おこさまのおつかいではございませぬ
もうすぐ日が暮れる。
ナイル川のほうでは光の神ホルスと邪神セトの戦いがまだ続いている。
街灯なんてない時代。
人々はすでに家路についている。
ガランとなった市場でゴミの山に目を凝らしても、これ以上探すのは無理だと悟り、ツタンカーメンはトボトボとアヌビス神のところへ戻ろうとした。
「?」
小さな男の子がこちらへ走ってくる。
五歳か、そこいらか。
痩せているけれど身なりは良くて、長い髪がきれいな三つ編みにされている。
この髪型は、子供であることの印だ。
その子は大きな黒い犬に追われていた。
「大変だ!」
ツタンカーメンはとっさにゴミの山から果物の種を両手いっぱいに引っ掴み、浮遊して犬の頭上に回り込んで、犬の足もとへとたたきつけた。
「!!」
黒い犬はイチジクの種を踏んづけて、すっ転ぶ。
その隙に子供が走り去る。
「待てツタンカーメン! 私だ!」
黒い犬が叫んだ。
「え! アヌビス神!?」
神はいくつもの姿を持つ。
四足になっているのは、そのほうが早く走れるからだろうか。
「あの子供がクフ王の心臓を持っているのだ!」
「マジで!?」
「追うぞ!!」
「はい!!」
人口過密な首都の複雑な路地を、子供は体の小ささを活かして、塀の穴をくぐったり物陰でやり過ごしたりして逃げ回る。
アヌビス神はにおいをたどり、子供を袋小路に追い詰めた。
子供は腕を振り回し、何やら大げさなポーズを取った。
「ワが名はセティ! 破壊神セト様の忠実なる僕なり!
ホルスに従う犬どもよ! クフの心臓を返してほしくば、ワレとゲームをしようではないか!」
「応じるまでもない。力ずくで取り返す」
「待ってください!」
牙を剥くアヌビス神の前に、ツタンカーメンが割って入る。
「どうしてこんな子供が邪神なんかを崇拝しているのか気になります。もしかしたら洗脳されているのかもしれません。
だとしたら、ここでおれ達がこの子を押さえつけたら、あとで邪神がこの子にひどいことをするかもしれない……
この子に危害が加えられない形で収めたいです!」
「しかし、どうやって?」
「邪神は今、ホルス神との戦いに気を取られています。この子はおれが引きつけるんで、アヌビス神はこの子の洗脳を解く方法を探してください」
「……わかった。トート神に訊いてくる」
洗脳はアヌビス神には専門外だが、大抵のことはトート神ならどうにかできる。
アヌビス神が走り去り、ツタンカーメンとセティの二人きりになった。
セティは不敵にニヤリと笑った。
「ボクが勝ったらオマエの心臓をもらうぞ」
「ダメ」
「ふん! 怖気づいたのか!?」
「それはクフ先輩の心臓だ。おれの心臓がほしいなら、おまえはおまえ自身の心臓を賭けろ!」
「ええっ!?」
「あれれー? 怖気づいたのかな?」
「うううっ」
セティは半泣きになってしまった。
「仕方ない。おまえはクフ先輩の心臓を」
セティの顔が輝く。
「おれはこいつをベットする!」
ツタンカーメンが右手に高々と掲げたのは、神聖なるイチジクの実が練り込まれた、おいしそうなパンだった。
「……ファラオの心臓がパン一個の価値なの? クフさん、ちょっとかわいそうかも」
「ンだと、てめー!! バカにしてんのか!? こいつはアンケセナーメンからのお供え物だぞ!!」
「わっ、わかったよぉ、そんな怒らないでよぉ……」
「それで? どんな闇のゲームをするんだ?」
「闇のって……普通にメヘン(ボードゲームの一種)とか、そういうのだよぉ!」
「大人相手に? 賭けとか言っておいて、子供だから手加減しろってのはナシだぞ?」
「わかってるよぉ! あとね、駆けっことか水泳とか、どっちが長く水に潜っていられるかとか」
セティはここに来て急に子供っぽい可愛さを出し始めた。
が、ツタンカーメンは逆に警戒を強めた。
神話の時代、オシリス神の息子のホルス神は、奪われた王位を取り返すべく、邪神セトに戦いを挑んだ。
しかし邪神は、叔父と甥で争うべきではないなどと心にもない言葉でホルスを騙し、平和的な勝負方法として潜水競争を提案。
ホルス神を水辺に誘い出し、カバに変身して巨体でホルス神に襲いかかって、ホルス神を溺死させようとした。
「邪神セトは、クフ先輩のミイラをバラバラにしたのを、オシリス神の神話の再現だって言っていた。
セティ、おまえがやろうとしているのは、その続きなのか?」
「そうだよ。セト神さまとホルスのやつとの戦いの神話の再現さ」
「……邪神の手口も再現するつもりなのか?」
邪神は潜水以外にもさまざまな勝負をホルス神に挑み、その度に卑怯な方法でホルス神を打ち倒そうとしてきた。
「そんなことしなくても……セト神さまは、もっといい手を授けてくれたよッ!」
セティは腰に下げた小袋から、子供の掌に収まるほどの木片を取り出し、宙に投げた。
「!?」
木片には、ツチブタに似た幻獣の姿が描かれていた。
邪神セトの頭部を表す、実在しない生き物の頭に、邪神そのものではない四つ足の動物の体。
木片が地に落ちるのと同時に、幻獣は絵から抜け出し、低い唸り声を上げてツタンカーメンの前に立ちはだかった。
「さあ、ゲームを始めよう!」
セティの声が高らかに響いた。




