第六話 春を継ぐもの
翌朝、目を覚ました渉は、まるで夢からまだ覚めきっていないような心地で布団の中にいた。
昨夜の出来事——あの花嵐と光、そして紗久夜の言葉と口づけ。
すべてが現実だったのか、曖昧なままだ。
けれど、胸の奥に残る熱だけは、はっきりとした輪郭を持っていた。
朝食を取りながら、石井から昨夜の騒ぎについて聞かされた。
「集音路さん、よく無事でしたね。消防も警察も出て、ニュースにもなっています。町のSNSなんて写真だらけで……。あと、現場はもう立ち入り禁止になっています」
テレビでは、「町の象徴・千年桜、突如倒壊」というテロップと共に、夜のライトに照らされた倒木の様子が映されていた。人々のざわめきと、散った花びらが地面に降り積もっている様子。
渉はそれを黙って見つめていた。
記憶はぼんやりと霞んでいたが、なぜか心は落ち着いていた。
それが悲しみの向こうにある静かな確信のせいだと、まだ自分では気づいていなかった。
朝食を終えたあと、渉は千年桜のあった場所へと向かった。
すでに黄色いテープが張られ、町の職員が何人か周囲を見回っていた。見慣れた景色が、まるで違う世界のようだった。
千年桜は、無惨な姿で地面に横たわっていた。
大枝は裂け、幹は途中でぽっきりと折れていた。何百年という時を経てきたはずの樹が、あまりにも静かに、その生を終えていた。
けれど、渉は、足を止め、そして目を凝らした。
倒れた幹の根元近く——そこに、小さな芽があった。
朽ちた樹皮の隙間から、まるで光を求めるように、薄緑の双葉がひょっこりと顔を覗かせていた。
渉は思わずしゃがみ込んで、その芽にそっと手を伸ばす。
指先にふれたそれは、柔らかく、けれど力強い生命の気配に満ちていた。
その瞬間——ほんのわずかだが、誰かの笑う声が耳の奥をかすめた。
『わたし、また春が好きになれそう』
それは記憶なのか、幻なのか。
けれど確かに、そこにはあの声があった。
周囲に目をやると、倒木のそばに咲く野草たちが、わずかに風に揺れていた。
スミレ、レンゲ、名も知らぬ草花までもが、まるでひとつの意志を持つかのようにそっと頭を垂れていた。
風が吹くたび、それらはやさしく葉を揺らし、微かに言葉のような響きを立てた。
『ありがとう』
渉は思わず、深く息を吸い込んだ。
あの嵐の夜の花々のざわめきが、今も胸に残っている。
そっと指先を離した。
若木は、もう何も言わずに、ただ風の中で静かに揺れていた。
最後のひとひらが、肩にふわりと舞い降りたとき。
ふと耳元で、あのやさしい声が、もう一度ささやいた気がした。
『……どこ……かで』
振り返っても、そこには誰もいなかった。
けれど、確かに胸の中には、消えることのないぬくもりがある。
(まだ、終わってなんかいない)
風が吹いた。
その風に乗って、耳の奥に微かな囁きが届いた気がした。
思わず空を見上げた。
朝の陽射しのなか、残された桜の花びらが、ひとひら、静かに舞っていく。
倒れた千年桜の周囲を、静かに歩いていた。
朝露に濡れた草を踏みしめながら、裂けた幹や露出した根の様子を丹念に確認していく。
あれほど威厳を放っていた千年桜が、今はただ静かに横たわっている。
折れた枝の断面は乾き、太い幹の内側には空洞が広がっていた。
けれど、それは昨日までの目視調査や、植物庁から送られていた資料にはなかった異常だった。
(こんな急激な空洞化が、本当に自然に進行したのだろうか)
頭では分かっていても、どこか釈然としない。
だが、それでも目の前の姿が、すべてを物語っていた。
一夜にして、静かに、けれど確かに——その生命を終えたのだろう。
自然の摂理のひとつとして。
あるいは、彼女自らが選んだ結末として。
渉はひとつ息を吐いて、幹のそばにしゃがみ込んだ。
手袋越しに触れた木肌は、もう微かなぬくもりしか残していなかった。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
取り出して画面を見ると、そこには【柳教授】の名が表示されていた。
「……はい。集音路です」
『集音路くん。桜、倒れてしまったようですね。君は大丈夫ですか?』
教授の声は、思ったよりも穏やかだった。
その声に、渉の心も少しだけ緩む。
「はい。僕は無事です。……ただ、桜は……」
言いかけた言葉の先を、教授は静かに受け取った。
『そうでしたか……それは、とても残念でしたね』
電話の向こうで、わずかに息を呑む気配があった。
教授は、千年桜に深い思いを抱いていたのだろうか。
けれど、それを表には出さず、落ち着いた口調で言葉を続けた。
『ニュースで映像を見ました。あの樹が、あんなふうに……。でも、君が現場にいてくれてよかった。誰よりも桜のそばにいた君なら、きっと、その最後を……』
「……ええ。見届けました。僕なりに、ですが」
そう答えながら、倒木の根元に目をやった。
そこでは、まだ若い芽が風に揺れていた。
「……本当は、もう少しここにいたいと思ったんです。でも、今日の夕方には戻ります。来年——また、来ますから」
その言葉に、電話の向こうで教授がふっと笑う気配を感じた。
『分かりました。気をつけて帰ってきてくださいね。君を待っているのは……桜だけではありませんから』
その冗談めいた言葉に、渉は思わず微笑み返した。
「……ありがとうございます」
通話が切れると、渉はしばらくスマホを見つめたまま立ち尽くした。
耳に残る教授の声が、どこか深い意味を含んでいたように思えた。
風が吹いた。
その風はやさしく、どこか懐かしい香りを運んでくる。
もう一度、空を見上げた。
薄く雲が流れるその空の向こうに、あの夜の花嵐がまだ残っているような気がした。
(柳教授は、もしかして……あの声を知っていたのだろうか)
答えはない。けれど、そう思えてならなかった。
風がもう一度、頬を撫でていった。
*
千年桜の調査を終えたあと、渉は町役場を訪れた。
昨日の騒動の余波はまだ色濃く残っており、庁舎の中では職員たちが慌ただしく動き回っていた。
資料や電話、臨時対応の来客であちこちがごった返している。目の前の風景だけを見れば、ここがあの夜の延長にあるとは思えないほど、現実は静かに次の段階へ進んでいた。
そんな中、霧生蓮司の姿を探していたが、どこにも見当たらなかった。
「……議員室は今朝、片付けられましたよ」
振り返ると、石井が書類を抱えて立っていた。ジャケットは脱がれ、ワイシャツの袖を肘までまくっている。目の下には少しだけ隈が浮いていた。
「霧生議員、今朝早くに辞職願を提出して……そのまま姿を消したそうです。予想はしてましたけど……ただ、妙な話がひとつ」
渉が視線を向けると、石井は一歩こちらに近づいて声を落とす。
「昨日、あれだけの重機が動いたのに、発注記録がどこにも残ってないんです。町の正式な許可も、書類も、何も出てこない。使用された業者の名前も不明。……おかしいでしょう?」
「まるで、最初から足跡を残さないよう仕組まれていたみたいですね」と、渉が言うと、石井は小さく頷いた。
「私もそう思ってます。まるで何か“外”の力が働いてたみたいに……。ただ、町でこれ以上は追えそうにない。……残念ですが」
渉は黙ってしばらく立ち尽くしていた。
やがて思い出したように尋ねる。
「霧生さんと一緒にいた、朝霧結奈さんという女性。あの人のこと、何か分かりますか?」
石井は眉をひそめた。
「朝霧……結奈? どなたです?」
「黒髪で、若い女性です。昨日の現場にもいたはずです。霧生さんのそばに……」
石井は首を傾げ、そしてゆっくりと首を振った。
「申し訳ないけど、そういう名前の人物は記録にありませんね。町役場の名簿にも、関係団体の登録にも……いないです」
返されたその言葉に、渉は言い返すこともできず、ただ目を伏せた。
結奈の姿も、名前も、存在ごと――すでにこの町から消えている。
確かに一緒にいたはずなのに。その声を聞き、その目を見たはずなのに。
まるで幻だったような現実が、ただ一人、自分の中だけに残されていることに、胸の奥が静かにざわめいた。
……それは紗久夜も同じだった。
あの夜、あの光の中で彼女は姿を消し、それ以来、町の誰もが彼女のことを忘れていた。
彼女の名も、姿も、言葉さえも、まるで最初から存在しなかったかのように。
けれど——渉は覚えていた。
春の夜の声、桜の木の下で交わした言葉。あの瞳と、微笑みと、そして口づけの温もりを。
そしてもう一人、彼女を忘れずにいた者がいた。
白川神社の白川葉。
「忘れてはいけないものもある」と呟いた彼の言葉が、今も渉の胸の奥で微かに響いている。
記憶のなかでしか出会えない人がいる。
それでも——その記憶は確かに、生きている。
窓の向こうに目をやると、庁舎の敷地に広がる空が、どこまでも澄みきっていた。
高く抜けた青のなかに、小さな雲がいくつか浮かんでいる。風に流れる様子はのんびりとしていて、春の名残を留めながらも、どこか初夏の気配を孕んでいた。
窓枠の隙間から吹き込む風が、ふと渉の頬をかすめた。
空調の風とは違う、自然の気配を含んだ匂い——土と新芽の香りがほんのりと混ざっている。
四月上旬。暦の上ではまだ春のはずなのに、空の色も、空気の感触も、少しずつ次の季節へと歩みを進めていた。
季節は確かに先へ進んでいる。
その当たり前の変化が、なぜか今はとても遠く、そして少しだけ優しかった。
*
役所を出ると、日がすっかり傾いていた。
街灯が点りはじめ、細い通りに夕暮れの影が長く伸びている。
まだ仕事の余韻が残る町の空気は、静かで、どこか落ち着いていた。
歩道脇の植え込みでは、控えめに咲きはじめたチューリップやパンジーが、春の光を小さく受け止めている。
駅へ向かう途中、渉は足を止めて、丘のほうを振り返った。
あの千年桜が立っていた場所は、今はもう見えない。けれど、そこにあった“何か”の気配は、確かに胸の奥に残っている気がした。
少し肌寒くなった風が、コートの裾を揺らす。
季節の終わりを告げるような風だ。だがその中に、春の名残と次の春への予感が微かに混じっていた。
改札のある駅舎の灯りが見えてくる。
渉はまっすぐその中へと歩を進めた——。
桜野駅の小さな待合室でベンチに腰を下ろして東京へ戻る列車を待っていた。
空はすっかり茜に染まり、町を囲む山の端が静かに濃い影を落としていた。
風はまだ少し冷たかったが、春の匂いを含んでいて、日暮れ前の光がホームの床を斜めに照らしていく。
改札を抜けようとしたその時、ふと視界の端に、駆けてくる人影が見えた。
「……間に合ったぁ」
息を弾ませて、コートの襟を立てた石井が、ほっと胸をなでおろすように立ち止まる。
両手はポケットに突っ込んだままで、風に肩をすくめながら、ほんの少し肌寒そうにしていた。
けれど、その表情はどこか気さくで、親しみを込めた、いつも通りの笑顔だった。
「集音路さん、色々とありがとうございました。これで……今年の春も、終わりですね」
渉は、何か言葉を返そうとしたが、うまく言葉が見つからなかった。
その沈黙の中で、石井がふっと目を細め、遠くを見るようにしてぽつりと呟いた。
「……あの桜は、きっと、ずっと誰かを待っていたんでしょうね」
その一言が、渉の胸の奥に不意に触れた。
まるで、石井も何かを感じ取っていたようで——けれど、それ以上は訊けなかった。訊かないほうがいい、そんな気がした。
代わりに石井は、いつもの口調で、少し照れたように笑った。
「来年は……もう少しゆっくりしていってください。桜も、町も、集音路さんのこと……待ってますから」
その言葉に、渉は思わず笑みを返した。
「ええ。また、必ず来ます」
石井はポケットの中から、小さな透明の包みを取り出した。
淡い桜色の飴玉が、夕陽に照らされてほのかに光る。
「これ、うちの町じゃけっこう人気なんですよ。旅のお供にどうぞ」
気取らず手渡してくれたその姿が、なんだかこの町の春の空気そのもののように思えた。
改札を抜けて振り返ると、石井はホームの縁に立ち、ひとつ手を軽く上げていた。
夕陽に背を照らされながら、変わらぬ笑顔のまま、渉を見送っていた。
やがて列車がゆっくりと動き出す。
町の家並みが流れ、丘の向こうにある桜の木々が遠ざかっていく。
春の終わりを運ぶような、優しいスピードだった。
窓の外を眺めながら、渉はそっと手のひらを見下ろす。
あの夜、紗久夜が触れた所——そこには今も、淡く痣のような跡が残っていた。
その手の上に、どこから紛れ込んだのか、一枚の桜の花びらが、ふわりと落ちた。
車窓の外では、風に乗った花びらたちが、名残惜しげに並走しながら、列車を追いかけている。
その瞬間、耳の奥で、あの声が微かに囁いた。
『いつかまた……愛しき人よ』
花びらを指先でそっと摘み上げ、もう一度、掌の痣を見つめる。
やがて列車は、春の町を離れ、速度を上げていく。
けれど心のどこかに、やわらかな温もりが残っていた。
ふいに渉の胸に浮かんだのは、まだ来ていない春の風景だった。
来年の春、もう一度、あの丘に立つ自分。
あの声が、もっとはっきりと聞こえる春。
その未来が、不思議と確かに、そこにあるような気がした。