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出逢いと略奪

 俺は妻の声を聞いたことが無い。

 いや、正確に言えばこの三年の間、彼女の声を聞いていないのだ。ただの一言もだ。

 彼女は口がきけないのではない。

 ただ、妻にしてから全く口を開かなくなってしまったのだ。どんなに宥めようが叱りつけようが、一音も声を発することは無い。


 理由は分かっている。

 彼女は俺を憎んでいるのだ。俺への復讐の為に自らの口を閉ざしたのだ。






 もう二度と、彼女の声を聞くことはできないだろう。

 俺の命は、今まさに終わりを告げようとしているのだから。


 虚しさでいっぱいになる。

 通じ合うことのないまま三年が過ぎた。妻にと強く願って手に入れたのに、側に置いた途端に失ってしまったのだ。

 目前にしながら得られなかった地位に未練はない。消えようとしている自分の命さえどうでもよいと思う。

 俺は空っぽになっていた。


 脈動の度にガツンガツンと激痛が全身を貫いて、脳天まで駆け上がってゆく。足が潰れている。

 だが、それがどうした。直にこんな痛みは永遠に消える。胸の痛みと共に消え失せるのだ。


 必死に俺の名を呼ぶ腹心の声が、ゴーッという耳鳴りの向こうから聞こえていた。

 静かにしてくれ、と思う。


 最期に妻の声を聞きたい、それだけを思う。









 この広い島には幾つもの部族が、それぞれに集落を作って暮らしている。

 これらの部族は、地理的な繋がりや部族間の血の繋がりによって連合体を作っていた。大きく四つにわけられた地方ごとに部族連合があり、それぞれに王がたてられている。

 北の王、南の王、東の王、西の王と、四人の王がいるのだ。


 そして更にその上に、上位王が存在し島全体の王となっていた。

 しかし彼らは王と言っても、力の強い一部族の族長であることに違いはない。この島は、一つにまとまった国ではないのだ。



 俺は火の塚の一族を従える族長だ。代々受け継いできた土地と一族を守るために邁進してきた。常に争いが絶えないこの島では、力こそが何よりも大切なものだった。俺もそれに倣い、武力を誇示し強き一族の長として名を轟かせていた。


 近年、老いた上位王の支配力が低下し初めている。

 上位王を排出した南の部族連合もすでに弱体しており、これは力バランスの崩壊を示していた。故に島全体で部族間の争いが更に激しくなってきたのだった。

 群雄割拠、戦乱の時が訪れていた。


 俺も気運に乗って野心を燃やしていた。周辺の部族を次々に配下に収め、いずれは連合の王・北の王の座を目指すつもりだった。

 それは俺だけではない。族長の誰もが高みを、王の座を狙っていたのだ。


 その頃、沈黙の谷の一族だけは我関せずと、ひっそりと以前と変わりのない暮らしをしていた。

 谷のどん詰まりにある彼らの集落に食指を伸ばす者がいなかったからだろう。勢力の拡大を望む者にとって、弱小の一族の魅力のない土地など眼中に無かったのだ。


 俺もそうだった。

 あの日、狩りに出かけなければ谷に迷い込むことも無く、彼らに興味を抱くことも無かったはずだ。いや、興味をもったのは彼女に対してのみだったか……。


 沈黙の谷の小さな森で清らかな声で歌う彼女を、俺は見初めたのだ。






 森の中は、存外に明るかった。

 キラキラと眩い陽光が、幾筋もの帯となって降り注いでいた。茂る緑の葉の合間を真っ直ぐに降りてきて、下草を所々白く輝かせている。

 俺は、久々の散策を楽しんでいた。供の者とはぐれはしたが、方角を見失ってはいなかったからだ。このところ戦続きだった俺にとって、その散策は一時の休息を与えてくれた。


 ゆっくりと歩を進めてゆく。

 その時、微かに風が歌声を運んできた。

 美しく清浄な、透き通る女の声だった。




――谷そよぐ風が 祖の祈りの歌を 今日も我に運びくる

  神は我らを見守り給う 約束の明日を与え給う

  安らぎの朝と 穏やかな夜を 繰り返し与え給う

  その愛に この身を捧げ 祈りを重ねましょう……

  



 まるで森の妖精が、突然と俺の耳に囁きかけたように思えた。

 声は頭の中で響き渡り、ストンと胸に落ちるとドクドクと鼓動を乱した。俺を探しているであろう供のことなど、すっかり忘却の彼方になっていた。


 妖精の歌声に誘われて、俺は森の中を進んでいった。

 そして、彼女を見つけた。


 胸の前で指を組んでひざまずき、目を閉じて巨木を仰いでいた。

 彼女はとうとうと歌いつづける。

 白い肌に流れるような黒い髪、華奢な身体、そして呪文のように俺を虜にする歌声。


 彼女の歌いあげる高く切ない旋律が、俺の胸を突き刺していった。

 衝撃だった。


 チリチリと我が身を焼かれるような、同時にゾクゾクと背筋を震わすような感動だった。立ち尽くし、息もできぬほどだった。

 数多くの吟遊詩人を招いたが、こんな歌い手に出会ったことなど無かった。

 奇跡のように美しい歌に魅せられて、ふらふらと彼女に近づいていった。


 不意に彼女の歌が止み、俺を振り返った。

 自分でも気づかぬうちに、彼女のすぐ後ろまで来ていたのだ。


「……!!」


 彼女は大きく見開いた瞳を揺らして、俺を見上げた。そしてさっと後ずさってゆく。


「申し訳ない。貴女の歌がとても素晴らしくて聞き惚れてしまった。つい引き寄せられて、不躾にもこんな近くまで来て……許してもらえるか?」


 警戒する彼女から慌てて距離をとり、精一杯温和な笑みを浮かべた。片膝をついて深く頭を垂れる。

 この程度で、彼女を安心させる自信はなかったが、せめて悲鳴を上げて逃げ出されないようにと、俺は必死に紳士的にふるまったのだ。


 自分が美男子などではなく無骨で粗野な男であることを、俺は充分に承知している。大黒熊とアダ名される程なのだ。か弱い女性から見れば、さぞや恐ろしい大男に見えるだろう。

 逃げないで欲しい――そう願いながら、俺は笑みを絶やさぬようにゆっくりと語りかけた。


「感動というものを、初めて知った。こんな俺でも胸が震えたのだ。あまりの美しさに人の歌声とは思えなかった。森の妖精が歌っているのかと思うほどに……。沈黙の谷の一族は妖精の血を引いているのかな?」


 少しおどけて首をかしげてみせると、なんと彼女はクスリと笑ってくれた。

 緊張を解き、逃げ腰で半身になっていた身体を俺に向けてくれたのだ。そして、えくぼの愛らしい悪戯な微笑みを見せたのだ。ちらりと覗いた小さな白い歯が、より一層可愛らしい。


「ええ、私たちは妖精の末裔なの」


 そよそよと風が吹いて上空の梢を揺らすと、光の帯が彼女の上で踊るように揺れた。

 ああ、妖精は本当に居た。

 俺はもう、彼女から目を離すことができなくなっていた。

 ゴクリと唾を飲み込む。


「……では、この愛らしい妖精殿の名前はなんというのか、教えて貰えないか。どうやら俺は貴女の信奉者になってしまったようだ」

「名前を聞くときは、まず自分から名乗るものでは?」

「失礼した。俺はグエンだ。火の塚の大熊と言えば、貴女も知っているだろうか」

「まあ……」


 俺が名乗ると、彼女はまた大きく瞳を見開いて俺を見つめた。そして小さくウンウンと頷き、一人で何やら納得していた。怯えてはいないようだ。


「どんなに恐ろしいお方かと思えば、なんのことは無いのね」


 クスクス笑う彼女の言葉に、俺の方が大いに驚いた。俺の事が怖くないらしい。

 少し上目遣いで、こちらがたじろいでしまう程にじっと目を合わせて微笑むのだ。一層、俺の鼓動は早まってゆく。ほんの少し話しただけで、こんなにも心が踊るのは初めてだった。


「私はディーナ。巨木の神に歌を捧げるのが私の仕事。神の為だけに歌うの。でも、見て……」


 彼女がゆっくりとあたりを見回す。その先を見れば、沢山の鳥が枝にとまっていた。リスやモモンガなどの小動物もいる。樹の根元には狐らしき動物もいた。


「いつも、私の歌を聞きに集まってくれるわ。今日は森の熊さんも聞きに来てくれた。褒めてくれてとても嬉しいわ」


 ディーナはニコニコと人懐っこく笑った。少し頬が上気している。


 俺はキョロキョロと視線を泳がせた後、思わず吹き出してしまった。熊さんとは、俺の事か。

 すると彼女も声を上げて笑い出した。途端に、鳥や動物達が去ってゆき、二人だけになった。



 輝く木漏れ日の下で、俺達は目を見合わせる。

 彼女が親しげに笑いかけてくれるのは、何故なのだろう。

 ああ、俺が一目でディーナに心を奪われたように、もしかしたら彼女も俺に……、いやよそう、都合の良い愚かな妄想だ。勘違いをしてはいけない。

 初見で嫌悪されることはあっても、好意を抱かれることはない。俺の頬には醜い刀傷がある。

 俺は軽く頭を振った。


 だが、頼み事を一つするだけなら、良いのではないかと思う。

 もう一度歌って欲しいのだ。

 彼女は神に捧げる為だけに歌うのが仕事だと言った。人間に聞かせる歌ではないのだろう。それなら、さっき彼女が機転を利かせたように、俺はただの森の熊に徹すればよい。

 本当は、俺の側でこれからもずっと歌って欲しい、そう付け足したいのだが今は控えておこう。


 俺はドクドクと高鳴る心臓を沈める為に、大きく深呼吸を一つした。

 そして彼女に願いを伝えようとした時、彼女が言った。


「帰らなくては……日が暮れる前に帰らないと叱られてしまう」


 彼女の視線がスッと逸れた。

 高揚していた心は一瞬で重く沈んだ。行かないで欲しい。もっと聞きたいことがある。もっと知りたいことがある。

 だが、彼女は一歩二歩後ずさり、目を伏せた。

 ちらりと空を見上げると、日の光がわずかだが朱色に染まっている。


「ディーナ……君の歌を聞きたい」


 それだけをやっと口にした。

 彼女の唇に浮かんだ笑みが悲しげに寂しげ見えたのは、俺の願望のせいだろうか。本当はまだ帰りたくないのだと言って欲しい。


「……あなたにその資格があれば、いつかきっと……」


 ディーナは巨木の向こうに走ってゆく。

 その後ろ姿に俺は叫んだ。


「ディーナ! 明日もくる! 明後日も、明々後日も!」


 彼女が振り返った。

 笑みは無かった。真剣な、とも言うべき表情で俺を見つめ、そして今度こそ走り去ってしまった。


 


 それから俺は毎日、谷の森の中、巨木のもとへ通った。

 だが、ディーナに会えることは二度となかった。









 俺は沈黙の谷の一族の下へ使者を送った。

 ディーナを妻にしたいと申し入れたのだ。森で会うことが叶わず、業を煮やしての事だった。


 彼女は嫌がるかもしれない。一度しか会ったことのない男から求婚されても、戸惑うだけだろう。しかし、それでも構わない。彼女に会えぬ日々をもうこれ以上増やしたくなかったのだ。

 無理を通すことは、後で幾重にも詫びよう。大切にすると誓おう。


 送り出した侍従が彼女を連れ帰ることを、俺は信じていた。火の塚の大黒熊グエンの名に逆らう者がいるとは思わなかった。先方の族長は一も二もなく、彼女を俺の下へ送り出すだろうと確信していたのだ。


 しかし、実際は違っていた。

 顔面を青く染めた侍従が、今俺の足元で額を床に擦り付ている。主の逆鱗に触れることに怯えて、事の次第を話すこともままならないほど震えていた。

 ディーナを連れ帰ることができなかったのだ。


「何故だ」


 ようやく仔細を聞きだすと、かの族長は穏やかにしかし頑なに拒んだのだと言う。彼女は神に嫁した斎の姫故に誰とも結婚できないのだと。


 怒るよりも不思議でならなかった。

 もしも彼女が俺を嫌だと言って拒んだのであれば、悲しいかなまだ納得できるのだ。

 しかし、族長の言うことは納得できなかった。何が斎の姫だ。還俗させればいいだけのことだ。今、勢力を伸ばしている俺に歯向かうことは、一族に危機をもたらすことになると考えなかったのだろうか。

 これまで争いと無関係に過ごしてきた一族は、想像力が欠如してしまったらしい。自分たちに刃が向けられるとは、思いもしないのだろう。


 俺は立ち上がり、侍従の腹を蹴りあげた。


「立て。今から谷へゆく」

「はい!」


 侍従は跳ね起きて、扉を開いた。

 部屋を出てゆく俺の後に、背に剣を携えた歴戦の戦士たちが無言で続いた。彼らが活躍することがなければ良いのだがと、俺は胸の内で呟いた。







 空は深い藍色に支配されていた。東の低い空に、煌々と光る月が登りくる。

 天頂には無数に星が瞬く美しい夜空だったが、谷の大地は血塗られていた。


 御者がムチを振るい、チャリオットは砂埃を巻き上げて疾走を始めた。我が砦に帰るのだ。

 馬車がバウンドする度に、ディーナは外へ飛び出しそうになる。できるだけ振動による衝撃から彼女を守ろうと、俺は身を寄せようとした。


 しかし、彼女は涙をはらはらと流しながら、俺に触れさせまいと首を振るのだった。森で見せた可憐な笑顔はそこには無い。燃えるような目で俺を睨んでいた。

 それでも無理やり彼女を抱き寄せた。初めてのチャリオットに女が一人で乗れはしないのだ。

 彼女は俺の腕にガリっと爪を立てたた。構わず俺は抱きしめる。そして、激しく揺さぶられるうちに諦めたのか、彼女は大人しくなった。


「ディーナ……お前に会いたかった」


 俺の呟きは、馬の駆ける音と車輪の轟音にかき消されて、彼女に届くことはなかっただろう。そして、俺の思いも届いてはいないだろう。

 しかし、今、腕の中で大人しくなったように、いつかは受け入れるはずだ。か弱い女が、いつまでも抵抗し続けられるはずもないのだ。


 俺は彼女の一族を殺した。愚かな族長も彼女の親も兄弟も、沈黙の谷の一族を全てを一人残らず殺したのだ。復讐を企てる者を作らぬ為に、子供も誰一人残さずにだ。

 そうやって、彼女を手に入れたのだ。





 戦支度をした屈強な部下を引き連れて、俺は谷に入った。

 穏便な訪問などでは無いと知らしめ、否やとは決して言わせぬ恫喝を込めての行軍だった。


 俺は谷の者達を前にして、傲然と彼らの族長に上座をあけ渡すように要求した。

 彼は素直に従った。俺を高い位置に座らせ、ひざまずいたのだ。使者の要求は撥ね退けたくせに、俺を前にして肝がすくんだかと冷笑を浴びせた。


「俺の望みを叶えろ。この谷の安堵を願うならそれが最善の行動だ」


 ひれ伏す谷の一族を見渡すが、ディーナの姿は見えない。

 望むものがなんなのか知りながら、隠しているのか。


「ディーナを俺の妻にする。連れて来い」


 族長は深々と頭を下げた。

 白髪混じりだったが、さほど年をとっているわけでは無さそうだ。ハリのある声で彼は言った。


「グエン殿は、我らの森の神をご存知ですか? 森にはこの地方で一番の巨木がそびえております。我々の父や祖父、曾祖父が生まれる前から生きている木でございます。もしかしたら人がこの島で暮らすようになる前に誕生したのかもしれません」


 彼の言う巨木とは、ディーナが歌を捧げていたあの巨木のことだろう。知っているも何も、何度も訪れその幹を溜息と共にさすったものだ。

 だが、今は木の話をしに来たわけではない。


「その神がなんだと言うのだ」

「巨木に宿る神は、我々におっしゃられたのです。共に生きる森のものたちと調和せよと。草木も動物も人も等しく森の共存者であるのだからと。思いやりと調和があれば森はいつ久しく平穏であり、人の魂にも安寧が訪れるのです。欲や争いを捨てることで、我々は神の御加護に守られてきました。グエン殿、貴方も我らの神を信じなされますか? 貴方が我らと共にこの森の調和の中で暮らしてゆかれるならば、神もディーナをお与えになることでしょう」


 族長は、半ばうっとりと話していた。

 俺は言葉が出なかった。目ばかり大きく開き、族長を見つめる。神を盲信する愚か者に呆れ果てたのだ。

 そして、なんと馬鹿げた話だ。彼らが信ずる神を俺も信仰するならば、神のものであるディーナを妻にやるなどと、ふざけた交換条件だ。


 何が調和だ。生き物全てが等しいなどと有り得るはずも無かろうに。

 この世は弱肉強食で出来上がっているではないか。お前たちは森の動物を狩らないと言うのか。樹の実を採らないと言うのか。

 生きる為に必要だからと言い訳をするなら、俺が戦に賭けるのも一族の命の為なのだ。周辺部族からの脅威から守るためなのだ。そして高みを望むのは、人として当然のことだろう。


 俺は神など信じない。

 第一、彼らの神は争いを戦を否定している。そのような神の信徒になどなれるわけがない。俺は部族連合の王の座に、最も近いところまで来ているのだ。


 話にならない。

 俺は、鞘に治まった剣をガンと地面に突き立てた。



「言いたいことはそれだけか」

「はい。是非、我らと共に森で生きていただきとうございます」

「断る!」

「それでは、ディーナとは縁が無かったということですな」


 族長は穏やかに笑った。

 俺の腹の中に、沸々と怒りが湧いてきた。鞘に手をかけた。

 立ち上がりざまに剣を抜き、ブンと風を切って彼の喉に突き付けた。


「戯言はここまでにして、さっさっとディーナを差し出してもらおうか」


 彼を見下ろし、睨みつける。

 俺が歯をむいて凄んで見せても、彼は微笑んでいた。


「剣では何も得ることはできませんぞ」


 そう言って穏やかに笑ったのだ。

 俺が本当に刺すとは思っていないのだろうか。舐められたものだ。

 怒りを抑える気が無くなった。


「奪って手に入れれば、それでいい」

「後悔なさいます」

「お前が後悔しろ! あの世でな!」


 一気に剣を突いた。

 沈黙の一族の長は、呆気無く背を地面に叩きつけたれた。倒れた族長の喉に更に差し込むと、彼の指がピクピクと痙攣する。

 しかし、その顔は恐怖に歪んではいなかった。この男は、死んでなお俺を苛つかせる。


 ヒイッと細い悲鳴が上がり、沈黙の谷の一族の者達が後ずさっていった。

 俺はゆっくりと周囲を見渡す。

 剣を引き抜いた。

 ピュウ、ピュウ、と間欠的に赤い噴水が上がり地面を濡らしてゆく。


「族長のようになりたくなければ、俺に従え」


 身体が熱くなり、血がザワザワと登ってくるのを感じた。戦の時にいつも感じる高揚感に似ていた。こうならぬことを願っていたのに。

 俺の前に、青ざめた男が一人進み出てきた。


「我々は戦をしません。武器も持っていません。それでもお切りになりますか?」


 俺は上段から一刀でその質問に答えた。

 赤い飛沫が飛ぶ。

 切り裂かれた男は崩れ落ちながら、背後の仲間に逃げろとつぶやく。彼らはオロオロとするばかりだった。


 俺は目で合図を送る。戦士達が剣を構えた。

 途端に、弾かれたように谷の者達が逃げはじめた。だが、もう遅い。

 オウ! と声を上げて戦士は剣を振るいはじめた。俺もまた存分に振るう。

 一人、また一人と谷の人間が倒れてゆく。

 その様は、戦とは呼べなかった。一方的な虐殺と解りつつ、もう止めることはできない。


 俺の目はディーナを探していた。逃げ惑う者共の中に彼女を顔を必死に探した。


「ディーナ! ディーナ!」


 声の限り叫んだ。

 部下に、誤って彼女を傷つけられては堪らない。今は俺の命令に従って若い女は殺さぬようにしているが、頭に血が登ってくれば彼らの理性など彼方に飛んでしまうだろう。

 早く彼女を見つけなければならない。


「ディーナ! 何処だ!」

「……グエン」


 か細い声に振り返ると、ついたての陰からディーナが出てきた。

 真っ青な顔だった。ブルブルと唇と身体を震わせている。真っ赤になった目からは涙がこぼれていた。祈るように両手を組んで、俺を凝視していた。


「な、なんてことを……」

「ディーナ! ああ、ディーナ。やっと会えた。お前に会いたかった!」


 すぐさま駆け寄った。

 彼女を見つけた喜びに、俺は思わず抱きしめようとした。


「グエン! そんなことの為に貴方は……!」


 パンッという音とともに、左頬に痛みを感じた。

 さっと後退りディーナが唇を噛んで、俺を睨みつけていた。その瞳の中に憎悪が揺れているのを俺は見た。


「そうだ。全てはお前に会う為だ。お前を妻にする為だ」


 絶対に逃さないという意志を込めて、彼女の腕を掴んだ。そして引き寄せる。

 族長を殺したのは本意では無かったが、今それを言ったとて理解はされないだろう。それよりも、ディーナに俺のものになるのだと分らせることが先だった。


「なぜ、俺を避けた? 毎日通ったのだぞ」

「……知っています。貴方が私を探していたことも」

「知っていただと? 見ていたのか! なぜ、姿を見せなかった!」

「……貴方には、まだ資格が無かったから。……そして、もう得ることを放棄してしまった……」

「お前も族長と同じことを言うのか。お前たちの神を信じろと!」


 ポロリと涙をこぼして、ディーナは頷く。

 悲しげな彼女の顔を見ても、怒りしか湧かなかった。

 ギリギリと奥歯を噛みしめ、そして怒鳴った。


「では、これが答えだ!」


 拳を突き上げる。部下が俺を注視している。

 親指を立てた拳を下に向けた。


「やれ」


 動きを止めていた戦士達が、再び雄叫びを上げた。

 皆殺しの合図だった。


「やめてーー!!!」


 俺にすがりつくディーナの悲鳴は、男たちの怒号にたちまちかき消された。




 争いを否定する神を信ずる一族は、殆ど抵抗せずにみな死んでいった。神は彼らの命を守りはしなかった。そんな神を信ぜよなどと、良く言えたものだと思う。愚かな一族だと、心底思う。


 彼らがディーナを差し出して入れば、こんなことにはならなかったのだ。欲しいものは、なんとしても手に入れる。頭を下げては、手中にした他の部族に示しがつかないのだ。


 俺だけではない。誰もがそうしているではないか。俺は火の塚の族長なのだ。

 言い訳じみているそう思いつつも、自分を正当化せずにはいられなかった。

 彼女の涙に責め立てられいるようで、苦しかった。


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