黒仮面は名も告げず、少女を救った/俺だけ【リミットブレイク】外伝
鐘が五回鳴った。
一回目で、市場の声が止まった。
二回目で、母は売り台の下から娘の手を引いた。
三回目で、誰かが走り出した。
四回目で、南西の空が赤く光った。
五回目で、王都は叫び声に変わった。
「ミナ、走るよ」
母は娘の手を握った。
握ったはずだった。
けれど、人の流れは横から来た。
袋を抱えた商人。
泣き出した子ども。
槍を持って走る兵士。
荷車を捨てた老人。
肩がぶつかり、籠が落ちた。
中の豆が石畳へ散る。
母は一瞬だけ、それを見てしまった。
たったそれだけだった。
「ミナ!」
手の中から、小さな温度が消えていた。
「ミナ!」
返事はなかった。
人の背中ばかりが見えた。
布の外套。
革鎧。
荷袋。
誰かの肘。
誰かの泣き顔。
娘の顔だけが、どこにもない。
「押すな! 東門へ回れ!」
「南西壁が崩れたぞ!」
「子どもを先に通せ!」
怒号が飛ぶ。
地面が揺れる。
屋台の布が風でめくれ、魚の入った桶が倒れた。
水と血の匂いが混ざる。
母は人波に逆らった。
腕を押しのけ、荷車を回り込み、落ちた木箱を踏み越える。
膝を石畳に打った。
痛い。
でも止まれない。
「ミナ!」
通りの端に、小さな背中が見えた。
柱の影。
薄い黄色の服。
朝、自分で結んだ髪紐。
いた。
母は走った。
「ミナ!」
娘が振り向く。
泣いていた。
でも声が出ていない。
そのすぐ横で、黒い狼型の機械兵が瓦礫を踏み越えてきた。
金属の脚。
単眼の赤い光。
口のように開いた装甲の奥で、刃がきしむ。
「逃げて!」
母は叫んだ。
けれどミナは動けなかった。
足が柱の下の割れ目に引っかかっている。
小さな手で抜こうとしている。
抜けない。
狼型が身を低くした。
跳ぶ。
母は手を伸ばした。
届かない。
ほんの少し。
本当に、ほんの少しだけ足りない。
その時、横から若い男が飛び込んだ。
回収係の上着を着ていた。
油で汚れた袖。
痩せた肩。
腰に工具。
兵士ではない。
英雄でもない。
ただ、誰より早く動いた。
男はミナの襟首を掴み、身体ごと引き倒した。
爪が空を裂く。
柱が砕ける。
石片が飛び、母の頬をかすめた。
「走れ!」
男が叫んだ。
ミナは転がったまま泣き出す。
母は這うように娘を抱え込んだ。
「ミナ、ミナ……!」
「おかあさん……」
抱きしめる。
生きている。
温かい。
それだけで手が震えた。
若い男は、拾った鉄棒を構えて狼型の前に立っていた。
勝てるはずがない。
相手は兵士でも手こずる機械兵だ。
回収係がどうにかできるものではない。
「あなたも逃げて!」
母は叫んだ。
男は振り返らなかった。
「行ってください」
「でも――」
「早く!」
狼型が再び跳ぶ。
男は横へ転がった。
鉄棒を首元へ叩き込む。
火花が散る。
でも浅い。
狼型の爪が男の肩を裂いた。
血が飛ぶ。
男は声を漏らしたが、倒れなかった。
ミナが母の腕の中で小さく言った。
「あのお兄ちゃん……」
男はまた前に出た。
怖いはずだ。
痛いはずだ。
勝てないことくらい、自分でも分かっているはずだ。
それでも下がらない。
狼型の単眼が赤く光る。
次で終わる。
母はミナの目を手で覆った。
見せたくなかった。
その時、南西の空で赤い炎が爆ぜた。
巨大な影が吠える。
遠くの城壁の上で、誰かが叫ぶ。
「レオナ様が押されてる!」
「迎撃機が邪魔だ!」
「防衛線を下げろ!」
意味は分からない。
ただ、王都の一番強い人でも届かない何かが、外にいるのだと分かった。
若い回収係は、その声を聞いた。
狼型の攻撃を避けながら、ちらりと南西を見る。
ほんの一拍。
その隙を、機械兵は逃さなかった。
爪が振り下ろされる。
母は叫んだ。
「危ない!」
男の身体が消えた。
いや、消えたのではない。
下に落ちた。
足元の石床が崩れ、男は瓦礫ごと廃棄路の下へ落ちていった。
「お兄ちゃん!」
ミナが叫んだ。
穴の底は暗い。
返事はない。
狼型は穴を覗き込んだが、すぐに母たちへ向き直った。
母は娘を抱き、後ずさる。
もう逃げ道はなかった。
通りの向こうでは人が倒れ、兵士が別の機械兵と斬り合っている。
誰もこちらへ来られない。
母はミナを背中に隠した。
できることは、それだけだった。
「お母さん」
「目、閉じてなさい」
「いや」
「閉じて」
「いや!」
ミナの小さな手が、母の服を握る。
狼型が跳んだ。
今度こそ、間に合わない。
黒い影が、穴の底から上がった。
速かった。
何が起きたのか、母には追えなかった。
ただ、狼型の首が横へ飛んだ。
金属の頭部が石畳を転がり、単眼の赤が消える。
胴体は二歩進んでから、倒れた。
重い音がした。
黒い仮面の男が、そこに立っていた。
さっきの回収係ではない。
汚れた上着は黒い膜に覆われ、顔には滑らかな仮面が貼りついている。
黒い仮面の奥で、青白い光が細く揺れた。
けれど、その身体を包んでいたのは、夜より濃い黒だった。
人の形をしている。
けれど、人ではないものに見えた。
周りの避難民も、兵士も、誰も動けなかった。
黒い男は、母たちを一度だけ見た。
声は出さない。
それから、倒れた狼型の横を通り過ぎた。
「待って!」
母は思わず声を出した。
言いたいことはあった。
助けてくれてありがとう。
あなたは誰ですか。
さっきの人は無事ですか。
どうしてそんな姿に。
どれも言葉にならない。
黒い男は足を止めた。
ミナが母の腕の中から顔を出す。
「あのお兄ちゃん?」
黒い仮面が、少しだけ下を向いた。
ミナは泣き腫らした目で、黒い男の手を見ていた。
「さっき、助けてくれたお兄ちゃんと、手が同じ」
母は息を忘れた。
黒い男は答えなかった。
仮面の奥の青い光が、少し揺れた気がした。
遠くでまた爆発が起きる。
赤い炎。
青い光。
巨大な黒い影。
王都全体が揺れている。
黒い男は南西を見る。
行こうとしている。
あの地獄みたいな場所へ。
「行くの?」
ミナが聞いた。
黒い男は少しだけ間を置いて、しゃがんだ。
目の高さがミナと同じになる。
「母さんの手を離すな」
低い声だった。
ミナはこくりとうなずいた。
「お兄ちゃんは?」
黒い男は答えない。
答えられなかったのかもしれない。
名乗る気がなかったのかもしれない。
ただ、ミナの頭に手を置いた。
ほんの少しだけ。
冷たい手だった。
でも、怖くはなかった。
次の瞬間、別の狼型が横の路地から飛び出した。
母は声も出せなかった。
黒い男は立ち上がりながら、そちらを見た。
短剣を抜く。
一歩。
二歩。
三歩目で、もう機械兵の懐にいた。
爪を避ける。
腕を斬る。
首下へ刃を入れる。
止まらない。
さらに後ろから二体。
黒い男は倒れた機械兵の脚を蹴り上げた。
鉄の脚が回転し、二体目の単眼を潰す。
三体目が跳ぶ前に、黒い男は壁を蹴った。
身体が宙を回る。
短剣が背中の接続部へ突き刺さる。
青い火花。
黒い油。
三体がほとんど同時に崩れた。
誰かが震えた声で言った。
「黒い騎士……」
別の誰かが、祈るように呟いた。
「黒仮面様……」
黒い男は振り返らない。
瓦礫の山へ駆け上がる。
赤い炎の方へ。
王都最強が戦う場所へ。
人が逃げてくる方へ。
普通なら、誰も向かわない方へ。
母は娘を抱いたまま、その背中を見ていた。
助けられた。
それなのに、胸の中が軽くならない。
あの人は、まだ戦いに行く。
たった今、娘を助けた手で。
さっき血を流していたはずの身体で。
名も告げずに。
◇ ◇ ◇
王都南区の市場では、今も昼になると鐘が鳴る。
警戒鐘ではない。
ただの時報だ。
それでも、母はたまに肩を揺らす。
ミナは、もう少し大きくなった。
屋台の紐も結べるようになった。
たまに失敗する。
そのたびに母が直す。
「強く結びすぎ」
「ほどけるよりいいでしょ」
「袋が破れる」
「じゃあ、お母さんやって」
「自分で覚えなさい」
そんな会話ができる日が戻ってきた。
王都の壁には新しい石が増えた。
焼けた通りには店が戻り、子どもたちはまた走る。
けれど、南西の空を見る人は今もいる。
黒い騎士の噂は、あちこちで聞くようになった。
灰冠迷宮に現れた。
レオナ様と並んで戦った。
王都決戦で空を裂いた。
アビスの奥へ消えた。
怪物だと言う人もいる。
英雄だと言う人もいる。
ミナには、どちらもよく分からない。
覚えているのは、黒い仮面。
青い光。
冷たい手。
そして、母の手を離すなと言った声。
その日の昼前、若い小隊長が市場を通った。
「レン兄ちゃん!」
ミナが声を上げると、小隊長は少し驚いた顔で振り向いた。
「ミナ。走るなよ」
「走ってない」
「今、走ろうとしてただろ」
「してない」
小隊長は困ったように笑い、荷車の車輪を押していた老婆の方へ戻った。
ミナはその背中を見ていた。
黒い仮面はない。
青白い光もない。
ただの若い兵士に見える。
けれど、しゃがむ時の感じと、手の置き方だけが、あの夜の黒仮面様と少し似ていた。
「お母さん」
「何」
「レン兄ちゃんって、黒仮面様に似てるね」
母は袋の口を結びかけたまま、手を止めた。
「……どうして?」
「しゃがむところ」
「そこ?」
「あと、手」
ミナは市場の向こうを歩いていく若い小隊長を見ていた。
「あの夜、頭をぽんってしてくれた手も、ちょっと冷たかった」
母は何も言えなかった。
小隊長は荷車を押し終えると、老婆に頭を下げて歩いていく。
その背中は、どこにでもいる若い兵士に見えた。
母はミナの手を握った。
今度は、娘の方から握り返してきた。
黒い騎士は、今もどこかで戦っているのかもしれない。
その正体も、何を失いながら戦っているのかも、ミナは知らない。
ただ、ひとつだけ覚えている。
あの夜、名も告げずに自分を救った誰かがいた。
そしてその人は、誰にも見送られないまま、もっと暗い戦場へ走っていった。
※本作は『俺だけ【リミットブレイク】』の外伝短編です。
黒仮面の正体と、その力に伴う代償は本編で描いています。




