一章 三話
永い眠りから覚めたように僕は起きた。
一番最初に目にはいったのは黒髪の『おんな』。
僕の姿とは全く違ったその人は『わたしのこ』といって僕を抱き寄せた。
反射的に体を強張らせると、少しはなれたところで見ていた『おとこ』が吹き飛ばされるのが見えた。
ああ…ここは…どこ?
永い眠りの中で樹々が教えてくれた『知識』。
精霊達が教えてくれた『ことば』。
初めて見た『おとこ』と『おんな』がなんとなく理解できるのは、眠っている間に精霊達が見せてくれた幻影のおかげなのかもしれない。おせっかいな精霊達がいろいろ教えてくれた『ことば』。でも僕にはそれを『言葉』として『言う』ことができない。
キン、という音と共にその『おんな』は先ほどとは全く異なる地に降り立った。
どのくらいの間が経って移動したのかはわからない。
一瞬だったかもしれない。
寝てしまうほどの間があったかもしれない。
気が付いたら、樹々も精霊もいない真っ暗な大地の上にいた。
『気持ちが…悪い…』
腹の中がムカムカするような嫌な感じを覚えた。
「あぁ、時空を渡ったから酔ったかしら?少し休むといいわ」
『おんな』はそういって僕を降ろした。
自分で立つ、というのは中々難しいことだった。足がふらつく。無理もない、先ほどまで永い眠りについてて、生まれて初めて『歩く』のだから。
ロワ…と名乗ったその『おんな』は、僕がふらふらしつつも立ち上がるのを見ると歩き出した。
「ルドルシフ、この湖畔を歩いていくとあなたの兄弟に会えるから。少し休んだら一緒にあの城門を目指しなさい」
ロワが指差した方を見入る。
あんなに遠くまで歩けるのだろうか。
「精霊達が少しでも『ことば』を教えておいてくれたから助かるわ。あとはルドにもロワの祝福を」
そういって自らの名で祝福を、と言った『おんな』は僕の頭に手を置いた。
ゆらり、と眩暈がする。
腹のなかの気持ち悪さもあって うっ と呻く。
視線を落とすと、ふらふらと立っていた鱗と蹄の前足は白く柔らかな皮膚と小さくしなやかな指へと変わった。
ぽす、と軽いしりもちをつく。
足に力が入らず、立ち上がれない。
「あ…」
『こえ』が出た。
人型になったら『言葉』も学ばないとね。ルド。
ロワはしゃがんでルドに目線を合わせると、彼のプラチナブロンドの髪を撫でた。
「すぐに慣れるわよ。大丈夫」
「あ…う…」
『こえ』は出るけど『ことば』が出ない。
『ここはどこ?どうしてここにいるの?僕はどうなるの?』
沢山の疑問が次々とわいてくる。
「城にいったらきっとわかるわ。きをつけてね、ルド」
そういうと彼女は自身の首にかけていた黒い布をとると僕の腰にまきつけた。
「流石に裸ではね…城にいったらその布で仕立ててもらってちょうだい」
そう言うとキン、という音とともにロワは微笑みと共に消えた。
シタテテ?意味がよくわからなかったが、僕はとりあえず休むことにした。
知らない場所、知らなかった僕の新しい姿。歩き方もイマイチわからない。
そんなところになぜあの人は一人おいていったんだろう。
波の音と、まばらに生える木々を通り抜ける生暖かい風の音。
暫くすると、その音に かすかに泣き声が加わったのに気づいた。
『だれか…いるの?あぁ、歩いていったらキョウダイがいるっていってた…』
泣き声のする方へ歩いて行きたいが、足は思うように動かない。2本足だから悪いのか、と思い手もつかってよたよたとルドは湖畔を進んだ。
数歩進んでは休み、また進んでは膝をつく。進んでるうちにだいぶコツは得てきた。
-あともう少し…-
すすり泣く声はだいぶ近くになった。
眼をこらして月の薄明かりの中を探す。
『あ…いた』
声に出さずに発せられた『ことば』を感じたのか、それはびくっと一瞬硬直し、ルドをみた。
『どうしたの?泣いてるの?』
自分と同じように柔らかな肌をもった黒髪の子。肌の色は自分とは違ってすこし暗い色をしている。
『だ…れ?』
その子もまた、声にはでない『ことば』を発した。
『えぇと…ルドルシフ。ロワっていうのにここに連れてこられて、ここでキョウダイに会ってからあっちに向かえって。』
そういってルドは城門を指差した。
『ロワ?キョウダイ?』
頬を伝わる涙を手で拭きながらその子は言った。顔が泥だらけだ。
『僕もあっちへ行けって言われた。けど…ぜんぜん歩けないし、元の姿にもどれなくて…』
そういうとまた大粒の涙がひとつ。
『じゃぁ君がキョウダイなんだね?』
『でも僕のなまえはキョウダイじゃなくてヒシリアだよ』
『じゃぁキョウダイって何なんだろう…』
じっとルドはヒシリアを見つめる。手についた泥と涙でますます顔が泥だらけになっている。
『ほら、こうやって手もつかうと前に進みやすいよ』
ルドはよたよたとヒシリアの前に四つんばいで歩み出る。
ソレを真似してヒシリアも後についてゆく。
『きっとあのジョウモンとかいうところにいったら、なにかあるんだよ。元の姿にもどれるかもしれないし、もっと歩きやすいかもしれない』
ヒシリアを励ましたつもりだが、ルドは自分自身にも言い聞かせているような気がした。
歩いては止まり、歩いては転び。きっと育った彼らにとってはコレが最初の出会いの思い出だが、きっと思い出したくない一場面となるだろう。
乾いた大地は手足に刺さり、大きな岩が行く手をさえぎり、ただでさえ遅い歩みがどんどん力弱いものになる。
会話もなく、ただ黙々と進む。
かなりの時間を要してその巨大な城門へとたどりついた。
小さい二人には見上げると首がいたくなるくらい高い城壁と鉄の門。黒く鈍く光るその扉は彼らが近づくと ギィィィィと鈍い音をたててゆっくりと開いた。
小さな子が通り抜けれるくらい扉があいたところで よたよたとヒシリアが先に通り抜けようとして…前に出て急に止まった。大きな獣の脚が見えた。
「やっときたか、ロワの守護獣」
頭の上から聞こえた声の主の姿をみて硬直する。
見上げるとそこには犬の頭が三つ。
いわゆる地獄の番犬・ケルベロス。
「まだ歩き方もわからんと見える。ロワもせめて城門へ連れてくればよかったものの、あの湖を産湯としたか」
真ん中の頭がにぃ、と笑ったような気がした。
ヒシリアもルドルシフも『こえ』が出ない。
「そんなに怯えるな、まぁ歩き方も何もかも、これから城で覚えるがいい。まぁ、よくここまでたどり着けたものだ」
右の頭がいう。
「ま、何かあったら助けに行こうとは思っていたがな。とりあえず城には運んでやるよ。だいぶ疲れただろう、顔まで泥だらけだもんな」
左の頭がぺろり、とヒシリアの顔を舐める。小さなヒシリアの顔ごと舐めてしまうような巨大な舌。
「そんな怯えるなって」
放心状態で見上げるルドルシフの肩のあたりを 右の頭が銜えると、左の頭がヒシリアをそっと銜える。
「ここからは俺らが城まで連れてってやるから、おとなしくしてろよ?」
真ん中の頭がそいうと、ギィィィィというまた鈍い音と共に城門は閉まり、ケルベロスはゆっくりと歩き出した。