ドリュー
それは、むかしむかしのクリスマスの夜のことでした。
「すみません、マッチを買ってください……」
大勢の人たちが行き交う繁華街にて、ひとりの幼い少女が道行く人に声をかけていました。
少女の名はドリューといいます。とても貧しい家に生まれ、まだ十歳にもならない年齢なのに、マッチを売るため冬の街角に立っているのでした。
ドリューの母親はとても優しい人でした。しかし日頃の苦労がたたり、彼女が五歳の時に亡くなりました。縫製工場で働いている時、心臓発作を起こしてしまったのです。
ところが父親の方は、いつも酒ばかり飲んでいるどうしようもないロクデナシでした。真面目にコツコツ働いて家族を養っていた母親とは、真逆の性格の持ち主なのです。ちゃんとした仕事に就かず、いつもブラブラしていました。
さらに、何かあるとすぐにドリューを殴り蹴飛ばす最低最悪の男です……ドリューの体は、痣の絶えることがありませんでした。骨が折れたことも、一度や二度ではありません。
もっとも現代とは違い、DVなどという概念すらないふざけた時代でした。そのため、父親による暴力は「教育の一環」などという言葉で済まされていたのです。
今、ドリューが売っているマッチも、もとはと言えば父親が借金して大量に仕入れたものでした。
これからは、お洒落なマッチが若い女性の間で人気商品になる……そんなバカな噂を真に受けた父親は、まず身の回りのものを叩き売りました。
次いで母親が必死で働いて貯めておいたドリューの学資を持ち出し、さらには家まで抵当に入れてマッチを買い込んだのです。その量たるや、部屋が一つ埋まってしまうほどでした。
そこまでして仕入れたマッチでしたが……残念なことに、父親には商売のセンスなど欠片もありません。マッチはほとんど売れず、父親は怒り狂うばかりでした。
その怒りの矛先は、弱いドリューへと向かいます。
「こらドリュー! てめえが不景気な面してるから、俺にツキがねえんだよ!」
口汚く罵りながら、父親はドリューの顔を蹴飛ばしました。そのせいで、ドリューは歯が一本折れてしまいました。
しかし、父親の暴力は止まりません。ドリューの首根っこを掴み、大量のマッチと共に外に放り出したのです。
「このマッチを全部売って来るまで、家には入れねえからな!」
しかし、マッチは全く売れませんでした。
ドリューは、幼い上に引っ込み思案な女の子です。しかもガリガリに痩せこけており、顔は痣だらけでした。服もぼろぼろであり、風呂にも入らせてもらえないため嫌な匂いを発していました。
そのため外を歩いている人たちは、ドリューが近寄るだけで露骨に嫌そうな表情を浮かべました。
「汚いガキだなあ、こっちに寄るな」
「お前は臭いんだよ。向こうに行け」
「なんて不潔な子供なのかしら。あっちに行ってちょうだい」
道行く人たちは皆、ドリューに心ない言葉を投げつけました。
しかし、ドリューはそんな言葉にいちいち傷ついてはいられません。なぜなら、マッチを売らないと家に帰れないからです。道行く人たちの言葉など、彼女を襲う飢えや寒さや父親の暴力に比べれば、なんでもありません。
「お願いです、マッチを買ってください」
ドリューは必死で懇願しました。既に、指先の感覚がなくなっています。このままでは、指がどうなってしまうか分かりません。
しかし世間の人々は、冬の寒さ以上に冷たい心の持ち主ばかりでした。
「汚い手で触んなよ!」
若い青年に突き飛ばされ、ドリューは転びました。しかし、誰も助けてくれません。
もしドリューがきれいな服を着た可愛らしい少女であったなら、道行く人たちはマッチを買ってくれたのかもしれません。しかし、今のドリューはぼろ切れのような服を着た、汚ならしい子供にしか見えないのです。
そう、世間の人たちは……可愛い子供は助けますが、汚い子供は助けてくれないのでした。
突き飛ばされたドリューは、レストランの前で尻餅を着きます。寒さに震えながら、かじかむ指を温めようと必死でこすっていました。
そんな彼女の目に、見慣れないものが飛び込んできたのです。
目の前には、レストランのガラスがあります。ガラス越しに、四人の家族が七面鳥の丸焼きや、あったかいシチューを食べているのが見えました。
家族は、とても楽しそうにご馳走を食べています。その仲むつまじい姿と美味しそうな料理に、ドリューは寒さも忘れて見とれていました。
すると、レストランから店員の女が出てきました。
「ガキ! ここは、お前みたいな汚物の来るところじゃないんだ! あっちに行け!」
女給はドリューに、残飯を投げつけました。
残飯だらけの惨めな姿になったドリューは、路地裏にしゃがみこみました。もはや、歩く気力はありません。
寒い……いつの間にか、空から雪が降ってきました。雪は、容赦なくドリューを襲います。
このままでは、寒さで死んでしまうかもしれません。ドリューは、もはや考えることさえ出来ず、売り物であるマッチを擦り火をつけました。
すると、どうでしょう。小さな火の中に、大好きだった母の姿が見えたのです。母は慈愛に満ちた表情で、ドリューを見つめていました。
「マ、ママ……」
ドリューの目に、涙が浮かんできました。とても暖かだった母。一生懸命お仕事をして、家計を支えていてくれました。ドリューは母の優しさがあれば、貧乏な生活にも耐えていけたのです。
それなのに、今は――
「ママ……」
もう一度、ドリューは呟きました。その時、マッチは消えてしまいました。
「い、いや、消えないで……」
ドリューは無我夢中で、もう一本のマッチに火をつけようとしました。
その時です。
「可愛いお嬢さん、こんなところで何をしているのかな?」
突然、不思議な声が聞こえてきました。ドリューが見上げると、そこには今までに見たこともないような、奇怪な扮装の青年が立っていたのです。
その青年は、二十歳くらいでしょうか……とても綺麗な顔をしていました。肌は舞い落ちてくる雪のように白く、黒い髪は美しくつやがあります。目鼻立ちは彫刻のように整っており、おとぎ話に登場する白馬に乗った王子さまのようでした。
もっとも、それはあくまでも顔だけです。その青年は、とてもおかしな格好をしていました。頭には美しい黄金の冠を被り、紺色のマントを羽織っています。しかしマントの下は、白いパンツを履いているだけです。
ちなみに彼の履いているのは、日本製の「白ブリーフ」という種類のパンツです。この時代には存在しないはずなのですが、もちろんドリューはそんなことは知るはずもありません。
それはともかく、青年は、この寒い中にマントとパンツだけの姿です。細マッチョの見事な肉体を誇らしげに晒しつつ立っている様は、どう見ても普通ではありません。
もっとも今のドリューにとって、彼が裸だろうと変態だろうと、そんなことは大した問題ではなかったのです。
なぜならドリューの命は、今や風前の灯火でした。朝からろくなものを食べさせてもらえず、父親に殴られ蹴られ……挙げ句にボロボロの服一枚の姿で、寒空の下マッチを売っていたのですから。
ドリューの体力も気力も、もはや尽きかけていました。彼女は崩れ落ち、地面に倒れました。あとは、死を待つだけです。
その時、優しい声が聞こえてきました。
「このままだと、君は死ぬ。そのあとは、天国に行けるよ」
薄れゆく意識の中、ドリューは青年の顔を見つめました。
「あたし……天国に、行けるんですか?」
ドリューの問いに、青年は頷きました。
「うん、君は間違いなく天国に行けるよ」
そう答えたあと、彼はしゃがみこんで顔を近づけてきました。
「でも、それでいいの? 君は、生きたくはないのかい? この世で、やり残したことはないの?」
どういうことだろう、とドリューは思いました。この男の人は、何を言っているのだろう?
その時、ドリューの中に様々な感情が湧き上がってきました。
それでいいの? って……。
生きていたら、何が出来たんだろう。
大きくなったら、パパに言い返せたのかな。
ドリューは思い出しました。
今まで、父親から受けてきた虐待の数々を。
その虐待に耐えることしか出来なかった、惨めな自分を。
さらに、先ほど通行人から吐かれた暴言の数々を。
嫌だ……。
言いたいことなんて、多すぎて言えない。
したいことだって、まだたくさんある。
天国なんか、行けなくたっていい。
あいつらだけは、絶対に許せない。
生きたい……。
生きて、あいつらをブッ殺してやりたい。
その時、男の人はクスリと笑いました。
「さあ、可愛いらしいお嬢さん。言ってごらんよ、君の正直な気持ちを」
その瞬間、ドリューは目を見開きました。最期の力を振り絞り、青年に向かい吠えたのです。
「天国なんか行きたくない! あたし生きたい! 生きたいんだよお! 生きて、あいつらをブッ殺してやりたいんだ!」
ドリューは、生まれて始めて自分の本音をさらけ出したのです。
今まで抑圧されていた、本当の気持ちを。
彼女の中で蠢いていた、巨大な闇を――
「フッ、やれば出来るじゃないか」
嬉しそうに言うと、男の人はドリューの頭を撫でました。
「どうだい、僕と一緒に来ないかい? 君は、優秀な魔人になれるよ」
「まじん?」
「そう、魔人だよ。君は、人間を超越した力を手に入れられるのさ。ただし、もう二度と天国には行けなくなるよ。それでもいいのかい?」
その問いに、ドリューは頷きました。
「そんなとこ、行かなくていい」
そうなんです。ドリューは今まで、父親が暴力をやめて優しくなってくれるよう、何千回も神さまに祈りました。
しかし、神さまは助けてくれなかったのです。そんな神さまなど、もう信じてやらない……ドリューは、そう心に決めていました。
その頃、ドリューの家では……父親が、酒瓶を片手に愚痴を言っていました。
「どいつもこいつも、なんで俺を認めねえんだ」
その時です。家の扉が開き、ドリューが入って来ました。
「ド、ドリューなのか?」
父親は、呆然とした表情で呟きました。なぜなら、ドリューは見違えるように変わっていたからです。
いつも気弱そうな表情を浮かべていたドリューでしたが、今は自信に満ち溢れています。ガリガリに痩せこけた体をボロボロの服に包んでいるのは変わりませんが、立っている姿からは得体の知れない迫力を感じさせました。
「お、お前! マッチは売ったんだろうな!」
父親は、怯みながらも怒鳴りつけました。しかし、ドリューは笑いながら首を振ります。
「ううん、一つも売れなかった」
「んだとぉ! 売れなかったら帰ってくんな!」
父親は怒鳴り、殴りかかっていきました。しかし、その腕を掴む者がいます。
それは、裸の男の人でした。彼は父親の腕を掴み、軽々と放り投げます。
父親は吹っ飛び、壁にぶつかりました。うめき声を上げながら、何が起きたのかと周りを見回します。
すると目の前には、ドリューが笑いながら立っています。
その手には、火のついたマッチがありました。
「パパ、お別れだよ」
言うと同時に、ドリューはマッチを投げました。
そのとたん、驚くべきことが起きました。なんと、そのマッチは爆発したのです。家はあっという間に吹き飛び、さらに炎に包まれました。
もちろん父親は、一瞬にして木っ端微塵になりました。痛みを感じる暇もなく、あの世へと旅立ったのです。
言うまでもないことですが、彼の行き先は地獄でした。
ドリューは燃え上がる家から、何事もなかったかのように出てきました。その顔には、狂気の笑みが浮かんでいます。
彼女は、さらにマッチを投げました。マッチは次々に爆発し、町を火の海に変えていきます。
叫び、逃げ惑う人々……楽しいクリスマスだったはずの今夜。しかし今では、阿鼻叫喚の地獄と化しています。
そんな町を見回しながら、ドリューは満面の笑みを浮かべて叫びました。
「ああ、すっきりした!」
「じゃあ、そろそろ行くとしようか」
そう言って、男の人は手を差し出しました。ドリューはその手を握りましたが、ふと首を傾げます。
「そういえば、おじさんの名前聞いてなかったね。おじさん、名前なんていうの?」
「おいおい、おじさんはやめてくれよ。僕の名前は、シローラモ……アマクサ・シローラモさ。職業は魔王だよ」
「魔王?」
「そう、ファンタジーでは定番の悪役である魔王さまだよ。怖いかい?」
にこやかな表情で尋ねるシローラモに、ドリューは首をぶんぶん振ります。
「ううん、全然」