三話
香ばしい焼き菓子の香りに、真はこれでもかと顔を顰めた。
目の前に差し出された綺麗にラッピングが施されたクッキーが山盛りになった紙袋に、眉間に皺が刻まれる。
「お願いします!! 海野先輩に渡してください!」
「いや、渡してくださいって本人のクラス隣じゃないの」
「真先輩にしか頼めないんです!」
「ここまで来たんなら本人に直接渡した方が……」
「お願いしますッ!!!」
可愛い後輩に頼まれてしまえば、無碍に断ることなんて出来るわけもなく。真は溜息を吐きながらもその紙袋を受け取った。
ここ一週間ほど毎日のように、先輩や後輩から蛍に大量の差し入れを渡すように頼まれている気がする。
理由は野球部が先週行われた秋大会の県予選を突破したからだった。惜しくも夏の県予選では初戦敗退と残念な結果で終わったからか、このニュースはあっという間に校内を駆け巡っていた。
夕方のニュースでも取り上げられた所為(特にサヨナラホームランを放った蛍と三打席連続奪三振を決めたエースの先輩が大々的に取り上げられていた)か、蛍は女子に限らず、男子の株も上げていた。
現に、先ほど男子空手部の後輩からもプロテインを押し付けられたほどだ。サヨナラホームラン恐るべし。
そんなことがあった所為か、あの後、蛍は球場の駐輪場に現れなかった。
後から彼の母から聞いた話によると、スポーツライターやらニュースの取材やらで帰って来たのは夜の九時過ぎだったらしい。
試合が終わったのは五時だったから、真は一時間ほど駐輪場で蛍が来るのを待っていた。
自分も翌日に試合を控えていたので、あまり長く待つことが出来ず、結局その日は早々に帰ってしまったが、家も近所だしすぐに顔を見ることになると思っていた。――そう、思っていたのだが、どういう訳か徹底的に避けられてしまっているようだった。
「意味が分からん」
「うん、それ俺も今猛烈に思ってるとこ」
正拳突き宜しく差し出した紙袋とプロテインを半泣きで受け取ったのは、蛍のクラスメイトで、チームメイトの吉沢だ。
「どうして私が来るタイミングで居なくなる訳?」
「知らねえよ。直接聞けばいいだろ、幼馴染なんだから」
「ケータイも無視。野球部の練習が遅くて家にもいない。学校でも徹底的に避けられる……。どうしろって言うのよ!」
「……あー、じゃあヒントだけな」
「は?」
それから吉沢はとても言い難そうに口を開いたり、閉じたりを繰り返して、漸く決心したのか、こほんと一つ咳ばらいをした。
「バッターサークル」
「それが何?」
「……あんな大観衆の中で聞こえるくらいの声でお前に伝えたんだぞ? 他にも聞いてる奴がいてもおかしくないだろ」
「は」
「しかもあそこはカメラの指定席になってた」
脳裏に蘇るのは、試合に勝ったら好きだというと言った蛍の少し照れたような表情と、スタンドに響く大歓声。
そう言われて初めて、隣にはカメラを持った男の人が数人いたのを思い出す。県予選の決勝ではテレビ中継が行われると以前蛍が言っていたような気がする。真が来ていたのは高校のジャージだ。同じ高校の生徒であると分かれば、カメラは自然とそちらに向くこともあるかもしれない。
そこまで考えて、真は顔全体に熱が広がるのを感じた。火照った背中を冷たい汗が流れていく。
「まさか」
「そのまさかだよ。ニュースでも取り上げられてたくらいだぞ」
「嘘でしょ」
「逆に今知ったお前に俺は驚いてる」
恥ずかしさのあまり、思わずその場に蹲る。
何だ、何だと野次馬根性を発揮する同級生たちから真の姿を隠すように吉沢は彼女の前に立って笑いながら言った。
「うるせえ、松岡に遅めの春が来ただけだ」
「ちょっと!」
「何だよ、ほんとのことだろ?」
「ち、違うわよ! バカ!」
照れ隠しに立ち上がりざまに膝蹴りを繰り出すと、そんなことをされると思っていなかったらしい吉沢の鳩尾にクリーンヒットした鈍い音が昼休みの廊下に響いた。
――暑い。
いくら日差しが弱くなったとはいえ、練習着に身を包んで走り回れば嫌でも汗は掻く。
背中に張り付いた練習着を忌々しく思いながら、蛍は打ち上げられた白球に向かってグローブを差し出した。
パシ、と軽快な音でグローブの中に納まったそれに、満足そうに顔を綻ばせていると、少し離れた場所で同じようにフライを捕る練習をしていた吉沢が恨めしそうな顔をして近付いてくるのが視界に入った。
「何だよ?」
「何だよ、じゃねえよ。お前の所為で県大会二位の女の膝蹴り食らったじゃねえか」
「はあ?」
「松岡だよ、松岡。あいつ照れ隠しに鳩尾狙ってきやがって……」
死ぬかと思った、と魚が死んだ目をしていう級友に蛍は首を傾げる。
「何で真がお前に膝蹴りなんか……」
「お前があいつのこと避けまくってるから、今日も怒りながら誰かに頼まれた差し入れ持って来たんだよ」
「……ふーん」
「ふーんって、何だ。ふーんって! 言わせてもらうけどな! 元はと言えば、あいつにニュースのこと言ってないお前の所為だぞ!」
まるで猿のようにキーと怒る吉沢の言葉に、蛍は表情を強張らせた。
「おいやめろ。傷口に塩を盛り込んでくるな」
「いいや、やめないね! お前の所為で連日不機嫌な同級生に襲われるなんてごめんだから、教えてやった」
「……何を」
「お前がバッターサークルから出て、松岡に言ったことがニュースで取り上げられたこと」
心底楽しそうに表情を歪める吉沢とは対照的に、蛍は全身から血の気が引くのを感じていた。
さっきまで暑くて堪らなかったのに、何だか寒気を覚えた。
「……嘘だろ」
「嘘じゃねえよ。ちなみに、今日の練習が何時に終わるかも伝えておいた」
「おま、ふざけんなよ!」
「いい加減じれったいんだよ! 素直になれ、男だろ!!」
「他人事だと思って……!」
「うるせえ! リア充爆発しろ!!!」
お前絶対それが言いたかっただけだろ、と笑いながら逃げ惑う吉沢を追いかける。
いつもなら夕食を楽しみにし始める時間帯なのに、ライトが照らされたグラウンドから堪らなく離れ難かった。
すっかり日が短くなったな、と六時半なのに薄っすらと群青がかった空を見上げながら真は思った。
どちらかというと七月から八月にかけての夕暮れ時が好きだ。明るく澄んだ橙色や薄紫が綺麗に見える、あの夏空が恋しい。
「……げ」
蛍の家に帰るには絶対通るしかない公園のブランコで待っていると、泥だらけのユニフォームに身を包んだ彼が、気まずそうな表情をしてこちらを見つめていた。
「げ、って何だよ。げって」
「別に」
バットを入れているのだろうか、重そうな野球道具を抱え直しながら、蛍が怠そうな動きで真の座るブランコに近付いてくる。
「……何してんだよ、こんなところで」
「お前を待ってた」
じっと蛍を見つめると、彼は居心地悪そうに頬を掻いて、それから溜息を零した。漕いでいる子にぶつからないように設置された小さな鉄棒に腰を下ろして、真剣な表情を浮かべる。
「…………あのよ」
「うん」
「……俺、」
グッ、と蛍が唇を強く噛み締めるのが分かった。
心なしか頬が赤くなった彼から次の言葉が発せられるのを、真はじっと待った。
ここで何か言えば、素直じゃない蛍は口を閉ざしてしまうことが分かっていたからだ。幼馴染であるからこそ、そういった小さなことも真はすぐに察知できた。
すっかり群青色に支配された空を、赤とんぼが連なって飛んでいく。
子供の頃に見た、夕焼けの色を思い出して、真は少しだけ眦を和らげる。
遅くなった所為で親に怒られるのではないかと泣き始めた真の手を蛍は優しく握って笑いかけてくれた。
「俺が守ってやる。だから泣くなよ」
そう言った蛍に汗で湿った野球帽を被せられて、安心したのを覚えている。
蛍がいるなら怖くないねって、笑っていたあの頃が懐かしかった。
「無理に変えなくてもいいんだ」
「は?」
不意に、真の小さな声が夕闇の中に響いた。
「ずっと幼馴染のままでもいいんだよ、私。――お前の隣にいられるなら、何だって」
「真」
ブランコに座る真の表情は、俯いてしまっている所為で分からなかった。ゆっくりと鉄棒から離れて彼女の方に近付くと、華奢な身体が少しだけ震えていた。
「……怖いんだ。お前の隣にいられなくなるのが。ずっと一緒にいたから、離れるなんて考えたこともなかった」
ぽつり、と真の服に染みが広がる。
伏せた睫毛の先から雫が零れ落ちるのを、蛍は黙って見つめることしか出来なかった。
「重いって自分でも思う。でも、苦しかったんだ! お前の隣にいるのに伝えられないのが。あの時も本当は言うつもりなんてなかった。でも、気が付いたら口に出してて……。拒絶されたらどうしようって考えてたのに。――それなのに、お前があんな、期待させるようなこと言うから」
さめざめと悲しそうに泣く幼馴染に蛍はどうすればいいのか分からないと思うのと同時に、彼女が流す涙が美しいと思ってしまった。
自分の所為で彼女が泣くのが昔から苦手だったのに、今は酷く心が凪いでいた。
そっと手を伸ばせば、真が顔を上げるのが分かった。
生温い雫が掌に纏わりつくのにも構わずに、少しだけかさついた真の頬に手を滑らせる。
「……俺も、」
「え?」
「俺も、お前の隣が良い」
お前が笑ってくれるなら、それだけで。
――初めて触れた唇は少しだけしょっぱくて、甘い味がした気がした。