表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/30

お客様の中に呪術医はいらっしゃいませんか?

 そもそもアスクレピオスはエジプトになんか来たくなかった。

 異国の医療がどんなに優れていると言われたところで、師匠・ケイロンに勝るはずがない。

 故郷の山奥で、ずっとずっと師匠だけから医術を学んでいたかった。


(それなのにどうしてケイロン様は、エジプトへ行けなどと僕に命じたのだろう……)


 アスクレピオスは不満で仕方なく、同時に不安でもあった。


(師匠は、僕ごときではとても師匠の医術をマスターできないとでもお考えになられたのだろうか……?

 無能な僕をそばにおいておくのが嫌で……?

 低レベルな僕なんかは、低レベルな異国で学ぶのがお似合いだとでも……?)



 雄大なるナイル川。

 大都市メンフィスが近づき、行き交う船も増えてくる。


 隣の貨物船から声がかけられた。

「そちらにお医者様はいらっしゃいませんかーっ?」



 メンフィスにあるプタハ神の大神殿は、病院の役割も兼ねている。

 神殿まではもうすぐなのに、よっぽどの非常事態なのだろう。


 アスクレピオスが名乗りを上げて、船頭が互いの船を近づける。

「ハッ!」

 身軽な動きでヒラリと貨物船に飛び移る。


「どいてどいてー! よっこいせー!」

 もとの船からもう一人、飛び移ってきた。

 鈍臭い感じの若い男だ。


(たしかツタンカーメンだったか。亡き王と同じ名前だとかで他の乗客にからかわれていたな)

 跳躍が足りず、船べりに足をついたところでる。


(こいつ、このままでは落ちる!)

 アスクレピオスがとっさに手を差し伸べたけれど、すり抜ける。


「よっとー!」

 どう考えても立て直せるような体勢ではなかったはずなのに、まるで透明な翼でも生えているかのような動きで体が浮き上がり、ツタンカーメンはくるっと宙返りしてスタッと甲板に着地した。 




 患者は積荷の間に寝かされて苦しそうにあえいでおり、その顔をツタンカーメンの連れのミイラ男が覗き込んでいた。

「なっ!? いつの間に僕より先に!?」

「私のことより、まずは患者を!」


 良く通る声。

 さっきまでとは別人のようにシャンとした背筋。


(いや、本当に別人なのか? こんな変な格好をするのがエジプトでは流行はやっているのだろうか?)



 患者はたくましい船乗りで、持病があるようには見えなかった。


 周りの船乗りがささやき合う。

「悪霊の仕業か?」

 アスクレピオスも無言でうなずく。


 ギリシャであれエジプトであれ、古代では一般的な考え方である。



「悪霊退治には、師匠からもらった聖なる葉っぱを使うのが一番!」

 解熱効果のある、ちゃんとした薬草である。

 が。

「効果がない!?」

 患者の顔が見る見る青白くなっていく。



「ぐっ! があっ!」

 うめき声はアスクレピオスの背後から聞こえた。

 振り返れば右でも、それに左でも、周りの船員が次々倒れていく。


(感染症か!? いったい何が原因なんだ!?)


 目の前で倒れようとしている人が、せめて頭をぶつけないように、支えながら甲板に寝かせる。

 直後、視界の隅で何かが動いた。


 アスクレピオスは無意識にそれに飛びついていた。

 それが毒蛇だと気づいた時には、すでに噛まれてしまっていた。




 強烈な眩暈と吐き気がアスクレピオスに襲いかかった。

 呼吸、心拍が乱れ、意識が遠のく。


(あ……これ、死ぬやつだ……)


 倒れてしまえば医者にも船員にも違いはない。

 アスクレピオスは自分がただの無力な肉の塊へ変わっていくのを感じた。


 倒れた船員達には、まだ息はあるのだろうか?

 自分には彼らを助けることはもうできない。


(こんな異国の地で果てるのか……ケイロン様……)



 うめき声の海を掻き分け、祈りの言葉が聞こえてきた。

 イシス女神への祈り。

 冥界の王の妻で、死者の守護者。

 エジプトを代表する神の一人だ。


(やめろ。僕はギリシャ人だ。死んだからってミイラにされるのなんてゴメンだ)


 幻聴だろうか、こんな状況なのにやけにのんきな声がする。

「お願いしまーす、イシス女神ー!」

 これはツタンカーメンの声か。


「今回だけよ。あんまり人間を甘やかすと、セクメトちゃんに怒られちゃうんだから」


(セクメト……? たしか疫病の女神の……)

 昔、人々が神を敬う心を忘れた際に、怒りに任せて疫病を撒き散らした危険な女神サマである。


「妻には私から話しておきますよ」


(セクメトの夫といえば……)

 プタハ神。

 これからアスクレピオスが留学する神殿の主。

 その外見は、植物の生命力を表す緑色の肌を、死者への慈しみの包帯で包んだミイラ男。


(まさかツタンカーメンの連れは……)

 本当の連れのクフ王は、実はさっきの客船に乗ったまま。

 こっちの貨物船に居るのは、なんと他ならぬプタハ神だったのだ。



「えいっ!」

 イシス女神が杖を一振り。

 七色の光が飛び散って、患者達を包み込んだ。


 強力な癒しの魔法。

 かつて地上の王であったオシリス神が、その地位を狙う弟に殺害されて遺体をナイル川に流された際、オシリスの妻であるイシスは長い旅の果てにオシリスの遺体を見つけ出し、魔法をかけて生き返らせたとされている。

 もっともオシリス神が地上に出ていたのはわずかな時間だけで、すぐに死後の世界に帰り、それ以降は冥界の王になるのだが。



 アスクレピオスに呼吸が戻る。

「うぐぉっ! がっ!」

「イシス女神ー! 患者達、すっごい苦しそうですよー?」

「あー。蘇生させただけで毒まで消せたわけじゃないからね」

「ひっ! あぐっ!」

「セルケトちゃーん! 解毒お願ーい!」

「無理! この蛇、生息地があたしの管轄じゃない!」

「えー? じゃあウアジェトちゃん……」

「コブラ以外はわかんないなぁ」

「ええーっ?」


 エジプトの神々は全知全能ではないのである。


「どうしましょう、プタハ神」

「トート神に頼んでおいたので、もうすぐ……」

「待たせたな。時空を歪めて未来から血清なるものを持ってきたぞ」


 セルケトは砂漠の女神。

 ウアジェトは王家の守護神。

 トートは時の神にして知恵の神。

 プタハはマルチな才能を持つ穏やかな神である。



いたっ!)

 腕がチクッとした。



「なるほど、これが注射というものですか」

「おそらく」

「……本当にこのやり方であってます?」

「たぶん」


 エジプトの神々は、決して全知全能ではない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ