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二話

 最初にそれを自覚したのは、いつだったか。

 いつの間にか、隣に居ることが当たり前になって。もはや自分の一部であるといっても過言ではない。それだけ、真とは一番近くで過ごしてきた。

 白い道着に身を包んだ幼馴染は、常と違って凛としたものを感じさせる。結んだ髪から滴る汗が、煌びやかな宝石のようにも思えた。

「……泣いたカラスが笑ってる」

「あ? 何言ってんだ、お前」

 開け放たれた体育館のドアから覗く空手部を眺めながら、蛍はトンボの柄に顎を乗せて溜息を吐き出した。

「いいから手を動かせ。このむっつりスケベ」

「誰がむっつりだ、誰が」

「スケベは否定しないのな」

 げらげらと笑いながら、トンボを持って走り去ったチームメイトに、蛍は苦虫をかみつぶしたような表情になる。


(男子高校生なんて、みんな性欲の塊だろうが……)


 遠くから先輩の怒号が聞こえてくる。

 それに生返事を返しながら、蛍はそちらに向かって走り始めた。


 聞き慣れた声に呼び止められて、真は髪を結び直そうとしていた手の動きを止めた。

 残暑の所為で自転車のタイヤがパンクしてしまい、今日は徒歩で来たのが災いした。目の前で自転車にブレーキをかけて行く手を阻んできた蛍に、大きな舌打ちが零れる。

「……何?」

「何で、先に帰ってるんだよ。送ってやるって朝言っただろ」

「いいよ。歩いて帰るから」

「いいから乗れって」

「いいってば!」

 グ、と奥歯を噛み締めてそう言えば、蛍は一瞬だけ呆けたような顔をして、次いで眉間に皺を寄せた。

「歩いて帰ったら、暑いだろ」

「さっきまで汗かいてたし、あんまり変わんないからいいよ」

「……乗れ」

 引き下がる気配のない蛍に、真は溜息を零すと、彼に向かってスポーツバッグを放り投げた。明日は部活が休みだからと溜まっていた道着を大量に詰めた鞄は宛ら鈍器のように重い。それを顔面で受け取った蛍は、若干頬を痙攣させていたが、何も言わずにペダルに足を掛けた。

 真が荷台に跨ると、自転車が小さく悲鳴を上げた。中学の頃から愛用している蛍の自転車は、少し錆びていて、土の香りがする。――野球の匂いだ、とサドルを掴んで思った。

「……姉ちゃんが寄って行けって言ってた」

「明美ちゃんが?」

「おう」

 緩んでいたゴムを取っていると、蛍が不機嫌そうな声で言った。

「来るだろ?」

「……うん」

 明美は蛍の三つ上の姉である。芸能事務所で働く彼女は滅多に実家に帰ってくることはなく、事務所が持っているマンションに住んでいると蛍から聞いていた。

 会うのは半年ぶりくらいだ、と明美のことを考えていると、胸に巣食ったもやもやが少しだけ晴れた気がした。

 ふふ、と笑いながら、蛍の背中に額を預ければ、ペダルを漕ぐスピードが少しだけ上がる。それを不審に思って、前を見ると、歩道の信号が赤に変わろうとしていた。

「ちょ、蛍! 赤、赤だから!」

「う、煩えな! 分かってるよ!」

 車道との境目ギリギリで、ブレーキをかけて器用に停まって見せた蛍に、真は溜息を吐く。昔から無駄に運動神経が良い所為か、こういう時でも遺憾なく発揮されるそれに関心を通り越して、呆れを覚える。これだから運動バカは、と真は小さく首を横に振った。

 いつもであれば、ここで口論になるのだが、いやに静かになった蛍に真は眉根を寄せた。

「……蛍?」

 赤信号の先をじっと見つめる彼の視線を辿って、ハッと息を飲んだ。

 そこには、笑いながら男の人の腕に自らの腕を絡める美乃の姿があったからだ。

 美乃と頭一つ分くらい離れた身長の男が、やや照れたように頬を掻きながら美乃に笑いかける。それを見た彼女は、嬉しそうに唇を綻ばせていた。

「…………マジか」

 先に沈黙を破ったのは、蛍だった。

 信号が青になっても動き出そうとせず、呪詛のように「マジか」と言葉を連呼している。

「青、だけど……」

 声が震えるのが分かった。ぎゅっ、と縋るように彼のユニフォームの裾を握れば、蛍の身体が慌てたように動き出す。

 点滅寸前で渡り終えた歩道を超えてから、二人は無言のままだった。

 触れている場所から伝わってくる心音は変わらない。

 それが堪らなく悔しくて、同時にホッとしている自分が居た。

「…………彼氏だよなぁ、さっきの」

「……そうかもね」

「何、怒ってんだよ」

「別に」

 動揺するのは、自分ばかりで嫌だ。

 何年も見てきたのに、最近蛍の知らない顔ばかり見ている気がして、気持ちが悪い。

 自分が一番蛍のことを知っていると思っていた。――それなのに。遂最近、好きになった先輩に対して、真が見たことのない顔ばかりするものだから。それが何だか知らない人を見ているようで怖かった。

 堪えていた砦が崩壊してしまったように、涙が溢れる。

 泥だらけになった練習用のユニフォームに頭突きをすれば、蛍が驚いたようにブレーキを掛けた。


「真?」

 急に泣き始めた幼馴染に蛍は、怪訝そうに後ろを振り返った。

 だが、見るなと言わんばかりに、顎に掌底を撃ち込まれて、痛みのあまりに、鈍い声が喉を出る。

「……何、泣いてんだ?」

 顎を押さえながら聞けば、真はふるふると弱々しく首を横に振った。

「泣いてない」

「泣いてるだろーが」

 溜息を吐きながら、路傍に自転車を寄せると、蛍は後ろ向きに座って、しゃくりあげる真の顔を覗き込んだ。

 まるで幼子のように泣く姿に、何だかいけないものを見ているような気分になる。

「真」

 名前を呼ぶと、一瞬だけ華奢な身体が震えた。

「なあ、何で泣いてんのって聞いてるだろ」

「…………言いたくない」

「ふーん」

 しゃくりながら、タコの出来た手で涙を拭う真に、蛍はムッと唇を尖らせた。

「……俺の所為?」

「……っ」

「俺が、美乃先輩のこと好きになったから?」

 蛍が言葉を紡ぐ度に、真の涙が大粒に変わっていく。

 夕暮れに反射した涙が、肌を伝って、ジャージにシミを作る。

「……ごめんな?」

「謝るな、ムカつくから」

「ごめんな」

「だからッ!」

 濡れた頬に手を伸ばすと、真はブリキの人形みたいに固まってしまった。

 こつん、と額を合わせると、触れた場所からじわりと熱が伝わってくる。次第に熱くなっていくそれに、蛍はにやりと意地の悪い表情を浮かべた。

「顔、真っ赤だぞ」

「誰の所為だと……!」

「俺の所為?」

「おまっ」

 喚こうとした真の唇を掌で覆うと、蛍はその上から唇を重ねた。

「な、に」

 近付いた距離に、真の顔が更に赤みを増す。

「今はこれで、勘弁しろよ。な?」

「い、みが分からん」

「はあ? 結構分かりやすかったろうが」

 肩を竦めて、真の唇に触れた掌に口付けると、幼馴染の顔が爆発したのかと言いたくなるくらいに赤くなるものだから。

 蛍はけらけらと笑ってみせた。

「初心だねぇ、お前」

「う、煩い……!」

「ははっ。間接チューでそんくらい騒ぐとか、ガキかよ」

「か、間接ッ!??」

「かわいいな」

 蛍、と怒鳴りながら背中に拳を下ろされるが、力の入らない真の正拳は痛くも痒くもない。

 ずっと変わらず、隣に居てほしい。

 ――そう思うのに。

 このぬるま湯のように心地良い関係を超えるのが、少しだけ怖かった。

 だからかもしれない。春風のように何でも包んでくれそうな、そんな雰囲気の美乃に惹かれたのは。けれども、それは一瞬で終わってしまった。

 中途半端な思いで真を悲しませるくらいなら、他の誰かを好きになろうと思っていたのに。

結局、隣に居るのは真じゃないと落ち着かなくて。それなのに、真とは幼馴染のままで居たいとそう思ってしまう。

「……ごめんな」

 小さく呟いた声は、風によって消されてしまう。

 殴り疲れたのか、ぐりぐりと抗議するように背中に額を押し当てられて、蛍は苦笑を零す。

 触れる体温が愛おしい。

それでも、それを伝えてしまえばこの関係が変わってしまうから。

 臆病な自分には、想いを伝えるなんて大層なこと出来そうになかった。

「真」

「……何」

「不細工になってんぞ」

「お前の所為だろ!!」


 げらげら、とどちらからともなく笑いだした二人の頭上で、カラスの群れが鳴いていた。



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