オルゴール
1.
目の前には、一週間前に私の生活に溶け込んだ箱型のオルゴールがある。一週間で私の生活に順応しきったこれは、おそらく、十か月間交際し続けて三週間前に別れを迎えたガールフレンドよりも、私のくだらない美学や取るに足らない価値観に理解を示してくれる存在なのだろう。
しかし、残念だけど、私の持ち物ではない。ただ、今ここにあって、この部屋のかび臭さに馴染んだ。それだけだった。
先程かかってきた電話を思い出す、アンティークとは無縁の電子音は、情緒を感じさせる時計仕掛けや優雅さを際立てるティーセットというものを一挙に否定するように――私を『仕事』から『現実』へ引き戻すように鳴り響いた。
しかし、通話の内容は悪いものではなかった。そこにはドラマがあった、私の貧しい感性を刺激し、仕事に対するモチベーションを上げるに足りるだけのドラマだ。とはいえ、そのドラマがもたらす私の生活における作用といえば、どうにも悪いものだったようで、三日前に終えた仕事の支払いがなくなる事を告げた。得てして私の仕事と現実は反比例の関係にあるのだ。
私の仕事は古美術品や骨董品の修繕だ。閑静な住宅街の片隅にこじんまりとした店を構え、少ない仕事を請け負い、典雅で美しく、時に実用性とは無縁な道具たちを癒す。
日本では珍しいらしいこの仕事は、三車線道路や蛍光灯よりは、田舎道をゆく馬車や獣油ランプの方が似合う。……当然、後者を日常生活で目にすることは少ない。
だから私は、自分の仕事はある意味で、非現実的な職業なのだと納得している。
生活に困らない仕事かと言われればノーだった。しかし、娯楽と金儲けが一体になっている事を考えれば、割に合わないというほどでもない。私はなんとなく、今まで一度も会ったことがない専業ギャンブラーとされ得る人種に親近感を抱いた。
けれど、間もなく思い直した。もしかしたら今までの客の中には、ギャンブラーが居たかもしれない。
ギャンブルで捻出したあぶく銭で、思い出の懐中時計を修理に出す三十代半ばの男性像を思い描く。……おかしなことだが、私の部屋で時折鳴り響くスマートフォンとこれまたある種の親近感がある気がした。彼らにもドラマはあるだろうか。
しかし、あったとしても今現在目の前にたたずむオルゴールには負けるだろう。なんとなくそう思った。不意に指先がオルゴールの計算し尽された精緻な細工をなぞろうとしたが、理性が働き、それを制した。手袋をかけずに依頼品に触れるのは、私の店ではご法度だ。
2.
オルゴールの持ち主は、派手めな服を着た若い茶髪の女性だった。
仕事に不慣れだったころは、この手の人物を見るたびに、私の営むような店に来るには意外といいえる人物だ、なんて思っていた。けれど、アンティークを好む人々の多くが裕福層と思える人間や情緒や風情などという私の憧れを持ちうる人々だけではないらしいと知ってからは、珍しいとは思わなくなった。
そのころにはむしろ、好奇の目を向けていた事など忘れて、「またファッションの一環でアンティークを購買する人間か」という蔑視に近い印象さえ持つようになった。そして、またしばらく経ったころには、今度こそ本当に何とも思わなくなった。
……例の女性客も、何でもない客の一人だったし、渡されたオルゴールも(この仕事に携わる上では)特別に珍しい品というわけでもなかった。普通の客が普通に持ち込んだ普通の品、依頼を受けた一週間前では確かにそうだったのだ。
白い洗いたての手袋で、件のオルゴールに触れる。
造られた時期はさほど昔ではないらしい、むしろかなり最近に造られた品で、それ故に洗練された装飾と緻密な内部構造が備わり――おかしな話だが――だからこそ芸術品と呼ぶにはいささか躊躇われる、そんなものだ。かと言って低俗だとも思わない。
何故なら、これが大量生産では無く人の手――それもおそらくは素人の手で造られたものであるらしい事は、依頼を受けた瞬間に理解できた。所詮は推測に過ぎないが、手作りオルゴールの作成キットのようなものが売られているのだろう。あるいは、どこかの観光地でそういった体験教室などを開いているところがあるのかもしれない。
冷静になって考えてみれば、先ほどの電話を受けてからこの品について、美しいだとか精緻であるだとか思うようになったのかもしれない。私の職人としての分析とロマンを求める単なる物好きとしての感想は、明らかに矛盾している。
「さて、どうしたものか」
電話の内容、それは端的に言えば訃報だった。依頼主である女性の知人を名乗る男性から、彼女が交通事故で亡くなったという内容。その声は悲しみを押し隠しているようにも聞こえた。
声の感じからして、おそらく若い。そして何よりわざわざオルゴールの修理の話なんて、余程の仲でない限りはしないだろう。それもどこの店に出したかなんて事まで。
電話の青年は依頼主の恋人ではないかと私は思った。私は人間関係なんかをうまくこなしたりするのは苦手で、当然のように他人同士の間柄を予測したりするのはもはや今まで試みた事があったか怪しいくらいのものだが、それだって今回の事に関していえば、多少の自信が持てる。
「どうしたものか」などと呟きはしたものの、私はどちらかと言えばウキウキしたようなワクワクしたような、そんな嬉しげな気持だった。電話を寄越した依頼主の知人が、オルゴールの持ち主である彼女に代わり受け取りにやってこないという事は、このオルゴールは私がこのまま管理したって問題ないのだろう。
オルゴールを開き、内側に仕掛けられたゼンマイを巻いてやる。流れる曲は、有名なクラシックではない。私は今までいやというほど様々なオルゴールを修理してきたし、その度に依頼主へ元はどんな曲かというものを聞いてきた。おかげで、私は有名なクラシックに関してはそれなりの知識を身に着けるに至った。
今回のオルゴールは、駆動系そのものが損傷してしまったものであったから、曲名に関する話は聞かなかった。
無論、曲名を聞いてシリンダーやピンにも何らかの損傷があれば、その調整も行おうと思ったし、依頼主にその事を打診もしたが、彼女は「結構です」という一言で断ってしまったものだから、曲名はわからずじまいだった。
もしかしたら、私の知らないだけで本当は有名なクラシックかもしれないし、最近のヒット曲や懐かしのメロディをオルゴールにしたという代物かもしれない、或いは全くのオリジナルかもしれない。
もし、オリジナルであるとすれば曲名を言われたところで調べようがないし、はじめから曲名なんてないかもしれない。
しかし、その私にはわからないオルゴールの曲は、こうして聞いてみると、鎮魂歌か何かのように聞こえてくる。……いや、オルゴールというものは、そういった心持で聞けば多くがそのように感じられるのかもしれない。
ともあれ、美しく飾られた動かないオルゴール、曲名のわからない鎮魂歌のような音色、そしてそれを受け取りもう一度この音色を耳にする事のない依頼主。ロマンやドラマに溢れている事は揺るぎがない。
3.
電話を受け、情緒的な思いのゆりかごに抱かれ、ロマンに溺れた日。それは昨日の事になっていた。結局私は、なんともそのオルゴールから離れられずに店の中で寝入って、一夜を明かしてしまった。
当然、オルゴールはゼンマイが回りきって、止まっている。
ふぅーっと大きく息を吸い、伸びをした。
不意に、ある疑問が頭をもたげた。
私に例の電話をした青年。彼が依頼主の恋人であるならば、何故オルゴールを受け取りに来ないのだろうか。いや、恋人ではないにせよ、オルゴールの修理なんて話をした仲なのだ、大げさに形見とまで言わずとも、取りに来るのが普通ではないだろうか?
昨日の私はすっかり本当かどうかもわからないドラマとロマンに溺れていたせいで、そういった常識的な考えが浮かんでこなかった。
受取らない理由について、最も早く思い浮かんできたのは、代金の問題だ。電話口で話しただけなのだから、実際にどのような人物なのか私にはわかりかねるが、もしかしたら、彼にはあまり自由に出来るお金がなく、受取に来るという選択を出来なかったのかもしれない。そうだとすればなんと悲しい事だろうか。お金というものにいくらかの『汚らしさ』を感じずにはいられない私にとっては、実に悲しく勿体ない事だと思えた。
私は昨日からつけっぱなしの手袋をはずし、別の清潔なものに替えるとオルゴールに触れた。もしも、青年が、お金の問題で受取に来ないのならば、私にすべき事は決まっている。
無償でこのオルゴールを彼へと渡す。
元より私はロマンに憧れてこの仕事をしているのだ、ならば多少お金の事を蔑ろにしたっていいではないか。
4.
プルルル、プルルル……
私は昨日かかってきた電話番号へリダイヤルし、スマートフォンを耳に押し当て、呼び出し音を聞き続けた。
間もなく、プツッという小さな音が相手の受話を知らせた。
「もしもし?」
昨日の青年の声だ。
「こんばんは、突然のお電話、失礼致します。わたくし昨日お電話を頂戴いたしました、骨董、古美術、時計修理の店カミヤでございます」
「あ、どうも……」
「依頼を受けていたオルゴールの件なのですが、御引取りになられませんか? もちろん御代は頂戴いたしません。形見となるでしょうし、わたくしが保管するのは筋違いのような気が致し」
「結構です」
私がみなを言い終えるより先に、青年は拒否した。
その口調はとてもハッキリしたもので、遠慮をしたようには思えなかった。私は、何故そのような返事が返ってくるのか理解できず、なんと言ったものかと必死に思案する。私が言葉に詰まったせいで生じた沈黙を青年が破る。
「迷惑なんですよ。彼女とは大した仲じゃないんです。一方的に付きまとわれて……、どうだっていい話をあれこれされて、心底迷惑してたんですよ。だから、形見なんて欲しくもないです。昨日お電話を差し上げたのはこのままでは修理屋さんが気の毒だと思ったからです。本当にそれだけです。なので、そのオルゴールは私物にするのでも処分するのでも、好きにしてください」
青年は、強い語気でそう言うと、失礼しますと付け足して、電話を切った。
5.
私はまた、手袋をしてオルゴールのゼンマイを巻いた。鎮魂歌のような音色がかび臭い店内に響く。初めに青年が電話をかけてきたときの声、あれは悲しみを押し隠していたわけではなかったのだろう。きっと、もっと背徳的な感情を隠していたのだ。
……確かに、このオルゴールにはドラマがあった。それも私の貧しい感性を刺激するドラマが。
だけどその真相は、初めに期待したモノとは、全く異質なドラマだった。
何故このオルゴールは壊れたのか? もしかしたら壊されたのかもしれない。あの青年に。だから修理代の事に負い目を感じて、彼はわざわざ私に電話をかけてくれるなんて事をしたのかもしれない。
或いは、交通事故なんていうのはそもそも大嘘で……、いや、やめておこう。いくら考えても、本当の事がわかるわけではないし、知るべきでもないのだろう。
私の心の中には重苦しく、ドロドロとして、底が見えないほど深い何かが立ち込めた。