↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

恋愛小説のはずでした

撫でていた小竜が夫でした。人間の姿でも甘えてください

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/10/05

 

 夫に近づくには、まず食卓を半周しなければならない。パン籠も銀の燭台も花瓶も、その途中にある。結婚して一か月、私はまだ、向こう側に座る夫よりジャムの瓶と親しい。


「そちらのジャムは、気に入っただろうか」

「はい。皮の苦みが少し残っていて、とてもおいしいです」

「それはよかった」


 アルヴィン様は頷き、手元の皿へ目を戻した。私の好きな柑橘のジャムは、なくなる前に新しい瓶が届く。部屋には花が絶えず、湯も食事も望んだときに用意されるのに、夫との会話だけは、いつも私の方が先に欲しくなった。


「中庭の木が、綺麗に色づいてきましたね」


 少し大きな声を出すと、夫が顔を上げる。その琥珀色の目をまともに受け止められず、私はついカップを持った。五つ年上の夫は、黙っていると近寄りがたいほど顔立ちが整っていて、こちらの言葉の出来まで確かめられている気になる。


「気になる場所があるなら、庭師に案内させよう」

「……ありがとうございます」


 呼びたかったのは庭師ではない。でも、せっかくの親切を断る言葉も出てこないうちに、家政を預かるエダが新しいパンを運んできた。夫は私に先に選ぶよう勧め、自分ではそのあとに一つ取った。優しくないわけでは、決してないのだ。


 朝食を終えると、私はエダと冬用の敷物を選び、実家への手紙を書いた。夫は書斎へ向かった。用事が済んだ私は、一人で中庭へ出る。今日は、気の向くまま立ち止まりたかった。


 そこで、日向の石のベンチに、竜がいた。


 猫ほどの大きさだった。青灰色の鱗に覆われた背に翼を畳み、尻尾を前脚に巻きつけて眠っている。丸い腹がゆっくり上下するたび、片方だけはみ出した翼の先が揺れた。怖い牙より、石へ押しつけられて少し潰れた頬の方が目につく。


「こんにちは。あなた、ここで飼われているの?」


 少し離れて尋ねても、返事はない。人に慣れているのか、私が隣に腰を下ろしても寝息を立てていた。夫に叱られるだろうかとも思ったけれど、この屋敷のどこを使ってもよいとは言われている。竜に触れてはいけないとは、聞いていない。


「あなたは、そんなに怖い顔をしないのね」


 小さな角の間を、指先でそっと撫でた。鱗は思っていたより滑らかで、日向の石より温かい。眠ったまま鼻先が私の手を追ってきたので、口元が緩んだ。もう一度撫でると、喉の奥で小さな音がした。


「うちの夫も、あなたくらい近くに来てくれたら」


 竜の目が開いた。私の手を見上げ、そのままぴたりと動かなくなる。次に一歩、後ずさったので、嫌がらせたかと慌てて指を引いた。


「ごめんなさい。起こしてしまって」


 竜は首を横に振った。私がその意味を考えるより早く、ベンチから降り、少し離れた敷石の上に立つ。畳まれていた翼が一度開き、その輪郭が淡い光の中で大きくなった。


 私は顔を上げた。上げて、さらに上げた。


 朝と同じ濃紺の上着を着た夫が、そこに立っていた。


「リゼット」


 聞き慣れた声で呼ばれ、私は撫でていた手を背中に隠した。隠したところで何も戻らないことは分かっている。けれど、今朝まで指一本まともに触れられなかった相手の頭を、私はたった今、かなり気軽に撫でてしまったのだ。


「いまの、あなたなのですか」

「ああ」

「さっきの、小さな」

「私だ」

「……丸くなって、眠っていた」

「それも、私だ」


 肯定が増えるたび、私の逃げ道は減っていった。たしかに、琥珀色の目は同じだ。あの小さな前脚が、この大きな手になる仕組みは、いま考えても分かりそうにない。


「私の家には竜の血が流れている。自分の意思で、あの姿になることができるんだ。家にいるときは、時々そうして休んでいる」

「そ、それは存じませんで。勝手に触ってしまって、申し訳」

「君が謝ることではない。先に、私が話しておくべきだった」


 夫はすぐに言い、ベンチの端へ目を落とした。朝食のときと同じ、固い顔だった。ただ、近くで見ると耳の上が赤い。叱られるのを待っているのは、もしかして私一人ではないのだろうか。


 私は膝の上で両手を握り直した。指に残った温かさまで意識すると、おかしな声が出そうだった。


「どこから、聞いていらしたのですか」

「撫でられて目が覚めた。夫もこのくらい近くに、と言ったところは聞こえた」

「そこは聞こえなくてもよかったのですけれど」


 言ってから口を閉じた。夫に向かって夫の愚痴を言ったうえ、その返答まで責めてどうするのだろう。幸い、彼は笑わなかった。こちらが続けるのを、真面目な顔で待っていた。


「私が竜の姿で君に会ったのは、今日が初めてだ。隠れて話を聞こうとしていたわけではない」

「はい。それは、今の慌てようで分かりました」


 夫の眉が少し下がった。その顔を見ると、こちらも幾分落ち着いてくる。私はベンチを見て、庭へ続く廊下を見た。誰でも通れる場所で、夫はあんなに安心して眠っていたのだ。


「エダは、ご存じなのですね」

「ああ。ノエルも、昔からいる家の者は知っている」


 なるほど、と頷こうとして、うまくいかなかった。この屋敷のことは、尋ねれば誰かが親切に教えてくれる。けれど夫のことを、どこまで尋ねてよいのかは、分からないままだった。


「私も、この家の者になったつもりでした」


 夫がこちらを見る。口にしたら思ったより寂しい言葉になってしまい、私は慌てて首を振った。竜が嫌なのだと誤解されたくはなかった。


「怖かったのではありません。驚いたのと……私だけ知らなかったのが、少し寂しかったんです」

「君に怖がられるのが嫌で、話すのを延ばしていた。きっかけを待っているつもりで、何もしなかった」


 言い終えると、彼は今度こそ私の顔を見た。視線を外したいのをこらえるように、口を引き結んでいる。


「すまない。君がどう思うかを、聞くべきだった」


 夫の顔をこんなに長く見たのは、婚礼以来かもしれない。今まで、困らせるようなことは言わずにきた。今日は困った顔をさせている。でも、話が終わってしまう気はしなかった。


「少しだけ、考える時間をいただけますか」

「もちろんだ」

「竜と夫を、頭の中で同じ場所へ置かないと。まだ、うまく重ならなくて」


 彼は真剣に頷いた。そんなふうに聞かれると、私もこれ以上、言葉を選びすぎなくてよい気がした。膝に置いた指を開き、立ち上がる。


「夕方、もう一度ここでお話ししませんか。四時でしたら、お時間はありますか」

「ある。四時に、ここへ」

「次は、人間の姿でいらしてください。お話がしたいので」

「ああ。人間の姿で、四時に」


 念を押すように復唱されたので、私はようやく小さく笑った。彼がほっと息をついたのを聞きながら、廊下へ向かう。背中に隠していた手は、もう普通にスカートの横へ下ろしていた。



 四時の鐘が鳴る少し前に中庭へ出ると、夫はもうベンチの脇に立っていた。書類も本も持っていない。腕に掛けているのは、私が普段、散歩に使う薄い肩掛けだった。


「風が出てきたので、エダに出してもらった」

「ありがとうございます」


 受け取りながら、私はつい、彼の肩越しにベンチを見た。彼がそれに気づき、わずかに眉を上げる。


「今日は、ちゃんと立っている」

「ええ。遠くからでも分かりました」


 目が合うと、二人とも少し笑った。私が先に腰を下ろし、肩掛けを広げる。夫は隣に座りかけて、一度位置を確かめたあと、人一人分ほど離れたところへ落ち着いた。それでも、朝食の卓を挟むよりずっと近い。


 午後の間、私は刺繍の同じ葉を二度ほど縫い直した。針を持つたび、頭を撫でた感触を思い出してしまったのだ。今も黒髪に目が行きそうで、肩掛けの房を整えた。


「一つ、伺ってもよろしいですか。竜のときも、考えていることは同じなのですか」

「ああ。言葉にはできないが、聞いたことも覚えている。同じ私だ」

「そうですか。では、もう、知らない竜に会ったつもりではいられませんね」


 どうしても声が小さくなった。向こうも「そうだな」と低く答え、片手で額を押さえたので、私は笑いそうになるのをこらえた。


「これから、あの姿で私のところへいらっしゃるなら、あなたと分かるようにしていただけますか」

「先にこの姿で声をかける。それから変わるようにしよう」

「はい。それなら私も、落ち着いてご挨拶できます」


 夫が頷いたので、その話は終わった。私はこっそり横顔を見る。竜を見つける前にも、この人と二人で庭を歩いてみたかったことを思い出した。


「君は、ここが好きなのか」


 夫がベンチの端を指で示した。私が見ていたことには気づかなかったらしい。私は慌てずに答えられる問いが嬉しくて、少しだけ身体を彼へ向けた。


「ええ。背中に日が当たりますし、ここからだと、あの赤い葉がよく見えます。部屋からは、枝の裏側しか見えないんです」

「なるほど。それで、いつもこの辺りに」

「お気づきでしたか」

「書斎の窓から、ときどき見かけていた」


 二階の書斎を見上げた。窓からこちらが見えることは知っていたが、中にいる人が、私を見ているとは考えていなかった。


「お邪魔ではありませんでした?」

「まさか。……君が座っていると、今日は暖かいのだと分かる」

「それで、今朝はご自分も?」

「ああ。午前の仕事が一段落して、少し休むつもりだった」

「とても気持ちよさそうでしたもの」


 そこで私は口をつぐんだ。また撫でた話へ戻りそうだったからだ。何か、ほかの話をと思って、朝食の色鮮やかな瓶を思い出した。


「あの、今朝のジャムなのですけれど。私が好きだと、どなたからお聞きになったのですか」

「君からだ。婚約中、ここで茶を飲んだときに」

「私、申し上げました?」

「甘すぎなくて好きだと。そのあと、もう一度パンにつけていた」


 たしかに、そんなことがあった。慣れない公爵邸で緊張していたのに、おいしさについ二切れ目へ手を伸ばした。帰りの馬車で食べすぎたかと気にしたくらいだ。


「よく覚えていらっしゃいますね」

「君が嬉しそうだったから」


 思いがけず近い声だった。彼は言ってから私を見て、一度口を開き、結局そのまま閉じた。私は返事を忘れて彼の目を見ていた。柑橘の香りや銀の匙より先に、あの日の私の顔を覚えていたのだ。


「……それで、毎朝」

「ああ。飽きたら言ってくれ」

「まだ、飽きそうにありません」


 私が答えると、彼の口元が緩んだ。夫はこんなふうに笑うのかと思った。婚礼の日の整った微笑みより、少し不器用で、ずっと見ていたくなる笑い方だった。


 風に押されて、肩掛けの片側がベンチへ落ちた。夫が端を拾って差し出し、私は受け取って肩へ戻す。このままお礼を言って部屋へ帰るのは、何かがもったいない気がした。


「小竜のあなたが好きな場所は分かりました。あなたの好きなお茶も、聞いていいですか」

「茶?」

「少し風が冷たくなったので。中で続きを伺えたら、嬉しいです」


 彼はすぐに立ち、私が立つのを待った。廊下へ先に行ってしまうかと思ったけれど、歩き始めると自然に隣へ来た。二人の靴音が重なる。朝は一人で通った敷石が、すぐに終わってしまった。


 談話室には、小卓を挟んで二脚の肘掛け椅子が置かれていた。いつもは広々として居心地のよい部屋なのに、今日は椅子と卓の隙間が妙に気になる。エダが茶器を運んできて、壁際の小さな灯りをつけてくれた。


 夫が席へ落ち着くのを待ち、私は自分の椅子を少し斜めにした。さらに卓へ寄せようとすると、脚が絨毯に引っかかる。すぐに夫が立って背もたれを持ってくれたので、「この辺りへ」と、彼の隣に近い場所を示した。


「ここでは、狭くないだろうか」

「今朝より、お声が聞きやすいです」


 夫は食堂の方を見て、それから椅子をもう少し寄せた。私が腰を下ろすと、彼も隣へ戻る。エダは二人の前に茶を用意し、静かに部屋を出ていった。


 夫が私のカップと受け皿を取ってくれる。受け取ろうとして、私は彼の指に触れそうになった。向こうも同時に手を引きかけ、カップが小さく鳴った。


「失礼」

「いえ、私が」


 二人して皿を支えたまま、次にどちらが手を離すか迷う。お茶が揺れたのを見て、夫が先に卓へ置いた。慎重な人で助かった。私は笑いをこらえながら、改めて自分のカップを持ち上げた。


「あの姿なら、すぐ隣でしたのに」

「君が、そこへ来てくれたから」


 私が近寄り、隣へ座って、自分から手を伸ばしたのだ。目の前にいる人には、なぜ同じことがこんなに難しいのだろう。


「では、今も、来てよかったのですね」

「もちろん。嬉しい」


 彼は私の方へ身体を向け、砂糖壺を寄せた。私はいったんカップを下ろす。嬉しいと言われただけで、持ち上げ方まで忘れてしまいそうだった。


「アルヴィン様は、お砂糖をお入れにならないのですか」

「ああ。何も入れない方が好きだ。君は?」

「一つだけ。甘い方が好きです。でも、ジャムをたくさん食べた日は半分にします」

「では、今日は半分だろうか」

「朝の分は、もう数えないことにしています」


 夫が喉の奥で笑った。思ったより低い音で、私は砂糖を落とす手を止めかけた。彼の笑うところを見たいと思って言ったのに、実際に聞くと少し困る。しかもこの距離では、笑ったあとに喉が動くところまで見えてしまう。


 夫は上着の襟をわずかに緩め、カップを持った。長い指が薄い取っ手を支える。その指が私の皿にも触れていたのだと考えて、胸が妙に落ち着かなくなった。竜の小さな前脚を思い出しても、今度は気を逸らせなかった。


「熱すぎたか」

「え?」

「顔が赤い」

「……お茶を、少し急いで飲みました」


 まだほとんど飲んでいないカップへ目を落とす。夫は自分の分を卓へ戻し、「ゆっくりでいい」と言った。その声まで優しいのは困ると思いながら、私はようやく一口飲んだ。


 好きな茶の香りや、雨の日に飲むならもう少し濃いものがよいという話をしていると、壁の時計が鳴った。夫は時刻を確かめ、名残惜しそうにカップを見た。


「そろそろ、仕事へ戻らなければ」

「はい。お時間をいただいて、ありがとうございました」


 いつもの挨拶が口から出て、私はすぐに唇を噛んだ。これでは来客だ。もう一度話したいなら、ここで言わなければ、今夜も別々に食事を取って終わってしまう。


「あの。今夜の夕食も、ご一緒できませんか。二人で」


 夫がこちらを見る。私は膝の上で指を握ったけれど、目は逸らさなかった。


「明日でも、いつかでもなくて……今夜、もう少しお話ししたいんです」


 彼の顔に、すぐ笑みが浮かんだ。返事を待つ間の息苦しさが、それだけで軽くなる。夫は壁の時計と扉を順に見て、頭の中で何かを確かめるように少し考えた。


「七時なら、大丈夫だ。一緒に食べよう」

「はい。七時に」


 さっきの夫のように、今度は私が復唱した。彼を送り出してから、廊下にいたエダを呼び止める。胸の辺りに手を当てたくなったが、そこまでしてしまうと、何があったか聞かれそうだった。


「今夜は二人で食事を取ります。席を、話しやすい場所にしてもらえるかしら。あの長い卓の、両端ではなくて」

「かしこまりました。窓寄りの一角はいかがでしょう」

「ええ。そこへお願いします」


 エダを見送って、私は動かした椅子を振り返った。明日もこのままでよいかと尋ねかけて、やめる。また、自分で寄せればよいのだ。



 六時半に食堂を覗くと、窓寄りの角を挟むように皿が置かれていた。顔を上げれば、花瓶にも遮られずに相手が見える。席に座ってみて、つい向かいの空間へ挨拶をしそうになった。


 そこへノエルがやって来た。夫の秘書は、薄い書き付けを一枚手にしている。


「奥様。旦那様から、夕食のお時間についてご相談です」


 一瞬、胸が沈んだ。忙しい方だと知りながら、今夜くらいはと考えてしまう。私は紙を受け取り、折り目を開いた。


 待っていた文書が遅れて届き、七時までの仕事に加え、明朝の使者へ渡す返書の確認に三十分必要になった、と最初に書いてあった。続く二行を読んで、私は紙を持つ指の力を緩めた。


『七時半に一緒に食べたい。先に食べる方がよければ、食後に時間をもらえるだろうか』


 七時半に、一緒に。私はその二行をもう一度読んだ。食後に会う方を選んでもよいけれど、さっき座ってみた席で、夫を迎えたかった。


「七時半に、ご一緒しますとお伝えください。こちらは大丈夫です」

「承知しました」

「それから……今日のパンは、ジャムをつけなくてもおいしそうです、と」


 ノエルは目を瞬かせたが、聞き返さずに頷いた。続きを楽しみにしていると、それで夫に伝わればよかった。


 エダに頼むと、食事は新しい時間に合わせて出せるという。気が抜けて小さくお腹が鳴り、私は周りを確かめた。待つと決めた途端にこれでは、格好がつかない。


 部屋へ戻り、鏡の前で髪を直した。ドレスは午後と同じ淡い緑のものにする。あのお茶の席から、遠くへ行きたくなかった。すまし顔を作ってみると、いつもの食卓へ戻ってしまいそうで、すぐにやめた。


 七時半の鐘とほとんど同時に、夫が食堂へ入ってきた。手には何も持っていなかった。扉のところで私を見つけると、足を止めずにこちらへ来る。


「待たせてすまなかった。仕事は片づいた」

「お待ちしていました。こちらへ」


 私が隣に近い椅子を示すと、彼は皿の位置を見てから、私を見た。朝の席には何も用意されていない。少しの間のあと、「ここで?」と確かめるので、私は頷いた。


「この方が、パンを直接お渡しできます」

「それはありがたい。書き付けの返事を聞いてから、楽しみにしていた」


 隣へ腰を下ろした夫に籠を差し出す。彼が一つ選び、今度は私へ向けてくれた。給仕を呼ばなくても、それだけで済んだことが嬉しかった。


 温かいスープが運ばれ、二人で匙を取った。夫は一口飲んだあと、私の方へ顔を向ける。続きを聞こうとしているその目を見たら、つい本音がこぼれた。


「今日、楽しみにしていたのは、お料理だけではありませんから」


 言いながら、ついパンに目を落としてしまった。夫は少し黙り、それから「私もだ」と答えた。その一言で、熱いスープが喉を通るより先に身体が温まった。


「朝、庭の話をしましたでしょう。あなたは、どの季節がお好きなのですか」

「今くらいがいい。暑すぎず、虫も減る」

「花より、寝心地ですか」

「……その見方は否定できない」


 あまりに真面目な返事に、私は笑った。夫も口元を緩め、今度は私の好きな季節を尋ねてきた。春の花も好きだが、秋の落ち葉を踏んだときの音を聞くと、つい道を外れたくなると答える。行儀が悪いかと思って彼を見ると、「乾いているところを選ぶといい」と、役に立つ返事が返ってきた。


「お詳しいですね」

「自分でもやるから」

「人間の姿で?」

「主には」


 笑いながらパンをちぎると、彼も笑った。眉間から力が抜け、思っていたよりずっと若い顔になる。その顔を見ているうちに、すっかり肩の力が抜けていた。


 雨の日は本を読むことが多いと聞いて、最近読んだ旅行記の話をした。食事の場面ばかり長くて、出発した町から一向に先へ進まないと話すと、夫も知っていた。


「三章まで、まだ同じ宿にいたな」

「そうなんです。私、地図を何度も見直してしまって」

「食事の記録として読む方が楽しめる」

「では次から、そうします。お腹が空いていないときに」


 彼は声を出して笑った。私はその顔を見ていたくて、次の一口をしばらく待った。


 皿が下げられたあと、私はふと気になっていたことを口にした。


「竜の姿でも、お茶は飲めるのですか」


 夫は今夜いちばん難しい質問をされた顔で、手元の杯を見つめた。私は慌てて「試してほしいという意味ではありません」と付け加えた。


「飲めるが、カップを持つのが難しい」

「たしかに。あの前脚ですものね」

「皿から飲むと、冷めるのが早い」

「お試しになったのですね」


 夫は視線を逸らしかけ、途中で私へ戻した。隠しても仕方がないというように頷く。その顔が可笑しくて、私は口元を指で押さえた。


「今朝、名前をつけてしまうところでした」

「名前?」

「小竜に。日だまり、と」


 立派な公爵へ、随分のんきな名前を考えてしまった。私が弁解しかけたとき、夫が少し首を傾げた。


「それで呼ばれたら、たぶん私は行く」


 私は返事をし損ねた。あの小さな竜が来るところを想像するはずだったのに、廊下で名を呼んだら、目の前の男性が足を止め、私のところへ戻ってくる光景が浮かんだ。冗談を言ったのはこちらなのに、耳が熱くなる。


「……公の席では、呼びません」

「二人きりなら?」

「そのときは、アルヴィン様とお呼びします」

「それでいい」


 彼は楽しそうに私の名前を一度呼んだ。私はもう、空になったパンの籠を見るしかなくなった。


 食事が終わっても、まだ聞いてみたいことがいくつもあった。夫がナプキンを置くのに合わせ、私は窓の方を向いた。


「少しだけ、庭を歩きませんか。あのベンチまで」

「ああ。今度は、私が一緒に」


 夫は椅子を引き、私が肩掛けを取ると、庭へ出る扉を開けてくれた。今度こそ私は、連れていってほしかった人と同じ扉をくぐった。


 中庭の道には、廊下の窓から灯りが届いていた。敷石の上に落ちた葉が、足元で乾いた音を立てる。夫は私の歩幅に合わせ、隣を歩いた。


「この辺りなら、よく音がする」


 彼が示した道の端を踏むと、軽い音がした。もう一歩踏んだら、彼も隣で同じことをする。私たちは顔を見合わせて笑った。


 ベンチまではすぐだった。昼の温かさはもう残っていないので、座らずに、その前で立ち止まった。


「あのときは、こんな夜になるとは思いませんでした」

「私もだ。もっと早く話していれば、君を驚かせずに済んだのだが」

「今、聞きたいことがあります」


 彼が頷いて先を促す。私は肩掛けの端を掴み直した。今夜いくつも話をしたのに、これだけは、まだ聞けていなかった。


「私が近くにいると、お困りになりますか」

「ならない」


 私は目を上げた。はっきり首を振る彼を見ながら、残っていた不安も、思い切って口にした。


「この一か月、いつも丁寧にしていただきました。でも、二人でいるとお静かで。あまりお話ししない方がお好きなのかと思っていました」

「君には、近くにいてほしかった」

「それでしたら、そう仰ってくだされば」

「そうだな。どう頼めばいいかを、考えすぎていた。君が退屈しているように見えると、早く一人にしてやるべきだと思って」


 退屈などしていなかった。何を言えば目を上げてくれるか考え、失礼ではないか考えて、何も言えなくなっていただけだ。それを説明すると、彼は眉間を指で押さえ、短く息を吐いた。


「二人とも、余計なことを考えていたんだな」

「では、今朝もご自分で案内を申し出てくだされば」

「それは、返す言葉もない」


 素直に認められたので、笑ってしまった。笑うと、指先に入っていた力が抜けた。肩掛けが滑り、私は片手で押さえる。夫がもう片側の端を支えてくれたとき、彼の指に私の手が触れた。


「冷えている」

「少しだけです。そろそろ、戻りましょうか」

「ああ」


 返事をしながら、夫は私の手を見た。何かを思いついたように身体を引き、ベンチの方へ向きかける。けれどすぐに動きを止め、自分の手を握った。


「こういうとき、あの姿なら、ただそばにいられたのに」


 彼は人間の姿のまま、困った顔で立っていた。私はその手に目を落とし、自分から指を伸ばした。今度はカップを受け取るときのように引っ込めなかった。


「今は、この手を貸していただきたいです」


 夫の指が開き、私の手を受け止めた。大きな掌に包まれると、自分が思っていた以上に冷えていたのが分かる。小竜へ触れたときと同じ、確かな温かさだった。けれど、今は胸の音まで違う。


 彼はつないだ手を自分の胸元へ持ち上げた。顔を上げると、まっすぐこちらを見ていた。


「リゼット。抱きしめてもいいだろうか」


 頷いて、自分から半歩進んだ。夫の腕が背中へ回り、肩掛けごと私を包んだ。


 目の前に濃紺の襟がある。布越しの胸は思っていたより厚く、背に置かれた手は、支えられているとはっきり分かる大きさだった。私の髪が顎に触れたのか、彼の呼吸が一度止まる。


「……こんなに、近くに」


 夫の声が耳のそばでして、私は上着を小さく掴んだ。腕の力が深まると、私も身体を寄せた。もう少し近くてもよいと、身体の方が先に思っていた。


「好きだ、リゼット」


 今度は、聞き違えようのない声だった。


 私は彼の胸から顔を上げた。夫は私を見下ろし、言い直さずに、続きを話した。


「婚約中に来てくれた日、庭で、ずいぶん堅苦しい挨拶をしただろう。私が」

「はい。お茶が冷めてしまうかと思いました」

「君も、そう言って笑った」


 私は唇を結んだ。あの日は黙って聞くつもりだったのに、つい言ってしまったのだ。そのあと彼が何を読むのか尋ね、庭の話からずいぶん脱線した。


「あのとき、君は私の話に問いを返してくれた。早く挨拶を終わらせるためではなく、本当に知りたいという顔で。次に来るときも、そうして話せたらと思っていた」

「私も、またお話ししたいと思っていました」

「それなのに、一緒に暮らし始めたら、もっとよく思われたくなった。つまらないことを言って、あの笑い方をしなくなったらと考えていた」


 私は彼の上着へそっと掌を置いた。顔ばかり立派に落ち着いていた夫の胸が、思いのほか速く動いていた。


「私、この家に来てから、公爵夫人らしくしなければとばかり思っていました。二十三歳にもなって、落ち葉を踏んで歩きたいなんて、おかしいかしら、とか」

「私は二十八だが、さっき一緒にやった」


 声を立てて笑ってしまうと、彼も笑った。腕の中では、その響きまで伝わってきた。


「あなたと話したくて、今朝も庭のお話をしたんです。今日、お茶をご一緒して、もっと聞きたいと思いました。お名前を呼んだら来てくださると聞いて……とても、嬉しかった」


 最後だけ声が小さくなった。彼は続きを急かさず、顔を近づけて待ってくれた。


「あなたの隣にいたかったんです。小さな竜のそばだけではなくて」

「この姿でも?」

「小竜だけが好きだったら、夕食にはお誘いしません」


 彼の目が細くなった。そんな優しい顔で見られると、目を逸らしたくなる。でも、その前に、肝心なことを伝えたかった。


「好きです、アルヴィン様。私、あなたと、この家で暮らしていきたいです」


 何か言おうとした夫の唇が、笑みの形になる。見ていると胸がいっぱいになり、同時に、触れてみたいと思った。


 私は彼の襟へ指を置いた。あと少しだけ、近づきたかった。


「少し、屈んでいただけますか」


 夫はすぐに応じた。近づく途中で動きがゆっくりになり、私の目を見た。私は自分から背伸びをした。


 唇を重ねた。触れたのは短い間で、離れるとすぐ夜の冷たさが戻ってきた。けれど口元だけが熱く、どんな顔で夫を見ればよいか分からない。私は勢いで上着へ額を寄せ、それから慌てて少し身体を引いた。


「リゼット」


 彼の腕が緩んだ。顔を上げられるだけの距離が空き、私はそろそろと夫を見る。あんなに整っていると思っていた顔が、今は隠しようもなく嬉しそうだった。


「もう一度、いいだろうか」

「……今度は、あなたから」


 答えた声が笑ってしまった。夫も笑って、それから私の頬に手を添える。先ほどよりゆっくりと唇が近づき、私は今度は、上着を握らずに目を閉じた。


 離れたあとも、しばらく彼の手が頬にあった。親指が触れたところから熱くなる。風が葉を揺らす音でようやく庭にいることを思い出し、私は思わず彼と顔を見合わせた。


「部屋へ戻ろう。君を冷やしてしまう」

「もう、あまり寒くありませんけれど」


 それでも夫は上着を脱いで、肩掛けの上へ重ねてくれた。大きな上着にくるまると、襟元から彼の匂いがした。彼がまた手を差し出したので、迷わずそこへ自分の手を置いた。


 帰り道は、落ち葉を選んで踏まなかった。すぐ隣にある腕へ、ときどき自分の腕が触れる。そのたびに夫がこちらを見るので、私は笑って握った指に力を込めた。屋敷の扉に着いても、その手は離れなかった。



 翌朝、食堂の前で足を止めた。自分から口づけまでしたのだ。夫がいつもの遠い席に戻っていたら、どんな顔でジャムを取ればよいのだろう。


「リゼット」


 扉の中から呼ばれた。夫は昨夜と同じ、窓寄りの席にいた。隣の椅子を引き、私を待っている。朝の光の中でも、目が合うとすぐに笑った。


「おはよう。ここへ」

「おはようございます、アルヴィン様」


 席に着くと、彼は私が座りやすいように椅子を戻した。その手が背もたれから離れる間、私は昨夜、背に触れていた大きさを思い出してしまった。彼が隣に座るころには、私の耳まで熱くなっていた。


 柑橘のジャムが運ばれてきた。昨日まで瓶は私のすぐ前に置かれていたが、今日は二人の皿の間にある。エダが茶を注いでくれる間に、私はパンの籠を夫へ差し出した。


「お一つ、いかがですか」

「ああ。君の好きなジャムも、少しもらおう」


 夫が一口食べるところまで、つい見てしまった。お茶は甘くしないと聞いたばかりなので、感想が気になる。


「いかがです?」

「おいしい。君が二切れ目を取った理由が分かる」

「今日は、何切れ食べたか数えないでくださいね」

「覚えてしまうかもしれない」


 真面目な顔で言うので、私は笑った。彼も笑い、パンをもう一口食べる。エダが空いた皿を下げ、私たちはそのあともしばらく、湯気の立つ茶を飲んでいた。


「今朝は、書斎に入る前に少し時間がある。一緒に庭へ出ないか」


 夫の方から誘われて、私はカップを置いた。何か返事をしなければと思う前に頷いてしまい、彼の笑みが深くなる。昨日は考えに考えた散歩の誘いが、今日はこんなに簡単に決まった。


 中庭には、昨夜踏んだ落ち葉がまだ残っていた。ベンチの日向へ行くと、夫は石の上に手を置き、温かさを確かめる。それから私へ向き直った。


「少し、あの姿になってもいいだろうか。ここで休んでいきたい」

「はい。私も、ご一緒します」


 夫は頷き、昨日と同じ場所で小竜になった。ついさっきまで私より高いところにあった目が、足元から見上げてくる。私がベンチへ座ると、彼は翼を少し広げて隣へ上がった。


「アルヴィン様」


 小竜の顔が上を向いた。立派な名前を呼ばれたのに、返事の代わりに揺れたのは、尻尾の先だった。私はとうとう笑ってしまい、手を差し出した。


「ええ。ちゃんと、分かっています」


 彼は開いた掌へ鼻先を寄せた。私は角の間を撫で、温かい鱗を指でなぞる。昨日と同じ小さな音が、喉の奥から聞こえた。その音をもう一度聞きたくて、ゆっくり撫でると、彼は目を細めた。


 とても可愛い。首を傾げて見上げられると、昨夜と同じ目だと分かる。私は少し照れながら、もう一度その頭に触れた。


 やがて夫はベンチを降り、人間の姿へ戻った。私は顔を上げる。朝食ではきちんと整っていた黒髪が、少しだけ乱れて見える。指を伸ばしかけてためらうと、彼が自分から頭を低くしたので、私は笑いながらその一房を直した。


「明日も、一緒に歩きたい。今度は、奥の庭まで行こう」

「では、今度は庭師に案内を頼まないでくださいね」

「私が案内する。君の手も、私が取る」


 朝からそんなことを言うようになった夫に、私は返事を一拍遅らせた。その分を取り戻すように、差し出された手へ自分の手を重ねる。彼がそっと握り、私が立つのを支えてくれた。


「アルヴィン様」

「何だろう」

「もう少しだけ、ゆっくり歩きませんか」


 夫は頷いた。つないだ手を離さないまま、私の歩幅に合わせ、ほんの少しゆっくり歩き始めた。


面白かったら評価、ブックマークいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。