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エクス・キューズ・ミー。言い訳。ぼくを拘束して無理やりに注射を打った彼らは、実際には、ぼくのことを助けたくて必死だったのかもしれない。
今では正確なところを窺い知ることはできないし、もちろん大人のぼくには、すべては仕方がなかったのだということはわかっている。ただ幼少期のぼくの目には、人間は相手の感情を推し量ること無しにそのような行為をすることができるのだ、という事実だけが映った。
その為にぼくは、田舎の牧歌的な学校の教師が指導的立場を強調するために口にするお決まりのフレーズ「みんな仲良くしましょう」にかなり早い段階から疑問を抱くことになった。
なぜ?人間は人の感情を無視することができるのに、仲良くしなくてはならないのか?
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暴力の真の恐怖は痛みの中にあるのではなく、行為者の共感性の欠如の中にある、と大人になったぼくは考える。なぜ人は暴力を振るうことができるのか、子どものぼくにはその理由を容易に考え出すことができなかった。
だから、友達にも遠慮をし、大人、家族にまで心理的な距離をほとんど無意識のうちに置くようになっていった。元々の性格的傾向に拍車がかかったわけだ。
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そうこうしているうちにぼくは自然な事の成り行きとして、小学校へは行かなくなった。他人に怯えながらの学校生活というのはなかなかに堪えるものだった。学校、集団生活、そして健気にお勉強。生活そのものにストレスを感じていた。
一度学校を休み始めると次には、学校を休んでしまったこと自体を気にするようになり、また一日と休む。そんなことが続いていく。
ぼくは神経症を患っていたのかもしれない。学校に行かなくなった。そして、自分のことをまともな子どもではないと考え始めるようになる。
これは単純な話で、クラスメートは病欠こそあれ、精神的な理由で学校に行けないなんてことは殆どなかった。
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具体的な数字はわからないけど、ぼくが子どもだった一九九〇年代には、不登校児童というのはクラスに一人か二人はいたものだった。
でも、それ以外の子どもたちは宿題をやっていなくても、ちょっと体調が悪くても、長期間学校を休むということはなかった。
だから、なぜこんな普通のことができないのだろうと思い、そして恐らくぼくはどこかおかしいのではないかという疑念が芽生え始めることになる。
また、同時に選民思想のようなもの、つまりぼくはあなた方とは違うのだという感覚も生まれる。なぜだろうか。
ぼくの感じていることが周りの人間にはとてもじゃないが上手く伝わらない気がしてくるのだ。大人相手にだって、ましてや相手が子どもであれば尚更のこと。なんて大きな断絶!
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なぜ、なぜ、なぜ?子ども特有のクエッションマークを付ける遊び(当人は実に真剣なのだが)をぼくは続けた。
「なぜ風は吹くのだろう?」
そんなことを親に訊ねたことがあった。ちょうど晩飯の準備を母がしていて、父はテレビに見入っていた。恐らく野球中継を見ていたのではないだろうか。ぼくはなぜだか風が吹くことについて考察を巡らせていた。
ぼくの問いに両親は一瞬固まった。これが子どもの無邪気な質問というやつか。どのように答えるかでこの子の人生に多少の影響を及ぼすかもしれない。さあどんな風に答えたものか。
彼らはぼくに思考を促すようなことを言った。機転の利く母は実際に風が吹く様を体験させようと台所の窓を開けた。季節は冬。外気と内気の温度差で窓ガラスは結露していた。窓を開けると外の冷気が勢いよく滑り込んでくる。
同時に温められた食事の熱気は外に出ていく。確かに風が吹いているようだった。ぼくはそれから地球を想像した。そして地表の温度差について考えないわけにはいかなかった。赤道周りは当然暑いのだろう。北極、南極なんかは寒い。
その温度差によって風は吹き、風呂をかき混ぜるみたいに成層圏をかき混ぜているのだろうと考えた。もう少し複雑にできていることをぼくは高校生になってから知った。
* * *
ではなぜ、この人たちは正に今、死を怖がる素振りを見せないのだろうか?
人がもうすぐ死ぬということに対して(あるいは今さっき死んだということに対して)、激しく動揺し恐怖を抱くのに、なぜ「人はいつか必ず死ぬ」ということに対しては常に恐れ慄くことはないのか?
ぼくはそんなことを夜、布団を頭まで被って考えていた。絶対に死は誰しもが避けて通ることはできない。いつかぼくの両親は死ぬし、ぼくだって例外なく死んでしまうだろう。それなのに、なぜ全然平気そうな顔をしていられるのだろう?
考えるほどに夜の仄暗い闇はぼくの身体を侵食し、頭の中を恐怖でいっぱいにした。それはまるで、液体状のプリンの原液を、頭に流し込むみたいにして、ぼくの考えの出口を塞いでしまった。
このままではいけない!どうやっても眠る事はできないので、ぼくは布団を跳ね除けて、襖越しの隣室にいた父の膝の上に座った。
彼は当時話題になっていたテレビゲームに夢中になっていた。ぼくは不思議で仕方なかった。
「あなたは死というものをどのようにお考えですか?」
本当にそのように訊ねてみたかった。しかしながら、ぼくは彼の表情から直感してしまった。つまり、彼らは恐らくは何も考えていないのだろうということを。緩やかな日常が死をどこか遠い場所に追いやってしまったのだということを。
なぜだか、ぼくはそれで不安になるのではなく、むしろ安心して、父に身体を預けてそのまま眠ってしまっていた。