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集音路渉 花守り日誌【毎金更新中】  作者: つきや
第二章 暴れる空き地
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第一話 ざわめきの始まり

 朝一番、研究室に届いた封筒には、植物庁の封蝋(ふうろう)が静かに押されていた。


 封を開け、依頼書を取り出すと、もう一枚、小さな便箋が滑り落ちた。

 渉はそれを拾い上げ、目を通す。

 

 淡い緑色の便箋には、印刷でこう記されていた。


久野嶋(くのしま)市役所・環境衛生課より。植物庁を通じ、下記の依頼を申請いたします。】


「また“町”か……いや、市か。ほとんど町だけど」


 渉の肩越しにひょいと顔をのぞかせ、ぼそりと呟いたのは、後輩の桃木颯汰(ももきそうた)

 明るめの茶髪をゆるくはねさせた癖っ毛のショートヘアに、今どきのカジュアルなシャツをゆるっと羽織っている。

 笑顔が爽やかで、どこか人を安心させるような雰囲気を纏っていた。


「最近、植物庁から来る依頼って、妙にローカル寄りっすよね。俺ら、もはや町医者ポジションじゃないですか」


 口調は軽く、声にはどこか人懐っこさが滲む。

 まだ植物医の資格は持っていないが、それも時間の問題だろう。

 単位の都合で遅れているだけで、知識も勘も申し分ない。


「言い方が悪い」


 渉は書類から目を離さずに言ったが、口元にはわずかな苦笑が浮かんでいた。


 颯汰は飄々としているが、時折しれっと核心を突いてくる。

 それを見越してか、渉は以前よりも注意深く彼の発言を拾うようになっていた。

 

 書類は、異常植生に関する調査依頼と、簡単な地図が添えられていた。


 ——対象地:久野嶋市篠月町(しのつきちょう)郊外・旧療養施設跡地

 ——異常繁茂(はんも):ナズナ、ハルジオン、その他不明種を含む草本類

 ——住民より「金属音のような耳鳴り」「圧迫感」「吐き気」の報告あり


 渉の指が、地図の一点で止まる。

 

 “旧療養施設跡地”――都市開発からも取り残された、街の周縁(しゅうえん)

 なぜかその地名を目にしたとき、胸の奥がわずかに軋んだ。


「地元の新聞には出てないんですか?」

 

「まだ“公害”扱いにはしたくないみたいだ。現場も立ち入り禁止だそうだよ」

 

 渉は封筒の中身を丁寧に読み解きながら、静かにため息をついた。

 

 ――この感覚、どこかで感じたことがある。

 

 それは植物の“声”が単なる気配から言葉に変わり始めた()()()に似ていた。


「行ってみるか」

 

「決まりっすね。……あー、やだな。絶対ヤバいって、名前からして不穏。なんか、毎回ヤバそうなとこ行かされてません?」


 颯汰が半ば本気でぼやくのをよそに、渉はもう立ち上がっていた。

 

 耳には、今この瞬間も――風の中に混ざる、小さなささやきが聴こえている。


 *


 二人が現地に到着したのは、午後の陽が傾きかける頃だった。

 久野嶋(くのしま)市の中心部から車で二十分ほど。郊外の住宅地を抜け、篠月町(しのつきちょう)と呼ばれる一角――坂を下りた先にその空き地はあった。


 土地の形は、まるで大きな手のひらが地面を押し広げたように歪んでいる。

 敷地の広さはおよそ八千平方メートル。サッカーコート一面より、わずかに広い程度だ。

 

 今は草むらに覆われたただの空き地となっている。かつてこの一帯には「清和(せいわ)療養施設」と呼ばれる結核患者向けの隔離病棟が建っていたという。


 庭や中庭、日向ぼっこ用のベンチ、小さな温室まで備えられた施設だったらい。その名残のように、土地の一角には石組みの噴水跡や、朽ちかけた鉄柵、庭木だった樹木がぽつりぽつりと残されていた。


 周囲には低木の生け垣と古びたワイヤーフェンスが巡らされていたが、管理されている様子はなく、ところどころでツタが絡み、外側に向かって草木が這い出していた。


 風に揺れる草の音だけが、広い空間に静かに満ちていた。地面には無数の野草が、秩序も遠慮もなく広がっている。


「うわ……すげえな、これ全部ナズナ?」


 颯汰が現場をカメラで収めながら、足元を見下ろしてつぶやいた。


 白く小さな十字の花弁が、光を受けてちらちらと反射している。まるで草原に、星屑を撒いたようだった。


 ナズナだけではない。ハルジオン、カラスノエンドウ、ムラサキサギゴケ、アレチノギク……。

 湿り気を帯びた初夏の空気の中で、それぞれが好き勝手に咲き、茂り、絡み合っている。


 人の手を離れた場所だけが持つ、静かな熱気がそこにはあった。


「これは……雑草ってレベルじゃないね」

 

 渉は小声で呟いた。

 風が吹き抜けるたびに、草の海が一斉に波打つ。


 その動きが、どこか不気味だった。まるで呼吸しているようだ。


「植物庁の報告じゃ、“繁茂(はんも)”って書いてあったけど……これは“占拠(せんきょ)”だな」

 

 颯汰がフェンスの切れ目から足を踏み入れようとする。だが、渉が腕を伸ばしてそれを止めた。


「……待って」


 風の音に、微かに混じる何かがあった。

 言葉ではない。けれど、単なる風のざわめきでもない。

 音でも振動でもなく、脳の裏側にじかに触れてくるような気配。


 何かが「こちらを見ている」という感覚――いや、それだけではない。

 渉の中に、“言葉未満の意思”が静かに、けれど確かに流れ込んでくる。


 ……きて……くれた……きこえる?……ひと……きた……つた……えたい。


「これっ……聞こえる。いや、違う……入ってくる……っ」


 渉は額に手を当て、ぐらりと体を揺らした。


「渉先輩?」


 颯汰が素早く駆け寄り、軽く肩を支えながら渉の顔をのぞき込んだ。


「先輩、大丈夫? 顔、真っ青だよ」


 渉は答えず、荒い呼吸のまま足元の草地を見つめていた。

 風に揺れる草々の、その一つひとつが、まるで違う声色で語りかけてくる。


 感情、記憶、願い――言葉に変換される直前の、濁流のような想念が、脳内に雪崩れ込んでいた。


 ……こここここ……くくらいとじこめめ……ぼえてひかり……ないここ……ず……っと。


「……だめだ、情報が……多すぎて」


 膝が崩れ、地面に片膝をついた。

 手のひらが土に触れた瞬間、それはまるで扉が開いたように、草の“声”が、一斉に吹き荒れる。


「引いて、いったん距離を取ろう!」


 颯汰の声が鋭く響き、渉の肩をぐっと引いた。

 草を踏まず、なるべく足元に触れないよう気を配って、慎重に後退する。


 フェンスから数歩離れたところで、ようやく渉は大きく息を吐いた。

 背中に冷たい汗が伝っていく。


「……この場所、尋常じゃない。まるで……草たちが、叫んでるみたいだ」


「……“騒いでる”って感じは、なんとなく俺にもわかるよ」


 颯汰は少し警戒したように辺りを見回しながら、低くつぶやいた。


「でも理由まではさっぱり。これ、草花だけで起きる現象かな……なんか、地面、変じゃなかった?」


「……」


 渉は応えずに、ただ空き地の奥を見つめていた。

 言葉にできない“何か”が、この場所にはある――その確信だけが残っていた。


 しばらく、二人はフェンスの外に立ち尽くしていた。

 風にそよぐ草の海は、見かけ上は静かに揺れている。

 けれど、その奥に、言葉では届かない“うねり”が(うごめ)いている。


「とりあえず今日は、ここまでにしよう。情報をまとめて、持ち帰って整理したほうがいい」


 颯汰が慎重な声で言い、渉も静かに頷いた。


「そうだな……次に来るときは、もっとちゃんと備えてから来よう」


 肩を借りながら車に乗り込んだ渉は、最後にもう一度空き地を見た。


 白く波打つ草の奥に、見えない何かが“待っている”気がした。


 (聞こえるなら、応えなきゃいけない。……あの声に)


 視線は、草原の奥――沈黙の奥底に眠る“何か”へと向けられていた。


 *


 【報告 No.1】


 近隣住民・緒方澄江(おがたすみえ)(72)

 

 その日も、澄江は裏の畑で草むしりをしていた。

 あの空き地とは、ちょうど一本坂道を挟んだ向かい側。古い住宅が並ぶ一角に彼女の家はある。


「……また、咲いとる」


 手を止めて顔を上げると、風に揺れる白い花が目に入った。

 遠目にもわかる、あの一面のナズナ。春になれば少しは咲くものだけど、あんなに密集して咲き誇るのは異常だ。

 

 咲く、というより――噴き出しているように見える。


 数日前から、夜になるとどこからともなく、微かに笛のような音が聞こえるようになった。

 ひゅう、ひゅうと、風が抜ける音に似ている。

 でも、違う。あれは――。


「……あの人たち、見に来てたわねえ」

 

 庭の塀を隔てて、隣人の紀代子(きよこ)が声をかけてきた。

 

「若い男の人ふたり。役所の人?」


「んにゃ、なんだか“植物庁”の腕章をつけとった。東京から来とるって」


 澄江は、ちょっと目を細めて空き地の方を見やった。

 かつて、あの場所には療養施設があった。

 取り壊されてからもう何十年も経つのに、今でも夜に近寄るのはちょっと気が引ける。


 風が吹いた。

 ふと、鼻の奥に草の匂いが強く入り込んできた。


「あの土地は、草が育ちすぎるんよ。前にも市が整地に入ったけど、すぐ戻った。あれ、普通やないわ」


 澄江の言葉に、紀代子も頷いた。

 

 誰も口に出さないだけで、このあたりの住民は薄々気づいている。

 

 ――あそこには、何かが残っている。

 そして今、それがまた動き出したような気がしてならなかった。


 *


 【報告 No.2】


 除草業者の若手作業員・大橋(20代)


 ――空き地の話題が出ると、いつも少し口が重くなる。


 大橋は地元の除草業者でアルバイトをしている。


 数ヶ月前、久野嶋市の委託で、問題の空き地に草刈りに入った。


 作業初日は、晴れていたのに地面が異様に湿っていたのを覚えている。

 土がぬかるんでいるだけじゃない。スコップを差し込むたび、「ブツン」と何かをちぎるような感触があった。


「なんだこれ、根がすごいな……」

 

 そう呟いた矢先、仲間の一人が草むらで倒れた。

 その日だけで、体調不良を訴えたのは三人。うち一人は高熱で寝込んだ。


「空き地のせいにするのもアレだけどさ……あそこ、絶対なんかあるって」

 

 夜の居酒屋で、先輩が真顔で言ったのを今でも覚えている。


 大橋自身も、その日の夜、夢を見た。

 草むらの中に目があった。無数の目が、自分を見上げていた。


 その後、現場は封鎖され、作業は中止になった。理由は「土壌調査のため」とされたが、実際は誰も近寄りたがらなかった。


 今朝、市内の知人から聞いた。「東京から、また人が来たらしい」と。


 ――また、始まるのかもしれない。

 

 あの草たちが、“何か”を伝えようとしてるのだとしたら。


 *

 

 【報告 No.3】


 近所の子ども・伊藤まひる(小学三年生)


 学校からの帰り道、まひるは今日も空き地の前を通った。


 「さわっちゃダメだよ」ってお母さんに言われてたけど、フェンスの穴のところに、白い花が一つだけ飛び出してるのが気になった。


 風が吹いて、花が揺れた。

 まひるも揺れるように、首をかしげた。


 なんだろう。ちょっとだけ、耳の奥が、ふるふるってした。

 音じゃないけど、声でもないけど――でも、「だれかとおしゃべりした気がした」。


 「……こんにちは?」


 まひるが小さく言うと、風がぴたりと止まった。

 草が、いっせいに静かになった気がした。


 ――そして、ひゅう、とまた吹いた風のなかで、今度ははっきり聞こえた。


「またきて」


 びっくりして逃げ出して、お母さんには何も言わなかった。


 でも、まひるは知っている。

 あの空き地には、ひとりぼっちがいる。

 誰かに会いたくて、ずっと待ってる、声の出せない“だれか”が。

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