四話
初めて触れた唇は、意外にも柔らかいものだった。
起き抜けに自分の唇に触れながら、真はにやける口元を抑えられなかった。
「……練習、行かなきゃ」
時計の針を見ると八時を少し過ぎたところを示している。慌ててベッドから飛び降りると、クローゼットの中からジャージを引っ張り出し、急いで着替えた。
乱雑に散らかったままの部屋の中からスポーツバッグを掘り起こすと、その中に必要なものだけを詰めていく。
今日は走り込みをすると部長である美乃が言っていたから、日焼け止めも塗らねばならない。だが、時間的にそんな余裕があるわけがないので、日焼け止めを鞄の中に無造作に突っ込んだ。
タオルや替えの道着、それからデオトラントシートを詰めチャックを閉めると、早足で階段を駆け下りる。
「母さん! スポドリ!!」
「はいはい、出来てるわよ。さっさと食べて用意しちゃいなさい」
「ありがと!」
昨夜うっかり伝えるのを忘れていたので、スポーツドリンクは諦めるしかないと思っていたのだが、流石母である。冷蔵庫の前に張り出した部活日程表を見て作ってくれたのだろうと胸の前で両手を合わせて拝み倒してから食卓に向かった。
「お前ね、毎度そうやって母さんに何でも頼むの止めなさい」
「低血圧だから、頭が起きるまで時間がかかるんです~!」
「そうやって屁理屈ばかり言って!」
「……父さん? 八時半から会議なんじゃなかったの?」
口煩い父親ににこりと笑いかけながらそう言えば、慌てたように朝食を口に詰めて玄関を飛び出していく。
「まあ、父さんの言うことにも一理あるわね」
「うっ」
「でもね、母さん的にはもう少し子供で居てほしいから、高校卒業するまでは手伝わせてちょうだい」
少しだけ寂しそうに笑う母に曖昧に笑い返すと、優しい掌がそっと髪を撫でてくれた。
「……はよ」
部室棟に行くと、丁度グラウンドの方から蛍が歩いてきた。
硬球が大量に入ったカゴを持ちながら、ゆっくりと近付いてくる蛍に、真は思わず数歩後ずさる。
「……お、おはよう」
蛍の顔を見ていると昨日のキスを思い出してしまって、じわり、と頬に熱が上がるのが嫌でも分かった。
「今から?」
「うん」
「……何時まで?」
「今日は昼までだけど、どうして?」
今日は土曜日だから、空手部は男女ともに昼までしか体育館を使えない。
来月の初めにバスケ部が試合を控えているからだ。通常であれば夕方からバスケ部の練習が始まるのだが、今週から土日の空手部の練習時間を早めに切り上げて交代することが部活会議で決まったと美乃が言っていた。
「俺も昼までだから、帰りにどっか行こうぜ」
「え」
「な? デートしよう?」
デート、と聞き慣れない言葉を発した幼馴染に、真は瞬きを繰り返した。
その意味を理解するのに、十秒ほど要するとすっかり納まりかけていた熱が再び全身を支配して、動きを鈍らせる。
「……いいだろ?」
「う、うん」
校門で待ってるから、という声を背中に受けながら、真は部室に逃げるように駆け込んだ。
白球を追いかけている間は、何も考えなくて済む。
ただ、一心に白い球を追いかけて、泥だらけになりながらも、伸ばしたグローブの中に白球が落ちてくるその瞬間が蛍は好きだった。
微かに冬の匂いを纏った涼しい風が吹く朝の時間の練習は、土とグローブの匂いに包まれていて、少しだけ落ち着いた。
「ナイスキャッチ、海野」
「うっす」
「お前、最近調子良いね~。さてはアレか? 彼女でも出来たな?」
「はあ、まあ」
「うっそ、マジで!? 吉沢から聞いてたから絶対デマだと思ってたわ~」
誰だよ、と詰め寄ってくる先輩に曖昧な笑みを浮かべると、左隣でにやにやと笑う吉沢の鳩尾に軽く拳を叩きこむ。
「松岡ですよ、松岡」
「あ、てめえ! 言うなって!」
「ほほう、あの空手美少女か~」
途端に吉沢と同じくにやにやと厭らしい顔つきになって、こちらを見る先輩から目を逸らすと、ベンチでキャプテンが集合と叫んでいるのが聞こえてきた。
「ほ、ほらキャプテンが呼んでますって」
「あ、こら待て海野!」
「吉沢てめー後で覚えてろよ!」
捨て台詞にそれだけ残すと、蛍は全速力でベンチまで走った。
デオトラントシートで一通り汗を拭きとったものの、背中には未だ汗が残っている。
ぺたり、と張り付くTシャツに真は顔を顰めた。
腕に顔を近付けて匂いを嗅ぐと、さっぱりとした石鹸の香りが広がった。
荷物を纏めて、部室を出て校門に向かうと少しだけぐったりとした様子で花壇の淵に座り込む蛍が目に入る。
「待った? てか何でそんな疲れてるの? 練習きつかった?」
「し、質問攻めにあった」
「何を」
「お前のこと」
首を傾げると、蛍は溜息を吐いて先に歩き出してしまう。
「別にさ、隠すつもりもねえし話したんだよ。つーか、吉沢の野郎が先輩たちにチクってたんだけど」
「え、」
「野球部公認のカップルだから、お前の試合も見に行って良いてさ」
悪戯っ子のように笑う蛍に、真は頬が熱くなるのが分かった。
「……あっそ」
「おう」
鼻歌交じりに先を行く蛍に、真は顔を片手で覆う。
野球部公認って何だ。やたらと声を掛けられたと思っていたら、そういうことか。
恥ずかしさで顔を上げられない。
「な、これ貰ったから行ってみねえ?」
「……どれ?」
「アクアリウム。今日までらしいんだけど、先輩が余ってたチケットくれた」
「へえ」
お互いに部活一筋な所為か、こういった物には疎い。
きっと気を利かせてくれた先輩が蛍に渡してくれたのだろう。ありがとう名も知らない先輩、と心の中で合掌すると、真は蛍からチケットを一枚受け取ってしげしげと眺めた。
「夏季限定、金魚の展示?」
「珍しい金魚いっぱいいるんだってよ~」
どこかウキウキとした声音なのは、昔から生き物が好きだからだろう。
小学生の頃、決まって生き物係に立候補していた蛍の姿を思い出して、真は小さく笑った。
アクアリウムが開催されている場所は、学校から差ほど遠くない場所にあった。
少しだけ蒸し暑かった外とは違い、ひんやりとした過ごしやすい空調に思わず目を細めていると、受付にチケットを持って行った真が少しだけ頬を染めてこちらに戻ってくる。
「どうした?」
手には先ほど渡したチケットが二枚とも握られたままで、不思議そうに首を傾げれば、真は恥ずかしそうに蛍の手を引いて、受付へと引き摺って行く。
「あ、あの、か、『彼氏』連れてきました。こ、これで、割引してもらえますか?」
「それでは、キス写真を撮りますので、ほっぺか口にキスをお願いします」
「え」
「は」
にこにこと綺麗な受付のお姉さんが、悪魔のようなことを言うものだから、蛍と真は引き攣った表情でお互いを見つめた。
「……手、とかはだめですか?」
「ダメですねぇ~」
「額も?」
「はい。決まりなので」
表情は崩さずに、冷たさを帯びるお姉さんに蛍は片手で目を覆った。
次いで真に掴まれたままの腕から熱が広がるように全身を駆け巡っていく。
「……割引してもらわなくてもよくね?」
「だめ。カップル割引じゃないと、限定キーホルダー貰えないんだもん」
「はあ」
顔を真っ赤にしているくせに、視線は受付のポップから動こうとしないのだから凄い。
はあ、と溜息を吐き出すと、蛍は目線をお姉さんに移した。
お姉さんは蛍の視線に気が付くと、真には気付かれないように小さく頷き返してくれる。
「真」
「な、に――!?」
ちゅ、と触れるだけの口付けを交わせば、お姉さんがカメラのシャッターを押す音が響いた。
真の頬が先の比ではないほど、鮮やかな赤に染まる。
それが可愛くて、思わずもう一度唇を重ねれば、ひ、と引き攣ったような声が聞こえた。
「も、いいから」
「はい、キス確認しました~! こちら限定品のキーホルダーになります~」
どこか遠い目をしたお姉さんに、どうもと愛想笑いしながらキーホルダーを受け取り、真っ赤になったまま動かなくなった真の手を引いて歩き出す。
「きゅ、急にキスしないでよ」
「だって、お前あれ欲しかったんだろ?」
「それは、そうだけど……」
羞恥で俯いてしまった真の腕を微かに引くと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……うわぁ」
「綺麗だな」
「うん!」
風鈴をそのまま大きくしたような形の水槽にたくさんの金魚が泳いでいる。
光に照らされて、尾びれが揺れる度に宝石が水の中を漂っているような錯覚を覚えた。
「真」
「何?」
繋ぐ手に力を込めて、じっと彼女の目を見つめる。
少し赤みを帯びたこげ茶色の目に、金魚とそれから自分が映り込んでいるのに蛍は小さく笑った。
「無理に変わらなくていいよ」
ゆっくりと自分にも言い聞かせるように蛍がそう言うのに、真は目を見開いて固まった。
「え?」
「お前が言ったんだろ」
「……うん」
「ゆっくり俺らのペースで変わっていけばいい」
握られた手が指に絡まるのに、真は眦を和らげて笑う。
いくつになっても、本質は変わらない彼の優しさに、そっと蛍の胸に頭を預けた。
「……何だよ」
「好き」
「……知ってる」
何よ、それと開こうとした唇は音を無くした。
代わりに響いたリップ音に、じわりとお互いの肌が染まっていくのを見て、どちらからともなく笑みが零れた。
――紅葉に似た金魚がゆらゆらと揺れる水面に、二人の影がまた重なった。
これにて、完結…!
相変わらず終始ぐだぐだな感じではありましたが、無事に書き終える事が出来たので満足です。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
次回の冬編はもう少し早めの更新を心がけたいと思います!!