し疲れが見える穏やかな笑顔でお辞儀する。幸薄感が堪らない。
相沢親子はそうしてチャッピーを連れて車に乗り込んだ。
おそらくチャッピーを探している途中に休憩でコンビニに寄った矢先に偶然遭遇したのだろう。
飼い犬も大変だが、飼い主も大変なのだ。
「ふう」
白い溜息を吐く。
こうして慌ただしい俺の一日が終わった。日付は変わっているけど締めだからいいんだこれで。
「……俺犬と会話してなかった?」
この後は饅頭食べて、歯を磨いて、升を描いて寝ました。