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自殺阻止          :約3000文字 :コメディー

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/05/25

 夜、とある橋の上。一人の男が欄干を乗り越え、じっと川を見下ろしていた。

 闇に塗りつぶされた川面は底知れぬ黒を湛え、吸い寄せるような引力を持っている。風の音も、木々の葉擦れの音も今の男にはひどく遠い。耳に残るのは低く流れる水の音だけだった。

 男は大きく息を吐いた。

 膝は小刻みに震え、脇にはじっとりと嫌な汗が滲んでいる。喉はからからに乾き、唾を飲み込むだけでもひりつくように痛んだ。だが、それでも不思議と心の奥には、奇妙な安堵があった。

 これで終わる。ようやく終われる――。

 男は唾を飲み込み、足先に力を込めた。今まさに一歩を踏み出そうとした――その瞬間だった。


「っう!?」


 突然、背後から強い力で腕を掴まれ、そのまま羽交い締めにされた。


「ダメだ、死んじゃダメだ!」


 男は驚き、反射的に振り返った。

 そこにいたのは制服姿の高校生の男女だった。女子のほうは引きつった顔で男の服の袖をつまむように掴んでいる。男子のほうは息を荒げ、目をぎらつかせながら必死に男の身体を押さえ込んでいた。


「は、放してくれ……もう……もう死にたいんだ……。生きていたって、いいことなんてない……」


 男はもがきながら震える声でそう言った。


「つらいことから逃げちゃダメだ!」


 男子高校生が耳元で怒鳴り、男はびくりと肩を跳ねさせた。


「……確かに、生きているとつらいことはたくさんあります。僕たちもついさっき別れ話をしていたんです。……でも、やっぱり好きだなって。お互いしかいないなって。それで、同じ大学に行こうって決まったんです。でも、それには相当勉強を頑張らなきゃいけなくて……。だからデートの回数を減らそうって話になって。ほんとつらいですよね」


「……ん?」


「でもまあ、結婚とか考えているし、やっぱ、ここが踏ん張りどころだなって。彼女、ちょっと他の女の子と話しただけで怒ったりするんですよ。束縛癖、みたいな。結婚したらちょっと心配ですけど、でもそこがかわいいっていうか。あ、意外と尻に敷くタイプなんすよねー。でも甘えたいときはわかりやすくて」


「いや、ん?」


「あ、すみません。しゃべりすぎちゃって。自殺しようとする人なんて僕の周りにはいないから、びっくりしちゃって、つい。な?」

「うん。怖い」


「まあ……そう、うん……」


「つまりですね、おじさんも奥さんとちゃんと話し合ったほうがいいですよ。大丈夫、必ず戻ってきてくれますよ。な?」

「うーん……たぶん」


「いや、独身だけど」


「えっ、その歳で? 五十代ですよね?」


「三十代だけど」


「あ、思ったより若いんですね。へー、あれか。苦労が多いんだ」


「まあ、それは、うん……」


「でもまあ、また愛する人を見つけて再婚すればいいじゃないですか」


「いや、離婚とかじゃなくて、そもそも結婚したことがないけど」


「えっ、そんな大人がいるんですか!?」


「え、いや、まあ……」


「信じられない……ちょっと僕らの周りにはいないタイプだよね」

「うん。変なの」


「そ、そうなんだ……」


「でもほら、あれじゃないですか。誰からも愛されなくても、仕事に生きればいいじゃないですか」


「誰からもって……あと、無職だからさ」


「えっ、嘘!? じゃあ普段何してるんですか? 寝てるだけ?」

「信じられない」


「いや、一応バイトはしてたけど」


「バイト? バイトって学生がするものですよね。なんで正社員にならなかったんですか?」

「きっとバンドマンとか目指してたんだよ。無理だったけど」


「いや、普通にどこの会社も落ちただけだけど……」


「ええ? 何回でも受ければいいじゃないですか! あきらめるなんて根性ないですよ!」

「努力が足りない」


「お、おお……」


「死んじゃダメですよ。天国があるなんて思わないでください。無ですから、無。何も残りませんよ。あなたが生きていた証なんて」

「自殺だし、行くとしても地獄じゃないかな」


「いや、あの」


「あと、人に迷惑がかかりますから」

「ね。友達とか家族はいないだろうけど、行政にね」


「ちょっと」


「大人なんだからしっかりしてくださいよ。生きて、僕たち若者の手本になってください」

「難しいとは思うけど」


「いや、だから」


「僕たちが支えますから。だから、生きることをあきらめないでください」

「たち……?」


「君たち、説得する気ある?」


「はい?」


 男子高校生はきょとんとした顔で首を傾げた。


「いや、さっきからすごいガンガン来るけど、まったく生きようって気にならないんだよ!」


「え! どうしてですか?」


「どうしても何も、存在が眩しすぎるというか、刺々しいというか……。あと、首がものすごく苦しいんだけど、ちょっと緩めてくれない?」


「そんなこと言って、力を緩めた瞬間に飛び降りる気でしょ? ほら、お前も掴んで」

「やだ。この人なんかべたべたしているし、臭うし」


「臭う……」


「人の命がかかっているときに、そんなこと言ってる場合じゃないだろ。我慢しろよ」

「また言った。我慢しろ我慢しろって、こっちがわがまま言ってるみたいに言わないで!」


「その話はさっき終わったじゃん……なんで蒸し返すんだよ」

「納得したわけじゃないし。こっちが呑み込んであげただけだから」


「いや、ちょっと」


「なんだよそれ……はあ、まあ、もういいや」

「出た。『もういいや』。その言い方ほんとに嫌。馬鹿にしてるの?」


「いいから、苦しいんだけど」


「してないって。だからさ、今はこいつをどうにかしないと――」

「ねえ、やっぱり別れよ」


「……は?」


 男子高校生の動きがぴたりと止まった。


「やっぱりこのまま付き合うのは無理。ごめん」


「え? 何言ってんの? は? は?」

「ごめん。無理」


「首……! 締まってるんだけど……!」


「何も、この人を説得している最中にする話じゃないだろ……」

「別に、もう話し合うことはないし」


「君がしていたのは説教だったけどね」


「な、何が気に食わないんだよ」

「なんか、あたしの恥ずかしい話とか失敗とか、勝手に人に喋りすぎじゃない? さっきも、その変な人にぺらぺら喋ってたし」


「変な人って……」


「べ、別にいいだろ。どうせ二度と会わない人だし」

「気持ち悪いの」


「君、さっき支えるって言ってなかった?」


「大学も一緒に行くとか、別に望んでないし」

「は? そっちのために頑張ってやろうとしているのに、なんだよ」 


「だから、そういう押しつけがましいところが嫌なの」

「なんだよそれ……」


「それはわかる」


「とにかく、そういうことだから。じゃあね。ばいばい」


 彼女はそう言い切ると、くるりと背を向けて歩き出した。


「……待てよ!」


 男子高校生は唸るような声を上げた。彼女は足を止め、「なに……?」とゆっくり振り返った。


「行ったら、おれ、おれ……こいつと死ぬぞ!」


「いや、は?」


「……勝手にすればいいじゃん。じゃあね」

「おれは本気だぞ! ほら!」


 男子高校生は勢いよく欄干に足をかけ、ぐいっと身を乗り出した。


「お、おい、押すなって! あっ、あ――」


「待って!」


 彼女の鋭い声が響いた。その震える手は男子高校生の服を掴んでいた。


「はあ、はあ、なんだよ……放せよ……」


 男子高校生は荒い息を吐きながら、ゆっくりと欄干から足を下ろした。


「バカ……ほんとに死んじゃうところだったんだよ……」

「……ごめん」


 短い沈黙が落ちた。やがて、どちらからともなく二人は身を寄せ、そっと抱き合った。

 それから二人は肩を寄せ合い、ゆっくりと橋を渡っていった。


 先ほど川面に舞い上がった泥はゆっくりと沈んでいき、何事もなかったかのように穏やかなせせらぎが夜に寄り添っていた。

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