ちょっと前なら覚えちゃいるが三三〇〇年前じゃ
人ごみを掻き分けてよろよろと歩く男の姿に、祭りの客が振り返る。
その男はまるで悪い冗談のように目立つ格好をしていた。
その男は、一言で言えば、ミイラであった。
全身をボロボロの包帯で包んでいた。
まさか誰もミイラがよみがえったとは思っていない。
死後の世界の楽園は信じている。
死者のためにミイラは作る。
だけどそれはあくまで魂のためのもの。
死体が動き出すなんて、今時、誰も信じていない。
それは今時の……紀元前一三〇〇年頃の出来事だった。
「クフ王のミイラがピラミッドを抜け出して深夜徘徊しているので連れ戻してくれ」
冥界の王・オシリス神の命を受け、若者はギザの町へと降り立った。
時は紀元前一三〇〇年頃。
クフ王が眠りについてから千年以上が経った頃のことである。
晴れた夜空に月と星。
地上にきらめく祭りのかがり火。
エジプトにはたくさんの神様が居るので祭りの数も多く、今宵が何の祭りなのかは若者も知らない。
ピラミッドのふもとの神殿では神官や貴族が何かの儀式をしているみたいだけれども、それ以外の人にとっては単純に、皆で集まり、歌って踊ってお酒を飲む日だ。
若者は、賑やかな通りの両脇に並ぶ出店を眺めつつ、手近な男に声をかけた。
その男はエジプトの気候に合わせた坊主頭で、豪華ではないがきちんと洗濯した亜麻の腰布を巻いていた。
「ちょっと前なら覚えちゃいるが、月が昇る前じゃ、ちとわからねーな。ミイラの格好をした爺さんだって? 共同墓地に行きゃー、わんさか転がってんじゃねェのかい?」
酒臭い息。
のちの世のエジプトでは飲酒は宗教的に禁止されるが、この時代では低アルコールのビールを各家庭で味噌汁感覚で作っているし、神との交信のために酩酊状態になる儀式もある。
「アンタも難儀だな、こんな祭りの日の夜に」
「いえ、ありがとうございます」
若者の息からは、高価な香の匂いがした。
ここのような下町の住人には縁のないものだ。
男が驚いて瞬きをしている間に、若者の姿は煙のように掻き消えた。
「変な人なら、さっき見たわよ」
筒状の細身のワンピースを着たご婦人がケラケラ笑う。
色ガラスのネックレスがキラキラと揺れた。
「町が変わってしまっただとか、大げさに嘆いちゃってさァ。ずっと住んでるこっちとしちゃァ、もっと変化がほしいくらいだよ。
遠くから観光か巡礼で来たのかって訊いたら、ピラミッドにこもってたなんて言うんだよ。
かなりのお年みたいだったけど、それにしたってひどいボケっぷりさね。
あんた、あの人の何なのさ? お孫さんかい? 職場の後輩? 大変だねエ」
生成りのチュニックを着込んだ男が、声を張り上げて客引きをしている。
エジプト人男性の服装といえば腰布一丁のイメージが強いけれど、外国からの影響で、袖のついたシャツも着る。
「あんちゃん、ビール飲んでいきなよ! うちのは隣の店のよりもウマイよ!
ハッハッハ。ワインなんかこんなとこで売ってるわけねェや。こいつは木の実で色をつけてるんだよ。
セクメト様ってーライオンの女神様に捧げる、血の色の酒さァ。こいつで健康を祈るのサ。
にしてもあんちゃん、いい服、着てんねー。見ただけで高級な亜麻を使ってるってわかるよ。同じ亜麻でも俺のとはえらい違いだね。
触っていい? ダメ? あっそう。
そう言や“王家の亜麻”って種類の布は透けるほど薄くて軽くて柔らかいって聞くが、まさかそれじゃあないだろうね。
いやいやまさか、王族がこんなところに居るわきゃねーな。
何? 迷子の爺さんを捜してる?
全身包帯って……いや、見てねェな。
そんな怪我で祭りになんて……あン? 怪我じゃない? ミイラなだけ?
ウヒャヒャヒャ、あんちゃん、しらふに見えて、もう出来上がっちまってんのかい?」
客引きの男は若者の肩を乱暴にたたこうとした。
が、触れられなかった。
客引きの手は、若者の体をスッとすり抜けてしまった。
「なっ!?」
たたらを踏む。
客引きが顔を上げた時には、若者はすでに消えていた。
「ミイラならさっき見たわよん」
少しは静かな路地裏で、若者に答えたのは一匹の猫である。
「なァんかヘンな格好してるから芸人さんかと思ったけど、まさかかつてのファラオだとはネ。
しかもクフ王って、そこのピラミッドを作った人でしょ?
三つ並んでるのの中の一番デカイの。あれがクフ王のピラミッドなのよね?
何よ。猫が歴史に精しくちゃおかしい? アタシ、こう見てもバステト女神に仕えてるのよ?
それにしても今夜は騒がしくていけないわ。おかげでねずみ一匹、出てきやしない。これって朝まで続くわけ?
ああ、ミイラ? あっちへ行ったわよ」
若者が通りを抜けて広場に出ると、そこには人だかりができていた。
見物人の輪の内側に、楽団と踊り子の女性達の輪。
だけど音楽は聞こえない。
その輪の中心で、一人のミイラが腰を押さえてもだえていた。
「何があったんですか!?」
若者が駆け寄る。
周囲の話によると、ミイラの格好をしたおかしな男が踊り子に魅入られて一緒に踊っていたところ、楽器の音色に混じってグキッと嫌な音が響いたらしい。
「ったく!」
若者が手を掲げると、何もない空中から、まるで手品のようにインクの壷が現れた。
葦の茎を筆にして、ミイラのかたわらにしゃがんで、腰の包帯に癒しのシンボルである“ホルスの目”を描く。
「偉大なる月の神トートよ! 偉大なる慈愛の女神ハトホルよ! 邪神との戦いに傷つきしホルス神を癒したがごとく、この者の傷を癒したまえ!」
祝詞に答えて“ホルスの目”が光を放つ。
「うおおおお! 復活ーっ!」
ミイラが両腕を振り上げて立ち上がった。
勢いあまって、ミイラの包帯が解けた。
あらわになった顔に、野次馬が悲鳴を上げて逃げ出す。
それはそうだ。
彼は本物のミイラ。
その肌は干からびて、変色して、縮んでひび割れているのだから。
「何じゃ、寂しいのう。近頃の若いモンはこの程度で驚きよるんか。しかしいくらなんでもファラオに向かってその態度とは不敬極まりないぞい」
「あー」
クフ王のそばに一人だけ残った若者が、気まずそうにほほを掻く。
身なりの良い、だけどどこか地に足の着かない雰囲気のその若者は、クフ王と目が合って改めて背筋を正
した。
「はじめまして、先輩! おれ、こないだまでエジプトを治めてました、ツタンカーメンって言います!」
挿し絵は瑠華さまより。
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