第二話 土地の記憶
久野嶋市役所の庁舎は、昭和の香りを色濃く残した鉄筋コンクリート造だった。
外壁にはところどころ苔が浮き、掲げられた看板の文字も風雨で少しかすれている。だが、その年季の入り方が、この土地に根を下ろした歴史を物語っていた。
渉と颯汰は、環境衛生課のカウンター前で足を止めた。
「こんにちはー。植物庁からの調査依頼の件でお伺いしたんですが……」
颯汰が軽やかに声をかける。
職員用のカウンターの奥で、書類の束を抱えていた青年が顔を上げた。
まだ若い。背は高く、髪は七三に分けられ、Yシャツの袖をきっちりと肘まで折っている。
一見して真面目なタイプ。けれど、その目は疲れよりも慎重さを宿していた。
「えっと……植物庁、ですか。ああ、例の空き地の件ですね。お待ちしてました」
職員は名札を直しながら、丁寧に頭を下げた。
「環境衛生課の新井です。書類には目を通してます。どうぞ、こちらへ」
案内されたのは、課の奥にある簡易な応接スペース。パーテーションで区切られた二人がけのソファと小さなローテーブル。窓の向こうには、街路樹のナンキンハゼが葉を揺らしている。
「さっそくですが、例の空き地――あそこは昔、結核療養所があった場所です。ご存じですか?」
「はい、こちらへ伺う前に少し聞きました。解体されたのはいつごろですか?」
渉が問い返すと、新井はファイルを一冊取り出して答えた。
「正式には昭和六十三年に閉鎖、翌年に取り壊し。今から三十年以上前ですね。その後は用途未定のまま、市の管理地として扱われています」
「管理って言っても、フェンスと生け垣だけって感じでしたね」
颯汰が軽く笑う。
「草の繁殖がえぐかったっす。ナズナに侵略されてました」
「ええ、予算の関係もあって、定期的な管理までは手が回っていないんです」
新井は申し訳なさそうに目を伏せた。
「実はあの土地、ちょっとややこしい事情がありまして」
「ややこしい?」
渉が眉をひそめる。
新井は頷きながら、ファイルの地図ページを開いた。
「これが現行の地番と用途区分なんですが……妙なことに、昭和初期より前の記録が抜け落ちてるんです」
「地番が飛んでる?」
「正確には、“地番の割り当て履歴”が一度途切れてる。以前の用途も、不明としか書かれていません」
新井の指がページの余白を叩く。
「しかも、それを補うはずの古い地図が見つからないんです。災害による紛失、あるいは……まあ、よくある話ですが」
「でも、療養所の建設は記録されてるんですよね?」
「ええ。昭和十年に建てられたという記録があります。そのときに“新たに地番を振った”ような記載があるので、それ以前は別の用途だった可能性が高いと思います」
「墓地だったとか、そういう?」
颯汰が冗談めかして尋ねると、新井は少しだけ笑って首を傾げた。
「そこまでは……でも、埋葬記録があるかもしれないので、市民課や旧保健所の資料室をあたってみてください。そちらは建築・土地課じゃなくて、もう少し古い文書を扱ってます」
「ありがとうございます。助かります」
渉が礼を述べたそのとき――不意に、窓から外の風が吹き込んだ。
ナンキンハゼの葉が一斉に揺れる。その中に、渉の耳だけが“別の音”を捉えた。
……わすす……れないここ……いたひ……かりな……いひとこ……ない……。
声ではない、ただの風の中に混ざった、湿った囁き。
渉は一瞬、身体をこわばらせた。
「先輩……?」
隣の颯汰が小声で呼びかける。気づかれてはいない、だが異変には勘づいたらしい。
「……大丈夫。ちょっと風で、目がくらんだだけ」
渉は曖昧に笑いながら答えた。
本当は、脳の奥に響く声を、まだ振り払えていなかった。
*
市民課の窓口は、高齢者の転居手続きと子育て世代の相談が入り混じる、にぎやかな空間だった。
ファイル片手に職員が行き交い、プリンターがせわしなく稼働している。
颯汰がカウンターに近づき、愛想よく声をかけた。
「すみません、土地の履歴について確認したくて。地番はこれで……昔、療養所があった場所です」
窓口にいた女性職員は、にこやかに応じて資料を開いたが、次第に眉を寄せはじめた。
「ええと……こちらですね。確かに療養所の記録はあるんですが、それ以前の使用歴は……あら?」
ページをめくる指が止まる。
「あれ、おかしいですね、土地台帳のこの部分、白紙です。……あれ、そもそも、ここに“前地番”の記録がない……?」
渉と颯汰は顔を見合わせた。
「古い記録って、どこか別の場所に保管されてるんですか?」
渉が問いかけると、女性職員は申し訳なさそうに言った。
「そうですね、もうひとつ古い世代の文書は、地域資料の一部として図書館か、公文書庫に移管されてるかもしれません。すみません、今ではこちらでは扱っていなくて……」
「いえ、ありがとうございます。助かりました」
渉は丁寧に頭を下げた。
市役所を出る頃には、陽はすっかり西へ傾いていた。
灼けたアスファルトの匂いが、まだ空気の奥に残っている。
*
市立図書館の郷土資料室は、地下の一角にあった。
年代別に並んだ棚には、手書きの地図、町村合併前の記録、廃村の風景写真、かつての葬祭制度に関する論文など、地方の生活史がぎっしりと詰まっている。
颯汰が資料棚をひと通り見渡しながらつぶやいた。
「こういうとこ来ると、つい他のも読みたくなっちゃうんすよね……あ、あった。“昭和初期 土地用途台帳”」
彼が抜き出した冊子を開き、ページをめくっていく。
「……うーん。昭和十年以降の記録は詳しいんすけど、それ以前……該当地番、載ってないですね」
渉は別の棚で、空中写真のファイルを見つけていた。
年代ごとの航空写真。白黒の粒子の粗い空撮画像が、地形の歴史をわずかに映している。
「これ……昭和七年の写真。あの空き地、うっすらと四角い囲いがあるように見える」
「建物?」
「いや、むしろ……柵か、囲い地。中は暗く潰れて見える」
渉がページを指さすと、颯汰も顔を寄せた。
「……これ、木じゃない? 細かい点がいくつも……墓標とか、じゃなきゃいいけど」
渉の脳裏に、一瞬だけ風の囁きがよぎる。
《……わすす……れないここ……いたひ……かりな……いひとこ……ない……》
喉の奥が熱くなる。渉はこっそりと目を閉じて息を整えた。
*
さらに足を運んだ公文書庫は、かつて市庁舎として使われていた古い建物の一角だった。
カビと紙と鉄錆の混じった匂いが、内部に染みついている。
案内された保管室の奥――目当ての地番を記した分類棚にたどり着いた二人は、しばし言葉を失った。
「……この区画だけ、ファイルごとごっそり抜けてる」
颯汰がつぶやく。
棚にはちゃんとラベルが貼られている。“〇〇番地周辺(土地用途記録)”。
けれど、肝心のバインダーは存在せず、代わりに入っていたのは「貸出中」の札一枚。
「貸出簿、見せてもらえますか?」
颯汰が管理室で申し出ると、対応した職員が首を傾げた。
「えーっと……いえ、そのファイル、誰にも貸し出されてないはずなんですが……」
「……記録がない?」
「すみません。もしかしたら整理中か、どこかの箱に紛れてるのかもしれません。後日、改めて探してみます」
渉は、何かに触れてはならない領域に近づいているような、妙な寒気を覚えていた。
そして、草のざわめきの奥にあったあの“声”――。
《……きて……くれたき……こえる?……ひ……ときた……つた……えたい》
無言のまま、渉は視線を落とした。
埃をかぶった書架の、その空白が、何より雄弁に語っていた。
*
夜の大学研究棟は、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。
古い空調の低いうなりが、どこか遠くで響いている。
渉は自席のデスクに身をかがめ、今日集めた資料をひとつひとつ見直していた。
市役所でもらったコピー、図書館で写した航空写真、公文書庫で得られなかった空白の記録。
モニターの隅には、地形図を拡大した画面が開いている。
等高線のわずかなゆがみ、川筋の変遷、かつて存在した道路や道標。
どれも些細で曖昧な痕跡にすぎない。だが、積み重ねるほどに――"何かが「消された」"という感覚だけは、じわじわと確信に変わっていく。
手元のノートにはびっしりと走り書きが並び、指先には鉛筆の粉が黒くついていた。
何度目かのため息をついたとき、渉はふと、書類の束の隅に挟まっていた一枚の紙片に指をかけた。
それは、桜の押し花で渉が作った栞だった。
――桜野町の桜……千年桜。
栞に触れるたび、ほんのりと香るような気がした。
かすかな記憶。
春の風、陽だまり、あの声、あの手。
「紗久夜……」
小さく名を呼ぶと、胸の奥に静かな痛みが走った。
あの夜、花嵐の中で彼女が見せた微笑。
人間と植物のあわいに立つ存在。
記録にも、誰の記憶にも残らない、“あちら側”に属する者。
けれど渉には、忘れられなかった。
いや、忘れてはいけないと思っていた。
そっと栞を閉じたノートに挟み直す。
手元の資料に視線を戻すが、思考はすぐに別の場所へ引き戻される。
(紗久夜が生まれた、あの千年桜。……もし、この空き地にも“誰か”が眠っているのだとしたら)
思考はやがて、今日聞いた草たちの声と重なる。
《……きて……くれたき……こえる?……ひ……ときた……つた……えたい》
花ではなく、土そのものが記憶しているような感覚。
押し込められ、声も名前も奪われた存在たちが、風の中で名乗ろうとしている。
渉はノートを閉じ、椅子の背にもたれた。
頭の奥がじんわりと熱い。
言葉では説明できない圧が、じわじわと内側から膨らんでくる。
(……もう、偶然じゃない)
この土地には、何かがある。
草花だけでなく、地形も空気も、あの場所全体が“思い出そう”としている。
だけど、それを妨げる何かがある。
公文書の空白、地図の途切れ、記録のねじれ。
まるで、「知ってはいけない」と誰かに言われているような——。
「……だったら、なおさら、調べるしかない」
渉は小さくつぶやいた。
再びノートを開き、空欄だったページに、新たな見出しを書き込む。
《埋もれた記憶の構造》
その文字をじっと見つめる渉の胸には、紗久夜の声と、空き地のざわめきが、微かに重なっていた。
*
翌週、渉と颯汰はそれぞれ手分けして調査にあたっていた。
手がかりはあまりに少なく、道筋も不明瞭だったが、それでも進まなければ、あの声に応えられない。渉には、そんな焦りに近い感情があった。
午前。
まず渉が東京郊外に住む、小さな住宅街の一角に建つ古民家を訪ねていた。
風に揺れる木製の表札には「大月地図研究室」と手書きの文字があった。
呼び鈴の音に応じて出てきたのは、七十代半ばの、眼鏡をかけた細身の男性、大月正三だ。
彼は素人ながら地図コレクターとして、その界隈では有名らしい。
「昔の地図? それなら、まあ……うちには一通りあるつもりですが」
渉が事情を話すと、大月は黙って頷き、奥の書斎へ案内してくれた。
書棚には無数の紙地図が整然と並び、棚の上には巻物状の古地図、引き出しには縮尺違いの地形図や軍用地図が分類されていた。
「久野嶋市の西縁、篠月町一帯……とくれば、昭和初期のこの地図が参考になるかと」
古ぼけた地図を机に広げ、大月が指を滑らせる。
「ここです。今は空き地になっているという土地、昭和十三年発行の地図には、“ニイ保養所”と記載がある。ただし、この表記は戦後すぐに消されて別の表記に変わっている。清和療養施設になってますね」
「……なぜでしょうか?」
「分かりません。ただ、これ以前の地図――たとえば明治三十年代の手描き地図を見ると、保養所どころか“建物”自体が描かれていない。とはいえ、当時の地図は用途によって描かれる情報がまちまちでしてね。特定の私有地や、意図的に記されなかった施設もあった可能性があります」
別の地図には、薄い墨で描かれた林と道だけが記されていた。
だが、その道の先に、地図の外へ続くように“印”が付けられていた。
「これは……なんですか?」
「“墓地”を示す記号のひとつです。ただし、役所が管理している正式なものではない。民間、あるいは私的に使われていた可能性が高い」
墓地。
それも“記録に残されていない”もの。
*
一方その頃、颯汰は久野嶋市内の古書店を間借りする郷土史家、多々良洋平という人物を訪ねていた。
分厚い眼鏡をかけ、年季の入った背広を着た老人は、植物庁と集音路渉の名前を出すと「おお」と目を細めた。
「保養所の話かい? あそこはな、昔は“結核”じゃなくて、もっと別の病が……いや、これは憶測だ。記録にゃ残っておらん」
多々良はそう前置きしながら、棚の奥から何冊かの手記を取り出して見せた。
「個人が残した証言録じゃ。戦中戦後にかけての土地の様子を書いたものだが……ほれ、ここ見てみ」
開かれたページには、震える筆致でこう記されていた。
――《夜な夜な、あの丘のほうから、赤子の泣き声が聞こえた。誰も近づこうとはせなんだ》
――《火を焚くな、と言われた。あそこは“風が怒る”からと。子どもの頃は、柵の内側に入っただけで熱を出した》
「……なんですか、これ……」
「作り話にしては、何人もの手記で“場所”が一致しとる。不思議じゃろ?」
颯汰は、笑っている多々良の横顔をちらりと見た。
しかし、その目は笑っていなかった。
*
別行動した午後、渉と颯汰は合流し、地図と証言を突き合わせていた。
「やっぱり、昭和の保養所が建てられる前に……なにかあったと考えるべきだね」
渉は言いながら、スマホを手にした。
地域の民生委員を通じて、昭和初期に生まれた住民に話を聞けることになっていた。
翌日、ふたりは紹介された人物――九十代の女性・峯岸和子を訪ねた。
白髪をきっちりと結い上げ、澄んだ眼差しで二人を迎えた彼女は、茶を一口啜ると、ぽつりと語りはじめた。
「ええ、あそこは昔、“お堂”がありましたよ。祠みたいな、小さな建物。けれど、誰も掃除をせんようになって、いつの間にか壊れてしまった」
「それは、何のためのお堂だったんですか?」
「わたしも小さうて、詳しいことは知りません。ただ、祖母が言うてました。“あそこには花を植えてはいけない”って。“うっかり根を張らせたら、封が解ける”って」
渉と颯汰は顔を見合わせた。
空き地に生い茂っていた、あの野草の群れが脳裏に浮かぶ。
「封が……?」
「ええ。あれは“埋めたもの”の上に、土を盛って……祠を置いたのだと。誰かを供養するためではなく、何かを閉じ込めるために」
散らばったピースが、ひとつの図形を描きはじめる。
空き地。かつて墓地だったかもしれない場所に、保養所が建てられ、いつしかそれも跡形なく消えた。
地図に描かれなかった道、消された建物、語られない記憶。
そして草たちの叫び。
封じられた“なにか”が、いま再び声を上げはじめている――。




