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黒仮面は名も告げず、少女を救った/俺だけ【リミットブレイク】外伝

作者: スドタケ
掲載日:2026/05/31

鐘が五回鳴った。


一回目で、市場の声が止まった。


二回目で、母は売り台の下から娘の手を引いた。


三回目で、誰かが走り出した。


四回目で、南西の空が赤く光った。


五回目で、王都は叫び声に変わった。


「ミナ、走るよ」


母は娘の手を握った。


握ったはずだった。


けれど、人の流れは横から来た。


袋を抱えた商人。


泣き出した子ども。


槍を持って走る兵士。


荷車を捨てた老人。


肩がぶつかり、籠が落ちた。


中の豆が石畳へ散る。


母は一瞬だけ、それを見てしまった。


たったそれだけだった。


「ミナ!」


手の中から、小さな温度が消えていた。


「ミナ!」


返事はなかった。


人の背中ばかりが見えた。


布の外套。


革鎧。


荷袋。


誰かの肘。


誰かの泣き顔。


娘の顔だけが、どこにもない。


「押すな! 東門へ回れ!」


「南西壁が崩れたぞ!」


「子どもを先に通せ!」


怒号が飛ぶ。


地面が揺れる。


屋台の布が風でめくれ、魚の入った桶が倒れた。


水と血の匂いが混ざる。


母は人波に逆らった。


腕を押しのけ、荷車を回り込み、落ちた木箱を踏み越える。


膝を石畳に打った。


痛い。


でも止まれない。


「ミナ!」


通りの端に、小さな背中が見えた。


柱の影。


薄い黄色の服。


朝、自分で結んだ髪紐。


いた。


母は走った。


「ミナ!」


娘が振り向く。


泣いていた。


でも声が出ていない。


そのすぐ横で、黒い狼型の機械兵が瓦礫を踏み越えてきた。


金属の脚。


単眼の赤い光。


口のように開いた装甲の奥で、刃がきしむ。


「逃げて!」


母は叫んだ。


けれどミナは動けなかった。


足が柱の下の割れ目に引っかかっている。


小さな手で抜こうとしている。


抜けない。


狼型が身を低くした。


跳ぶ。


母は手を伸ばした。


届かない。


ほんの少し。


本当に、ほんの少しだけ足りない。


その時、横から若い男が飛び込んだ。


回収係の上着を着ていた。


油で汚れた袖。


痩せた肩。


腰に工具。


兵士ではない。


英雄でもない。


ただ、誰より早く動いた。


男はミナの襟首を掴み、身体ごと引き倒した。


爪が空を裂く。


柱が砕ける。


石片が飛び、母の頬をかすめた。


「走れ!」


男が叫んだ。


ミナは転がったまま泣き出す。


母は這うように娘を抱え込んだ。


「ミナ、ミナ……!」


「おかあさん……」


抱きしめる。


生きている。


温かい。


それだけで手が震えた。


若い男は、拾った鉄棒を構えて狼型の前に立っていた。


勝てるはずがない。


相手は兵士でも手こずる機械兵だ。


回収係がどうにかできるものではない。


「あなたも逃げて!」


母は叫んだ。


男は振り返らなかった。


「行ってください」


「でも――」


「早く!」


狼型が再び跳ぶ。


男は横へ転がった。


鉄棒を首元へ叩き込む。


火花が散る。


でも浅い。


狼型の爪が男の肩を裂いた。


血が飛ぶ。


男は声を漏らしたが、倒れなかった。


ミナが母の腕の中で小さく言った。


「あのお兄ちゃん……」


男はまた前に出た。


怖いはずだ。


痛いはずだ。


勝てないことくらい、自分でも分かっているはずだ。


それでも下がらない。


狼型の単眼が赤く光る。


次で終わる。


母はミナの目を手で覆った。


見せたくなかった。


その時、南西の空で赤い炎が爆ぜた。


巨大な影が吠える。


遠くの城壁の上で、誰かが叫ぶ。


「レオナ様が押されてる!」


「迎撃機が邪魔だ!」


「防衛線を下げろ!」


意味は分からない。


ただ、王都の一番強い人でも届かない何かが、外にいるのだと分かった。


若い回収係は、その声を聞いた。


狼型の攻撃を避けながら、ちらりと南西を見る。


ほんの一拍。


その隙を、機械兵は逃さなかった。


爪が振り下ろされる。


母は叫んだ。


「危ない!」


男の身体が消えた。


いや、消えたのではない。


下に落ちた。


足元の石床が崩れ、男は瓦礫ごと廃棄路の下へ落ちていった。


「お兄ちゃん!」


ミナが叫んだ。


穴の底は暗い。


返事はない。


狼型は穴を覗き込んだが、すぐに母たちへ向き直った。


母は娘を抱き、後ずさる。


もう逃げ道はなかった。


通りの向こうでは人が倒れ、兵士が別の機械兵と斬り合っている。


誰もこちらへ来られない。


母はミナを背中に隠した。


できることは、それだけだった。


「お母さん」


「目、閉じてなさい」


「いや」


「閉じて」


「いや!」


ミナの小さな手が、母の服を握る。


狼型が跳んだ。


今度こそ、間に合わない。


黒い影が、穴の底から上がった。


速かった。


何が起きたのか、母には追えなかった。


ただ、狼型の首が横へ飛んだ。


金属の頭部が石畳を転がり、単眼の赤が消える。


胴体は二歩進んでから、倒れた。


重い音がした。


黒い仮面の男が、そこに立っていた。


さっきの回収係ではない。


汚れた上着は黒い膜に覆われ、顔には滑らかな仮面が貼りついている。


黒い仮面の奥で、青白い光が細く揺れた。


けれど、その身体を包んでいたのは、夜より濃い黒だった。


人の形をしている。


けれど、人ではないものに見えた。


周りの避難民も、兵士も、誰も動けなかった。


黒い男は、母たちを一度だけ見た。


声は出さない。


それから、倒れた狼型の横を通り過ぎた。


「待って!」


母は思わず声を出した。


言いたいことはあった。


助けてくれてありがとう。


あなたは誰ですか。


さっきの人は無事ですか。


どうしてそんな姿に。


どれも言葉にならない。


黒い男は足を止めた。


ミナが母の腕の中から顔を出す。


「あのお兄ちゃん?」


黒い仮面が、少しだけ下を向いた。


ミナは泣き腫らした目で、黒い男の手を見ていた。


「さっき、助けてくれたお兄ちゃんと、手が同じ」


母は息を忘れた。


黒い男は答えなかった。


仮面の奥の青い光が、少し揺れた気がした。


遠くでまた爆発が起きる。


赤い炎。


青い光。


巨大な黒い影。


王都全体が揺れている。


黒い男は南西を見る。


行こうとしている。


あの地獄みたいな場所へ。


「行くの?」


ミナが聞いた。


黒い男は少しだけ間を置いて、しゃがんだ。


目の高さがミナと同じになる。


「母さんの手を離すな」


低い声だった。


ミナはこくりとうなずいた。


「お兄ちゃんは?」


黒い男は答えない。


答えられなかったのかもしれない。


名乗る気がなかったのかもしれない。


ただ、ミナの頭に手を置いた。


ほんの少しだけ。


冷たい手だった。


でも、怖くはなかった。


次の瞬間、別の狼型が横の路地から飛び出した。


母は声も出せなかった。


黒い男は立ち上がりながら、そちらを見た。


短剣を抜く。


一歩。


二歩。


三歩目で、もう機械兵の懐にいた。


爪を避ける。


腕を斬る。


首下へ刃を入れる。


止まらない。


さらに後ろから二体。


黒い男は倒れた機械兵の脚を蹴り上げた。


鉄の脚が回転し、二体目の単眼を潰す。


三体目が跳ぶ前に、黒い男は壁を蹴った。


身体が宙を回る。


短剣が背中の接続部へ突き刺さる。


青い火花。


黒い油。


三体がほとんど同時に崩れた。


誰かが震えた声で言った。


「黒い騎士……」


別の誰かが、祈るように呟いた。


「黒仮面様……」


黒い男は振り返らない。


瓦礫の山へ駆け上がる。


赤い炎の方へ。


王都最強が戦う場所へ。


人が逃げてくる方へ。


普通なら、誰も向かわない方へ。


母は娘を抱いたまま、その背中を見ていた。


助けられた。


それなのに、胸の中が軽くならない。


あの人は、まだ戦いに行く。


たった今、娘を助けた手で。


さっき血を流していたはずの身体で。


名も告げずに。



◇ ◇ ◇



王都南区の市場では、今も昼になると鐘が鳴る。


警戒鐘ではない。


ただの時報だ。


それでも、母はたまに肩を揺らす。


ミナは、もう少し大きくなった。


屋台の紐も結べるようになった。


たまに失敗する。


そのたびに母が直す。


「強く結びすぎ」


「ほどけるよりいいでしょ」


「袋が破れる」


「じゃあ、お母さんやって」


「自分で覚えなさい」


そんな会話ができる日が戻ってきた。


王都の壁には新しい石が増えた。


焼けた通りには店が戻り、子どもたちはまた走る。


けれど、南西の空を見る人は今もいる。


黒い騎士の噂は、あちこちで聞くようになった。


灰冠迷宮に現れた。


レオナ様と並んで戦った。


王都決戦で空を裂いた。


アビスの奥へ消えた。


怪物だと言う人もいる。


英雄だと言う人もいる。


ミナには、どちらもよく分からない。


覚えているのは、黒い仮面。


青い光。


冷たい手。


そして、母の手を離すなと言った声。


その日の昼前、若い小隊長が市場を通った。


「レン兄ちゃん!」


ミナが声を上げると、小隊長は少し驚いた顔で振り向いた。


「ミナ。走るなよ」


「走ってない」


「今、走ろうとしてただろ」


「してない」


小隊長は困ったように笑い、荷車の車輪を押していた老婆の方へ戻った。


ミナはその背中を見ていた。


黒い仮面はない。


青白い光もない。


ただの若い兵士に見える。


けれど、しゃがむ時の感じと、手の置き方だけが、あの夜の黒仮面様と少し似ていた。


「お母さん」


「何」


「レン兄ちゃんって、黒仮面様に似てるね」


母は袋の口を結びかけたまま、手を止めた。


「……どうして?」


「しゃがむところ」


「そこ?」


「あと、手」


ミナは市場の向こうを歩いていく若い小隊長を見ていた。


「あの夜、頭をぽんってしてくれた手も、ちょっと冷たかった」


母は何も言えなかった。


小隊長は荷車を押し終えると、老婆に頭を下げて歩いていく。


その背中は、どこにでもいる若い兵士に見えた。


母はミナの手を握った。


今度は、娘の方から握り返してきた。


黒い騎士は、今もどこかで戦っているのかもしれない。


その正体も、何を失いながら戦っているのかも、ミナは知らない。


ただ、ひとつだけ覚えている。


あの夜、名も告げずに自分を救った誰かがいた。


そしてその人は、誰にも見送られないまま、もっと暗い戦場へ走っていった。

※本作は『俺だけ【リミットブレイク】』の外伝短編です。

黒仮面の正体と、その力に伴う代償は本編で描いています。

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