怖くないホラ怖くない
「せんぱーい! クフせんぱーい!」
少年王の声が空しく響く。
(もしかしたら、先にピラミッドに帰ったのかもしれない)
ツタンカーメンは踵を返したけれど、ピラミッドの周りには祭りの儀式のための人だかりができていて、とても中には入れそうになかった。
(うううっ。どーしよーっ。せっかく憧れのオシリス神から直々に任務をもらったのにイィっ)
あっちへこっちへ飛び回る。
穀物倉庫の陰で、先ほどのとは別の猫に出逢った。
「あー、あの、猫のありがたみがわかっていない感じのジイサンね」
猫はひげの手入れをしながらぼやいた。
「生きてる人間には穀物をねずみから守る猫は宝だけれど、死者にはお墓の番犬のアヌビス神みたいなののほうがいいんでしょうね」
猫が言うには、クフ王はピラミッドに戻るのをあきらめて、今夜一晩泊まれる場所を探しにいったらしい。
この時代には専門の旅館業というものはなく、民泊が普通。
人の集まる広場などへ行けば、民泊をやっている人は割りとすぐに見つかるはずだが……
(クフ先輩のあの格好で、泊めてくれる人なんて居るのかな?)
とりあえずはと広場へ向かう途中の道に、包帯が落ちていた。
古いしボロい。クフ王のものに間違いない。
細長く伸びる包帯をたどって進んでいくうちに、ツタンカーメンは町の外に出てしまった。
包帯の先は、そのままナイル川へと消えている。
「クフ先輩!?」
ミイラとは、カラカラに乾いていてこそのもの。
濡れてしまうとは一大事。
ツタンカーメンが慌てて川べりに駆け寄ると、水の中から大きなワニの頭が出てきた。
「うわあああ!?」
まずはワニそのものに驚いて……
「ぎゃああああ!!」
ワニの口から包帯の切れ端が覗いているのに気づいてさらなる悲鳴を上げる。
「先輩が!? 食べ、食べちゃられ、食べれれちゃっ……」
「落ち着くわに。私だわに」
水音を響かせて、ワニが二本足で立ち上がった。
「え? あ。セベク神?」
「こんばんはわに」
ワニの頭に人間の体を持つ豊穣神である。
「ダメですよセベク神! お腹を壊したらどうするんですか!? ミイラなんて煮ても焼いても食べられないですよ!! ああ、胃薬、胃薬……」
悲しいかな後のヨーロッパでは、ミイラ製作に使われた薬品の効果から、ミイラそのものを粉末にしたものが肝臓や脾臓に効く薬として服用されて、日本にまで輸出されてしまうのだが、それはまた別の話。
「食べてないわに。この包帯は、川を流れてきたのが引っかかっただけだわに。ミイラ男ならあっちへ行ったわに」
セベク神が示した先にあったのは、葬儀屋の工房だった。
人気がないのは夜中だから当然だけれど、ついつい祭りの賑やかさと比べてしまう。
工房の中央には、ミイラを寝かせる作業台。
今は空いているし、きれいに洗ってある。
壁際にはナトロンという、塩に似たものが入った袋が積まれている。
これをミイラにたっぷりかぶせて水分を吸い取らせると、天日に干すよりきれいに乾燥する。
塩も水を吸うが、塩だとミイラの皮膚が傷む。
ミイラを腐らせることなく、できうる限り生前に近い姿で未来に残すために、ミイラ職人はさまざまな器具や薬品を使う。
工房の奥に、棺桶が横たえられていた。
ふたに人の姿が描かれた、いわゆる人形棺。
手の込んだ、おそらく貴族のものなのだろう。
顔は若いが、これは美術様式で、実際の死亡時の年齢とは関係ない。
ツタンカーメンの頭に不意に、深夜には良くない考えが浮かんだ。
(遺体はこれから工房に運び込まれるのか? それとももう処置を終えて……)
すでに棺の中に……?
木材の軋む音が、ツタンカーメンの耳に飛び込んだ。
ギギギ、と、棺のふたが開いていく。
隙間から、ゆっくりと、包帯に包まれた枯れ枝のような指が覗き出た。
「ぎゃーッ!!」
「こらこら、騒ぐな。ワシじゃワシじゃ」
出てきたのはクフ王だった。
「なぁんだ。てっきり……」
「てっきり何じゃ?」
「何でもないです。それより先輩、勝手に居なくならないでください」
「お前さんがあんまりにも下品な変身をするから、恥ずかしくて見てられんくなったんじゃい」
「下品って……」
「おっぱいバイーン。言わすでないわい」
「そんなぁ……」
ツタンカーメンとしては誰も傷つけない魔法を選んだつもりだったのに。
「まあ良い、ワシゃもうちょい寝るぞい」
「ちょっと待って! その包帯! 新しくなってませんか!?」
「新調したぞい。お前さん、いい時代に生まれよったな。ワシの時代にはこんな良質な亜麻なんてなかったのにズルイぞい」
「どこで手に入れたんですか!? まさかその辺にあったのを勝手に使ってるんじゃないでしょうね!?」
「失敬な。さっき兵士から逃げとる時に、ちょうど布屋を見つけたんじゃい」
「対価はどうしたんです?」
「古いほうの包帯に護符が挟まっとったんで、それを渡したぞい」
ツタンカーメンはハァっとため息をついた。
「せ、ん、ぱ、い!」
「うん?」
「そーゆーのがあるんだったらもっと全身を隠せるような服を買ってください! ミイラ丸出しで町なかをウロウロされたら……」
「うんうん。後でな」
クフ王はうっとうしそうに手を振って、棺のふたをパタンと閉じた。