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ソフトウェア会社の中途採用同期4人が出会う「ナゾの水」

小鳥遊自由タカナシジユウプログラマーとしての人生に投げかけられた「ナゾの水」

彼と同期3人のヒューマンドラマを短編として描きました。

第1章 ナゾの水

蝉の鳴き声が、六本木の高層ビルの谷間にこだまする。1985年、東京。バブルの足音が遠くで鳴り始めていた頃。

昼近く、熱気がアスファルトを押し上げる中、若き小鳥遊自由タカナシジユウは汗を拭いながら、背広の襟を引っ張った。

「終わったな、式典……」

自由は今、21歳。

現役で私立大学の農獣医学部・林学科に進学したが、森や草木の世界よりも、データ解析やコンピュータに惹かれて中退。独学でプログラミングを学び、ソフトウェア会社に中途採用された。

今は立川事業所に配属されてに2年が過ぎたところ。畑違いの分野から飛び込んだこの業界で、ようやく「一人前」の足音が聞こえ始めた頃だった。

今日はその会社の創立記念日。式典のあと、同期たちと六本木の繁華街を歩いていた。


共に歩くのは、湯川 明(35歳)、大沢 仁志(42歳)、三田村 誠(38歳)。皆、自由より10歳以上年上で、頼り甲斐のある兄貴分のような存在だった。

「なんか、腹減ったな」

湯川が言った。

「カレーなんてどうだ? あそこに看板出てる、専門店っぽい」

三田村が指差したのは、細い路地の奥。

漂ってくるスパイスの香りに、全員が自然と頷いた。

店に入ると、エスニックな空気が出迎えてくれた。

厨房の奥にはターバンを巻いたインド人の店員が数人。暗めの照明とオリエンタルな音楽。異国の中にぽつんと置かれた、日本の若い男たち。

「ナンでいくか、ライスでいくか、それが問題だな」

湯川が笑った。

注文を終えると、店員が無言で各自の前に大きめのグラスを置いていった。

透明な水。氷が解けかけている。

だが。

「……これって、もしかして……指を洗う水じゃないよな?」

三田村の一言が、空気を止めた。

全員、動きを止めた。

自由もグラスに手を伸ばしかけて、そのままフリーズした。

「え……マジ?」と、誰もが思った。喉は渇いている。だが、それが“飲んでいい水”なのかどうかが、分からない。

「なあ、どう思う?」

猛は湯川にそっと聞いたが、湯川も肩をすくめただけだった。

インド人の店員に聞く勇気は――誰にもなかった。

自由達は喉は乾くが我慢して、ナンとカレーを流し込んでいた。

時間が静かに流れる中、他のテーブルの中年サラリーマンが、同じグラスの水を堂々と飲んだのを、猛たちは見逃さなかった。


その瞬間。

「飲めるぞ!」

と誰かが声をあげたわけでもないのに、四人は一斉にグラスを手に取り、ごくりと飲んだ。

「……うまい」

「キンキンだな……」

「生き返るってこういうことか」

「おかわり頼めるか?」

「頼む! おかわり!」

一気に空気が解けた。

笑いが戻り、言葉が飛び交った。

そのたわいもない出来事。

けれど、若き小鳥遊自由にとっては、生涯忘れられない瞬間だった。

年齢も背景も違う四人が、“わからなさ”に向き合って、同じタイミングで笑い合った。ただそれだけで、「仲間」という言葉の輪郭がぼんやりと浮かんできた。

――それから、四人はそれぞれの配属先へと散っていった。

もう一度、全員が集まることはなかった。

だが、あの「ナゾの水」の記憶は、確かに彼らの間に静かに流れていた。

________________________________________



第2章 同期たちの散り際

2025年、東京・多摩市。

エアコンの風が吹くリビングの隅、パソコンのディスプレイには「定年退職者の会」の一斉メールが映っていた。

件名は「訃報:三田村誠 様のご逝去について」。

小鳥遊自由は、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、その画面をしばらく眺めていた。

手元の湯呑には朝淹れた緑茶がまだ残っている。だが、それを口に運ぶ気にはなれなかった。

“ついに来たか、三田村さんまで……”

老眼鏡をはずし、窓の外に目をやる。蝉が鳴いていた。

――あの暑い日と同じ音だった。六本木、あの「水」が出された日のことが、再び心に蘇る。


あの日から四十年。

猛は会社に残り、技術者として粛々と仕事を続けた。主任、係長、課長と肩書は変わっていったが、「中途入社の若造だった頃の自分」だけは、いつも心のどこかに残っていた。

三田村は、入社5年で別の会社へ転職したと風の噂で聞いた。

大沢は10年ほど前に退職し、実家のある群馬で蕎麦屋を始めたらしい。

湯川明――いちばんフランクで、誰よりも年上だった男。

彼だけは、その後も何度か年賀状のやりとりが続いた。けれど、ここ十年は音信不通だった。

ふと、ディスプレイの横に置かれた段ボール箱に目が留まる。

「退職時持ち帰り 私物」――そう書かれたガムテープの上に、埃が薄く積もっていた。

自由はゆっくりと腰を上げ、段ボールを開けた。

社内報、社員証、研修中のノート、そして一枚の写真。

六本木の裏通り、インド風のカレー店の前で、自由と三人の男たちが肩を組んで笑っていた。

皆、若い。

そして、グラスの水を前に笑い合っていた、あの日の空気が、そこに写っていた。

「……まだ、やってるのか、あの店」

自由は誰にともなくつぶやいた。

次の瞬間、机の引き出しから古い年賀状を取り出した。湯川からの最後の一通。2015年。

《俺はまだコードを書いてるよ。新しい会社でな。たまに、あのナゾの水を思い出す》

差出人の住所は、練馬区・石神井台。

書かれていた携帯番号が、まだ生きているかどうかも分からない。

だが、何かが、今の猛の背中を押した。

彼はスマホを手に取ると、その番号をタップした。


ワンコール、ツーコール……、ツー……コー……

「はい、湯川です」

間違いない。あの声だった。

低く、落ち着いていて、少しだけおどけた響きを持つ声。

「湯川さん……小鳥遊です。小鳥遊自由。覚えてますか?」

短い沈黙のあと、電話の向こうからふっと笑う声が漏れた。

「……忘れるかよ、“水事件”の若造を」

その一言に、猛の目の奥がじんわりと熱くなった。

人と人の間にできた時間の裂け目が、わずかに綻び始めた瞬間だった。

________________________________________


第3章 再訪

週末の昼下がり、蝉の声に包まれた石神井公園駅のロータリーに、小鳥遊自由は立っていた。

ジャケットを脱いだワイシャツの襟元を緩めながら、スマホの地図アプリを確認する。

「湯川 明」という名前が、十年の沈黙を破って電話越しに現れたあの日から、三日が経っていた。

「……近いな」

練馬区・石神井台。

団地のように古びた集合住宅が並ぶ一角に、湯川は事務所兼住居を構えているという。

電話で再会を約束したものの、正直、自由の胸にはざらついた感情もあった。

――何を話せばいい? 

――あの日以来、一度も連絡をとらなかったくせに。


――今さら、何になる?

だが、三田村の訃報と、湯川の声。

あの写真に写った四人の笑顔が、自由を動かした。

住宅街の静けさの中、小さな表札が見えた。

「YUKAWA SYSTEMS」と書かれた銀色のプレートが、陽に照らされていた。

ピンポン、とインターホンを押す。

「はい、どうぞ。開いてるよ」

その声に、自由は静かにドアを開けた。

中は、元オフィスらしき空間が簡素に改装されていた。

本棚にプログラミング関連の専門書、古いコンピュータ雑誌。壁にはホワイトボードと付箋がずらり。だが、生活感は薄く、どこか時が止まっているようだった。

湯川明は、ソファに腰を下ろしていた。

当時の面影を残しつつも、髪は白く、額の皺が深かった。しかし、その眼差しは変わっていない。

「……変わらねぇな、お前」

「変わったよ。ハゲたし、老眼だし」

「ハハ、そうかもな」

二人は、少しの沈黙のあと、ふと同時に笑った。

その笑い声に、年齢も空白の時間も、溶けていくようだった。

「お前、まだコード書いてるのか?」

「いや、もう引退さ。今は趣味でちょこちょこ。オープンソースの手伝いくらいだよ」

「……俺、まだIDE(統合開発環境)って言葉に馴染めてなくてさ。未だにエディタとターミナルばっかり使ってる」

「お前らしいな」

二人は昔話に花を咲かせた。

研修で書いた最初のバグまみれのコード。立川の寮で徹夜してバグ修正をした夜。


そして、あの日の「ナゾの水」。

「覚えてるよな? あのカレー屋」

「覚えてるさ。水を前に全員が凍りついた、あれだろ」

「……まだあると思うか?」

「ん? 店?」

「ああ。六本木の、あの裏通りの。今、どうなってるんだろうな」

湯川が顎に手をやってしばらく黙った。

そして、ぽつりと口にした。

「行ってみるか、今度」

自由は少し驚いた顔をした。

だが、その表情はすぐにやわらいで、深くうなずいた。

「……ああ、行ってみよう。四人じゃないけど、せめて二人で」

どちらからともなく、手を伸ばし、握手を交わした。

それは、再会の握手であり、過去と向き合う覚悟の握手でもあった。

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第4章 六本木ノスタルジア

自由と湯川が六本木の駅に降り立ったのは、梅雨明け直後の、湿気を含んだ夕暮れだった。

地下鉄のエスカレーターを上がると、目に飛び込んできたのは、整然と整備された広い歩道と、ガラス張りのビル群だった。

「ああ……変わったな……」

湯川がぽつりとつぶやく。

1985年当時、猛たちが研修の合間に通った裏通りのカレー店。

今やその記憶の場所も、タワーマンションや再開発された複合施設の陰に隠されている。

「ここだよ。たしか、この細い路地のはずだ」

自由が指差すのは、かろうじて残っていた一本の狭い道。

今では観光客もほとんど足を踏み入れない、古びた石畳が残っている。


雑居ビルの隙間を縫うように歩いていくと、ふと鼻先にあの香りが漂ってきた。

スパイス、クミン、タマリンド、焦げかけのガーリック。

「……おい、匂うぞ……あの匂いだ」

足を速めると、路地の奥に、看板がひっそりと立っていた。

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「インド家庭料理 シャクティ」

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木製の看板は風雨にさらされ、文字は擦れていたが、たしかにそこには“あの店”の面影が残っていた。

「まさか……同じ店か?」

「いや……看板は変わってる。でも場所はここだ。間違いない。あの写真と同じレンガの外壁だ」

二人は無言で扉を押した。

中には、10席ほどのこぢんまりした店内。インド音楽が静かに流れ、漂う香りはあの頃のままだった。

カウンターの中には、白いシャツにベストを着たインド系の中年男性が立っていた。

笑顔で頭を下げながら、流暢な日本語で迎える。

「いらっしゃいませ。お二人ですか?」

自由と湯川は、まるで少年のような顔で頷いた。

「ここ……昔、別の名前の店じゃなかったですか?」

自由が聞くと、店主は目を細めて首をかしげた。

「昔……ああ、シャクティは2000年にこの場所にオープンしました。でも、この場所

は、もともとカレー屋さんだったそうです。インド人のご夫婦がやっていたと聞いています。もしかして……その頃に?」

湯川が思わず笑う。

「いたな、ターバン巻いた無愛想なオヤジが。声を掛ける勇気無くて、俺ら誰も水が飲めなかった」

「……『ナゾの水事件』、だな」

二人は顔を見合わせ、懐かしさに声を上げて笑った。

店主も、くすりと笑って、軽く会釈をした。

「では、グラスに冷たい水をお持ちしましょう」

「……ああ、ぜひお願いしたい」

店主が運んできたグラスは、かつてのものとそっくりだった。大ぶりのガラス製、氷がカランと鳴る。

二人はそっと水を口に運ぶ。

「……うまいな」

「うん、今の方がずっと沁みる」

テーブルに置かれたメニューには、チキンカレー、マトンカレー、ダール(豆)のカレー。どれもあの日と同じような響き。

自由がふと思い立って、スマホを取り出し、あの古い写真を画面に表示させた。

湯川がそれをのぞき込んで、目を細める。

「……この写真、まだ持ってたんだな」

「お前ら、みんな笑ってたよ」


写真の中の四人の若者たちは、肩を組み、グラスの水を前に笑っていた。

汗まみれのワイシャツ、どこかぎこちない姿。だが、あの一瞬だけは、年齢も立場も関係なく、確かに“仲間”だった。

「……また、来ようぜ」

「そうだな。……三田村と大沢の代わりに、俺らが覚えてりゃいい」

静かな夜が、ゆっくりと六本木に落ちていく。

その路地裏には、40年前と変わらぬ風が、少しだけ吹いていた。

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第5章 不在の再会

その日、小鳥遊自由はひとり、群馬県のとある小さな町にいた。

上野駅から高崎線に揺られ、乗り継いでさらに北へ。

車窓の外には田んぼが広がり、風が夏草を揺らしていた。

目的地は、大沢仁志の蕎麦屋だった。

十数年前に東京を離れ、実家に戻って店を始めたと年賀状に書かれていたが、それも、もう十年は前の話だ。

調べた住所を頼りに、駅から徒歩で20分。

灼熱のアスファルトを歩くうちに、心臓の鼓動が静かに高まっていく。

――まだ店があるのか。

――いや、それよりも、大沢さんは……。

やがて、小さな川沿いの道に出た。

川を見下ろす木橋の向こうに、古い瓦屋根の平屋が見えた。

入口には風鈴が下がり、木製の看板にはこう書かれていた。

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「手打ちそば 仁庵じんあん

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自由は、ごくりと唾を飲み込んで、暖簾をくぐった。

中は静かだった。カウンターと四人掛けの座敷席が三卓。

客は一組だけで、壁際に座った老夫婦が蕎麦茶をすすっていた。

奥から現れたのは、白髪交じりの女性。

淡い紺色の割烹着に、優しい笑顔を浮かべていた。

「いらっしゃいませ。一名様ですか?」

「はい……すみません、あの……」

自由は、名刺入れから古い社員証を取り出した。

名刺がないのが気恥ずかしく、代わりに“記憶”を差し出す。

「大沢仁志さんに……お会いできればと思って……。昔、会社でご一緒していた者です。小鳥遊といいます」

女性は一瞬驚いたように目を見開き、次に柔らかく微笑んだ。

そして、静かに頭を下げた。

「……あの人は、もう三年前に亡くなりました。持病の悪化でした。……時々“同期の人たちは元気かな”って、話していたんですよ」

自由はその場で、軽く頭を下げた。

不思議なことに、涙は出なかった。

けれど、心のどこかでふっと何かがほどけたような気がした。

「そう……でしたか……」

「ごめんなさい。あの人、最後まで“ナゾの水の話”をよくしていました。“インド人の店で誰も水が飲めなかった”って、嬉しそうに」

自由は苦笑した。


あの時、大沢は最年長だった。

一番落ち着いていたように見えたが、やっぱり、あの水に戸惑っていたのだ。

「……あれがね、私にプロポーズした時の話の枕詞だったんですよ。“君がもし俺と結婚したら、水のグラスくらいすぐ飲める男と一緒にいられるぞ”って」

店内に、小さな笑いが生まれた。

自由はそばを注文した。

出てきたのは、手打ちの十割そば。つるりとしたのど越しに、しっかりとした風味。

どこか懐かしくて、どこか新しかった。

会計を済ませたあと、店の外で立ち止まると、風が吹き、風鈴が鳴った。

耳の奥で、大沢の笑い声が響いた気がした。

「……水、飲めるようになったよ、俺も」

自由は小さくつぶやいた。

過去と向き合うというのは、きっとこういうことなのだ。

言葉にしなくても、誰かに話さなくても、何かが確かに繋がる瞬間。

遠くの空に、入道雲がゆっくりと広がっていった。

________________________________________



第6章 記憶の墓標

夏の終わり、自由はもう一度電車に乗っていた。

行き先は、神奈川県・横須賀市。

訃報のメールに添えられていた一文に、「ご家族の希望により、弔問は静かに」とあった。

だが、四十年前のあの一瞬を共有した者として、どうしても伝えたかった。

「三田村誠が確かにここにいた」――ということを。

寺の名は覚泉寺かくせんじ

京浜急行の駅からしばらく歩いた小高い丘の上にある。

自由は駅前の花屋でひまわりを一輪買った。

四十年前の真夏、六本木で汗をぬぐっていた三田村の姿を、なぜかそれが思い出させたのだ。

墓地は静かだった。セミの声すらどこか遠く、空気はゆっくりと流れていた。


事前に寺に連絡していたため、住職が案内してくれた。

墓碑に刻まれた名は、簡素だった。

三田村誠 之墓

その下に、家族らしき名前がいくつか連なっていた。

「……来たぞ、三田村さん」

自由は、そっと墓石の前にしゃがみこんだ。

線香に火をつけ、ひまわりを供える。

そして、背中を丸めるようにして、ぽつりぽつりと語り始めた。

「覚えてるか……あのカレー屋のこと」

「誰も水が飲めなくてさ。お前が“これ指を洗う水かな”って言った一言で、全員止まったんだよ」

「けどな、あれで俺ら、一気に仲間になったんだ。今でも、あの沈黙と、その後の笑い、忘れられない」

風が、線香の煙を斜めに吹き流す。

「湯川さんと会ったよ。再会した。あんたの話も出た。……大沢さんの蕎麦、うまかった。いや、もう会えなかったけどな。奥さんに会ったよ」

「……俺、思うんだ。あのグラスの水って、“何もかも分からないとき”に、それでも信じるかって、そういうことだったんじゃないかなって」

「誰かが飲むまで待って、飲めばいい。誰も飲まなければ、飲まなくてもいい。けど――あの時、四人とも同じタイミングで飲んだ。あれは、奇跡だったよな」

墓は静かにそこにあり、何も言わない。

だが、猛の中にあった言葉たちは、長い年月を経て、ようやく出番を迎えたようだった。


ポケットから、スマホを取り出す。

古びた写真――六本木のカレー屋の前で肩を組む四人の姿。

自由はそれを、墓前にそっと立てかけた。

「また会おう。いつか。次は、ちゃんとグラスを乾杯しよう」

その瞬間、風が一段と強く吹き、ひまわりの花びらが一枚、はらりと落ちた。

猛は立ち上がると、軽く背広の裾を払って一礼した。

その背中は、どこか晴れやかだった。

________________________________________



最終章 グラスの向こう側

カラン、と氷の音がした。

「……飲めないんです」

若い男がグラスの前で固まっていた。二十代前半、スーツ姿。少しオーバーサイズの上着が、いかにも「新人です」と語っている。

場所は、あの店――六本木の裏通りにひっそり残るカレー店「シャクティ」。

小鳥遊自由は、カウンター席でその様子を眺めていた。

向かいには、若手IT企業の新人研修で“特別講義”を終えたばかりの学生たちが数人。猛はその日、講師として呼ばれ、彼らの前で「システム開発と人間関係」について語ったばかりだった。

食後の懇親を兼ねて立ち寄ったこの店で、彼は偶然にも「ナゾの水」に直面する若者と出会ったのだった。


「……これ、指を洗うやつじゃないですか?」

言った瞬間、空気が止まった。

テーブルの全員が笑っていいのか困ったような顔をして、グラスの水を見つめる。

自由は席を立ち、その若者の隣に腰を下ろした。

そして、静かに、自分のグラスを持ち上げた。

「これは、水だよ。飲んでいいやつだ」

「……え? 本当に?」

「うん。けど、俺も昔は分からなかった。誰も飲まなかったからな。誰かが最初に飲むのを、待ってた」

若者が、グラスを持ち上げた。

少し戸惑いながら、ゆっくりと口をつける。

「……あ。うまいっすね」

周囲の新人たちが笑い、次々にグラスを手にした。

氷がカランと鳴り、会話が戻ってくる。

自由はそれを見届けながら、ふと空を見上げるように視線を天井へ送った。

四十年前のあの日、グラスの水ひとつでつながった仲間たち。

もう、全員が揃うことはない。けれど、あの時確かに存在した時間は、こうしてどこかに受け継がれていく。

湯川は、数日前にメールでこんな一文を寄越してきた。

________________________________________

「あの時、グラスの向こうにあったのは、ただの水じゃなくて、“これからの人生”だったんだな」

________________________________________

自由はにやりと笑った。


若者たちの笑い声が響く店内。

氷の音、スパイスの香り、懐かしくて新しい六本木の空気。

自由はそっと、自分のグラスを手に取った。

「乾杯――“ナゾの水”に」

透明な水の向こう側に、若き日の自分と、三人の仲間の笑顔が、ふと浮かんだ気がした。

________________________________________

―完―


筆者が20代でプログラマーになった時は未だ未熟な若者として扱われることが多かった。

それでも中途採用の同期は年齢こそ違ったが、同じ大人の仲間として接してもらえた。

そのことは私にとって大きな勇気に繋がり、その絆を深めたのが「ナゾの水」。

そこから本短編を思いつき書いてみました。


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