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集音路渉 花守り日誌【毎金更新中】  作者: つきや
第一章 千年桜

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第五話 呼ばれる者たち

 午後四時をまわった桜野町は、すでに山影が町の端を濃く染め始めていた。


 片桐の家を出た渉は、なだらかな坂を下りながら再び千年桜のある小高い丘を目指していた。舗装はされているが、車一台通るのがやっとの細い農道。その脇に広がるのは、耕された畑と、静かな民家の影。そして、その先に、ぽつんと姿を現す一本の巨木。


 風に枝を揺らす音が、ひときわ際立って聞こえてくる。


 千年桜の蕾は固いままだ。周囲を彩るソメイヨシノが満開を迎えている中、その一本だけが時間を止めたように沈黙している。


 道すがら、渉は片桐の言葉を思い返していた。


 ——封印樹、そして精霊の記述。

 

 片桐家に伝わる古文書には、白川神社にも残されていない記録だった。


 何世代にもわたって守られてきた記述は、彼女が語る通りなら、千年桜がただの古木でない可能性を強く裏づけている。


 渉はポケットの中で折り畳んだメモを指先で探った。片桐の家で取った走り書き。そこには“封印”という言葉とともに、“災厄”や“共鳴”といった断片的な語句が並んでいる。


 「……ただの伝承で片づけるには、残りすぎてる」


 ぽつりと呟いた声は、春の夕風にすぐ消えていった。


 やがて丘の上にたどり着き、桜の前で足を止める。


 観光客の姿はもうまばらだった。日が傾き、写真撮影のピークは過ぎたのだろう。風に乗って、ソメイヨシノの花びらが舞っている。


 しかし、中心に立つ千年桜だけが、沈黙したままその花を拒んでいた。


 その異様さは、何度見ても消えることはなかった。


 桜を見上げながら、ふとスマホを取り出した。画面には、先ほど撮影した写真が映る。蕾は堅く閉じたまま、枯れているわけではない。けれど、咲く気配も感じられない。


 そのときだった。


 後方、山側の獣道のほうで小さな物音がした。踏みしめる音、枝を払う気配。渉は首をめぐらせたが、誰の姿も見えなかった。


 「……誰か、いるのか?」


 返事はなかった。だが、胸の奥にかすかな緊張が芽生える。


 再び桜に目を向けた。古文書の“封印樹”という言葉が、頭のなかでじわりと輪郭を浮かび上がらせる。


 この場所に何かがある。

 そう確信するには、もう十分すぎる材料が揃っていた。


 そのとき、不意に背後から風が抜けた。

 振り向くと、いつのまにか、そこに紗久夜が立っていた。


 淡い桜色のワンピースに身を包み、陽の傾きかけた空の下で、その姿はまるで幻のようだった。夕陽に照らされた栗色の髪が風に揺れ、目元にはどこか遠くを見つめるような影が差している。


 「……紗久夜さん?」


 声をかけると、彼女は静かに歩み寄ってきた。地面の落ち葉を踏む音すら立てず、まるで足元が風そのもののようだった。


 「ここに……来なければならない気がして」


 紗久夜はそう呟き、渉の隣に立つ。そして、ゆっくりと千年桜を見上げた。


 言葉はそれだけだったが、不思議と渉の胸にはすっと沁み込んだ。

 誰に向けられたわけでもないその声が、自分のなかの何かと共鳴するようだった。

 隣に立つ彼女の存在が、静かに心を満たしていく。


 二人の視線の先——その枝の先端に。


 ひとひらの花が、そっと咲いていた。

 それは他のどの枝にも見られなかった、たった一輪の花。

 淡い、けれど鮮明な桃色が、灰色の空気の中に浮かび上がるように咲いていた。


 「……咲いてる」


 渉は思わず言葉を漏らした。

 周囲のソメイヨシノの喧騒とは別の、静謐な“始まり”のような気配が、その一輪から放たれていた。


 紗久夜は一歩、桜のほうに歩み出た。表情は淡く、けれどその目には、微かな震えが宿っていた。


 「この桜……やっぱり、見たことがある気がするんです。昔……夢の中か、遠い記憶かはわからない。でも——」


 その呟きに、渉はそっと横顔を見やった。

 目を伏せる表情に、一瞬ふれる迷いのようなもの。

 けれどその迷いすらも、美しく思えた。

 心の奥で、懐かしさとは違う、もっと柔らかくてあたたかいものが芽生えていく。


 彼女の指先が、そっとその一輪を指し示す。


 「……ここで誰かと、約束したような……そんな気がして」


 渉の胸が、わずかに痛んだ。

 理由のわからない痛み。

 それは過去の誰かの記憶なのか、自分自身の感情なのかも分からなかったが、彼女の“誰か”に、自分でありたいと思ってしまった。

 そんな衝動に、渉自身が戸惑った。


 夕風が、ふわりと吹き抜けた。


 枝が揺れ、その一輪の花びらがふるりと震える。


 渉は言葉を失い、ただその光景を見つめていた。

 紗久夜の言葉、片桐の文献、咲かない桜、呼ばれる記憶。

 それらが一本の線になろうとしているような感覚が、胸をかすめた。


 桜の下に立つ紗久夜の横顔を、渉は横目に見つめた。


 ほんのわずかな距離。けれど、何も言わなくても通じるような静けさがあった。

 この沈黙が、なぜか心地よい。

 そばにいるだけで、満たされるような感覚――そんなものを、渉は初めて感じていた。


 どこか懐かしい——それでいて説明のつかない既視感。

 彼女の姿と、昨夜、自分が見た夢の中の光景が重なっていく。

 そして——あの夢に現れた、ひとりの女性。


 「……実は、昨日の夜、夢を見たんです」


 ぽつりと渉は呟いた。

 紗久夜がそっと視線を向ける。風が止み、一瞬、音のない時が訪れる。


 「夢の中で、どこかの庭にいたんです。古い屋敷のような場所でした。……そして、そこには、一人の女性がいました」


 「……どんな人ですか?」


 渉は言葉を選ぶように一度黙る。

 “似ている”と、喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。

 自分でもその確信が持てない。だが、軽々しく口にしていいものでもない——そんな予感があった。


 「……名前も、顔もはっきりしません。でも、強く覚えているんです。その人が……悲しそうに、桜の花を見上げていたことだけは」


 紗久夜は黙っていた。視線は千年桜に向けられたまま。


 渉も黙ったまま、隣に立つ彼女の沈黙を受け取る。

 二人の間に風が通り抜け、いくつかの花びらが足元をかすめていった。

 そのとき、不意に、風に煽られた花びらを払おうとした渉の手と、同じように手を伸ばした紗久夜の指先が、ふと触れた。

 

 ほんの一瞬、指の背がかすかに触れるだけ。

 けれど、その瞬間、胸の奥で何かがふるりと揺れた。


 お互い、はっとして顔を上げる。

 目が合う。

 けれど、どちらも言葉にはしなかった。

 ただ静かに、手を引き、何事もなかったように桜のほうへと視線を戻す。


 そのとき、紗久夜がふっと微笑んだ気がした。

 小さな、けれど確かに渉へ向けられた微笑みだった。

 それは言葉よりもやわらかく、“ここにいること”を、渉とともに受け入れたという、ささやかなしるしに思えた。


 鼓動が、わずかに速くなる。

 その理由を問いかけることもできず、ただ桜を見上げるふりをした。


 そのときだった。

 ふいに、どこからともなく言葉が胸の内に流れ込んでくる。

 耳ではなく、心の奥へ直接触れるような声。

 それは紗久夜のものか、それとも桜のものか――判別できなかった。けれど、確かに“伝わった”。


『――やっと、会えた。――私はここに、います』


 声は一瞬で消えた。

 まるで風が通り過ぎたあとの余韻のように、心にだけ花びらを残して。


 渉は息をひそめた。

 今のは、幻覚か、記憶か、それとも……。

 けれど言葉を探すより先に、視線の端に映る紗久夜の横顔が、静かに桜を見つめ続けていた。

 

 渉もまた桜を見上げ、胸の奥に残る“声の余韻”を抱えていた。

 風が再び枝を揺らし、花びらが渉の肩に落ちる。

 その瞬間だった。


 ざわり——。

 

 音にはならない何かが、頭の奥でひらめいた。

 いや、ちがう。それは“音”ではなく、“意味”そのものだった。

 

『封印……』

『護れ……精霊……砕かれる』

『まだ早い……危ない……目覚めさせるな』

『囮……おとり……その者は……』

『樹……繋がっている……裂ける』

 

 いくつもの“声”が、一斉に渉の思考へ流れ込んでくる。

 声というよりは、“記憶”が伝染するようだった。


 思わず足をふらつかせ、紗久夜の隣で膝をついた。

 

 光の残る空の下、千年桜の周囲に立ち並ぶソメイヨシノたち。

 その一本一本がまるで意志を持ったかのように、枝を揺らしていた。

 同じ風なのに、そこに宿る“重さ”が違う。


 あたかも——語らねばならぬ記憶を、託されているかのようだった。

 渉は両手で顔を押さえ、懸命に言葉を整理しようとした。

 けれどそれは“言語”ではなく、“根に触れるような何か”だった。


 膝をついたまま、額に手を当てていた。

 一気に押し寄せた“言葉にならない意味”が、まだ胸の奥でざわめいている。

 息を整えようとするが、耳鳴りのように「封印」「囮」「精霊」といった断片が消えずに残る。

 

 そのとき、肩にそっと手が置かれた。

 細くて、やわらかな手。

 けれど、不思議なほどに温かく、深く——どこか懐かしい。


「……大丈夫ですか?」

 

 紗久夜の声だった。

 渉は顔を上げる。

 その瞬間、ふたたび何かが通り抜けた。


 ——渉に宿り始めた“気配”が、紗久夜の中へも流れ込んでいったのか、微かに、彼女の瞳が揺れた。

 

 彼女の感情が渉にも流れてくる。

 足元の土を伝って、風を越え、木々を渡って、何かが彼女の意識に触れたのだ。

 景色が歪んでいく。

 

 ——咲かない桜。

 ——立ち並ぶソメイヨシノの声。

 ——繰り返される春。

 ——年々遅れる開花。

 ——冷たい何かが、根に触れていた。


「……あ……っ……」

 

 紗久夜が小さく呻くように息を呑む。


 まぶたの裏に浮かんだのは、数年前の春の記憶。

 開花直前だった千年桜に、何者かが“何か”を施す気配。

 それは“呪”のようでもあり、“封”のようでもあった。

 無機質な“人の手”が、桜の根元に触れていた。

 それ以来——千年桜の開花は、春の季節からほんの少しずつずれていった。

 

 私は……この桜とともに、ここにいた。

 私は——。


 紗久夜の目が細く揺れる。

 息が浅くなり、手がかすかに震える。

 けれど、彼女は手を離さなかった。

 

 「……私、思い出し……かけてる……」


 その声は震えていたが、どこか確信に満ちていた。


 「この桜に、何かが……仕掛けられてた……あの春から、ずっと……」


 紗久夜がふと柵の向こうにある千年桜を見つめた。

 何かに導かれるように、静かに歩き出す。


 渉が思わず声をかけかけるが、言葉にはならなかった。

 紗久夜の背中には、どこか祈るような気配が宿っていたからだ。


 彼女は柵の前で立ち止まり、手をかける。

 軽く息を吸い、静かに越える。


 土を踏みしめる音。

 そして幹へと向かう足取りには、迷いがなかった。

 

 渉の手から、紗久夜の手が離れた。

 けれど、その瞬間も、途切れた感覚はなかった。

 “共鳴”は続いている。

 目の奥、胸の奥、何かがふるふると揺れながら彼女と繋がっている。


 幹に手が触れた。

 そのとたん、世界が震えた。

 視界が白く染まり、意識の深いところに波紋が広がっていく。

 紗久夜の中に、渉の中に、そして千年桜自身の中に、言葉にならない叫びが満ちた。

 

 ——私は“鍵”のひとつにすぎない。

 ——真に封じられた“もの”は、別の場所。

 ——けれど、その“場所”すら、私にはもう見えない。

 ——各地に散らばる、いくつかの“鍵”の樹。

 ——そのすべてが揃ったとき、扉は開かれる。

 ——開かれれば、精霊にとって最も大切な“なにか”が戻る。

 ——それは希望か、それとも——災いか。

 ——だが、何者かが“逆”を選んだ。

 ——この桜を、枯らすことで封をこじ開けようとしている。

 ——意志なき木の死は、扉を暴き、光も闇も等しく解き放つ。

 ——止めて。

 

 ——まだ間に合う。

 ——このままでは——。


「……っ」

 

 紗久夜が幹に額を預ける。

 まぶたを強く閉じ、震える息を漏らす。


 渉もまた、立っているのがやっとだった。

 身体の芯が焼かれるような感覚。

 見たことのない森、地図にない場所、遠くに響く名もなき歌。


 一度に押し寄せた情報の渦。ただ呼吸をすることしかできなかった。

 やがて、紗久夜が幹からそっと手を離した。


 振り返った彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。

 けれどそれは悲しみではなく、長い夢から目覚めたあとのような、静かな光を帯びていた。


 彼女が目を閉じると、桜の幹が淡く光り出す。

 髪が風に浮かび、衣が揺れる。

 渉は動けず、ただその姿を見つめていた。

 桜の精霊――それが、今まさにこの世に戻ってきた瞬間だった。


 まず一輪、枝の高いところで花が咲いた。

 それに応じるように、ふたつ、みっつ。

 そして一斉に、満開の波が音もなく木を駆け上がっていく。

 空を覆うように、咲いていく。

 千年桜が、目覚めた。

 渉は胸が熱くなるのを感じた。

 

「これが……本当の姿……」


 壮大な枝垂れ、淡いピンク色の滝のような姿。

 息を呑む美しさに言葉を失った。


 だがその瞬間、遠くで不穏な気配が空気を裂いた。

 鳥が飛び立ち、風が変わる。

 

 紗久夜が顔を上げ、渉が振り返る。


「……来た」


 紗久夜の声は低く、震えていた。


 斜面の上の道から、スーツ姿の男女がゆっくりとこちらへ歩いてくるのが見えた。

 銀灰色のネクタイを締めた男と、洗練された身なりの若い女性――。


 男の顔には見覚えがない。

 鋭く整った目元に、抑えられた威圧感を感じる。おそらく、どこか上層部の人間だろう。

 渉は直感的に、ただ者ではないと思った。


 しかし、隣に立つ女性の姿には見覚えがあった。

 涼しげな目元に、落ち着いた物腰。白いブラウスの襟元から覗く控えめなペンダント。


 (……朝霧結奈?)


 大学時代、同じゼミに所属していた同期だった。

 それほど深い交流はなかったが、彼女は常に優秀で、誰よりも冷静だった印象がある。

 けれど、今の彼女の表情には、当時よりもさらに冷たい影が差していた。


「なるほど、これは見事だ。本当に精霊がいるとは」


 男が、皮肉とも賞賛ともとれる声色で口を開いた。


 「……朝霧、さん……?」


 渉は思わず問いかけた。だが、彼女は答えない。ただまっすぐに視線を向けてくる。記憶の中の彼女とはどこか違う、冷たい何かがその目に宿っていた。


「どうして……君がここに?」


 その声に答えたのは、彼女ではなく、隣の男だった。


「おや? 知り合いだったんですね。奇遇だなあ」


 男は、ゆっくりと渉たちに近づきながら、口元だけで笑う。


「私は霧生蓮司(きりゅうれんじ)。桜野町の議員です。町のためにね、こうした“文化資産”の調査にも積極的に関わらせてもらっているんですよ」


 一見、穏やかな言葉だったが、その背後にある「思惑」は言葉以上に明瞭だった。


「この千年桜は、封印伝説だの、悲恋伝説だの、何かと語り草が多いですから。開花が遅れているのも、まあ……演出次第では、ちょっとした神秘として観光資源になる」


「演出……?」


「ええ、町の経済には物語が必要なんですよ。伝説があって、桜があって、春が来るたびに人が集まる。素晴らしいことじゃないですか」


 霧生は楽しそうに語っていた。まるで、渉たちが目にしているこの光景すら、自分の台本どおりに進行しているかのような口ぶりだ。


 そう言って霧生が軽く顎を上げた先には、まだ桜の幹のそばに立ち尽くす紗久夜の姿があった。


「……それにしても見事だ」


 その声色には、感嘆というよりも、評価する者の視点が混じっていた。


「まさか、伝承に出てくる“桜の精霊”というのが、本当に存在したとは。いや、これには驚きました。君も驚いているでしょう、()()()くん」


 霧生は笑いながら渉の肩を軽く叩く。だがその手に込められた空気は、どこか重く、ずれている。


「これならもっと大胆に仕掛けられる。伝説をなぞるだけじゃなく、本物の“精霊”が現れる町――これは大きな観光資源になりますよ。桜まつりも見直す必要があるな。町としても、しっかり対応を——」


「……観光資源?」


 渉の口から、思わず声が漏れた。


 霧生は気づかぬふりをして続けた。


「もちろん、きちんと保護はしますよ。精霊という存在が実際に確認されたのなら、それこそ文化財保護の対象ですし。町の伝統として、丁寧に扱えば、全国から、いや世界から注目されるでしょう。うん、それにしても素晴らしい……神話が現実になったようだ」


 そのとき、紗久夜がわずかに身じろぎした。霧生の視線はまるで彼女を「演者」か「展示物」のように値踏みしている。

 

 男の目は笑っていたが、その奥にある冷たさは隠しようもなかった。

 結奈は一歩後ろに控え、タブレットのような端末を操作しながら、千年桜をじっと見上げている。


「やはり反応しています。精霊がここまで活性化するとは……これは予想以上です」


 結奈の説明に霧生が目を細めた。


「朝霧さん、君は一体、何をしたんだ?」


 結奈がそっと前へ出た。

 その瞳は渉ではなく、紗久夜をまっすぐに見据えている。


「大人しく協力してください。……貴女が完全に覚醒する前に、こちらで制御下に置く必要があるんです」


 紗久夜の体がかすかに震えた。


「やめてください」


 渉が思わず前に出た。


「彼女は、誰かの道具じゃない」


 霧生が鼻先で笑った。


「君に何がわかる。――これは人類の未来のためだ。精霊の力は、もはや神話ではない。測定可能な、現実の“資源”なんだよ」


 渉の胸に、怒りと戸惑いが入り混じった感情が込み上げてくる。

 手のひらがかすかに熱を帯びていた。

 

(この人たちは……何かを、根本的に間違えてる)


 結奈が、静かに手を上げる。


「彼女を確保します。接触は最小限に」


 そのとき、紗久夜の手が渉の袖をきゅっと掴んだ。

 渉が小さく頷き、紗久夜の前へと立ちはだかった。


「彼女には……触れさせません」


 渉は迷うことなく、紗久夜の手を強く握った。


「行こう!」


 その瞬間、あたりに風が走った。ざわりと枝が揺れ、ソメイヨシノたちの花びらが一斉に舞い上がる。花弁は渦を巻き、二人の姿を包み込んだ。


「なっ……!」


 後方から、霧生と結奈の驚いた声が上がる。


 風に乗って、渉の耳に言葉が届く。


『ちがう』

『彼らではない』

『さわるな』

『まもれ』


 低く、澄んだ複数の声――どこか懐かしく、胸に沁み入るように聞こえる。

 混乱したまま、ただ紗久夜の手を離さないように走り出す。


 地面を蹴るたびに、足元で花びらが弾けるように舞う。小道も、柵も、すべてが霞んで見えない。逃げ道は……どこだ。


「くそ、どこに……!」


 声を上げた渉の手の中で、紗久夜の指がふっと力を失う。


「……っ!?」


 振り返ると、紗久夜が立ち止まり、静かに手をほどこうとしていた。


「どうして……?」


 渉が問いかけるよりも先に、紗久夜が微笑んだ。


「もう少し……あなたは、先に進んで」


 その笑みは、どこか哀しく、でも決意に満ちていた。


「駄目だ、行こう、一緒に!」


 必死に手を引こうとする渉。だがその瞬間、さらに強い風が吹きつけ、二人の間に舞い上がった桜の花嵐が視界を遮る。


 そして――その中で、紗久夜の姿が、ふっとかき消えた。


「さくやっ――!!」


 渉の叫びは、花びらの嵐に吸い込まれるように消えていった。


 風が、すっと止んだ。


 数人の人影が現れる。

 白衣を着た者、スーツ姿、黒づくめの作業服。

 彼らの背後には、機材を積んだ車両。


 音を失ったような静寂の中、渉は荒く息を吐きながら周囲を見回した。


 ……そこは、さきほどまでと同じはずの千年桜の丘だった。


 けれど、異様だった。


 「あの木を……千年桜を切るつもりなのか?」


 渉の喉が凍りつく。


 千年桜を取り囲むように、無数の金属の巨体――重機や伐採機材、クレーン車や切断アームが並んでいた。どれも無骨で、鈍く光る鉄の塊。その先端が、まるで獲物を狙う獣のように千年桜を取り囲んでいる。


「何だ……これ……」


 呆然と立ち尽くす渉の視線の先、千年桜の根元に――紗久夜がいた。


 さっきまで花嵐の中にいたはずの彼女は、今は静かに、桜の幹の前に立っていた。まるで、樹を庇うように。


「やめろっ……! 誰がこんなことを指示したんだ!!」


 叫び声が響いた。振り返ると、斜面の上から霧生が、唖然としたように機材へ向かって怒鳴っている。


 「バカか!? この桜は町の象徴だぞ! これを壊して何が残るっていうんだ!」


 怒りとも焦りともつかない声に、それでも作業員たちが戸惑いの色を見せことはなかった。


 その隣で、結奈が静かにタブレットを操作していた。

 冷ややかな眼差しで現場を見下ろし、わずかに霧生へと目を向ける。


「……遅すぎたんですよ、霧生さん。これはもう、観光資源ではなくなった。精霊の覚醒が確認された今、封印を解除する手段を取るしかありません」


「なにを……言って……」


 霧生の声がかすれる。


 結奈は一歩、前へ出た。すでにその瞳には、千年桜の美しさに対する感動など微塵もない。


「この樹の“真価”は、その内部にある情報と力です。伐採は最終手段ですが、今はそれを行うべき時期です。……精霊の力が暴走する前に」


 渉は、その場の空気が一気に冷え込んだように感じた。


 誰も動かない機材群。そのすべてが、次の命令を待っている。


 渉は無意識に紗久夜へと駆け寄る。

 そして、彼女の隣に立った。


「ここは、僕が守る」


 静かな、しかし明確な意志のこもった声だった。


 隣で紗久夜がゆっくりと顔を上げる。その目には恐れも戸惑いもなく、ただひたすらに強く、桜を見上げる意志があった。


 渉はそっと彼女の肩に手を置いた。


 金属が軋む音が響いた。


 どこかで起動音。重機が低いうなりをあげ、クレーンアームが空に向かってゆっくりと動き出す。


 地面が震える。機械の足が大地を踏みしめ、千年桜へと近づいてくる。


 その瞬間だった。


 ――風が、吹いた。


 またしても花嵐。


 それはまるで、誰かがこの場を拒むかのように、鋭く、激しく吹きすさぶ嵐だった。


 桜の花びらが暴風に乗って舞い上がり、視界を覆い尽くす。機材の計器が狂い、作業員たちが次々と声を上げて退避を始める。


 だが、ただ一か所だけ。


 千年桜の根元、そこに立つ渉と紗久夜の周囲だけには、風はなかった。


 不思議な静けさが二人を包んでいた。


 淡い桜の花が、ふわりと彼らの周囲を舞い、まるで時の流れが止まったかのようだった。


 紗久夜が静かに口を開いた。


「……この桜は、“封印樹”ではありません」


 彼女の声は、風のざわめきにも、機械の轟音にもかき消されなかった。


「この樹は、“守り手”なの。真の封印樹を、遠く離れた場所で守るために……ここに在り続けていた」


 渉は、彼女の言葉を胸の奥で受け取るように聞いていた。


「悲恋の話……封印伝説……全部、作り話だと思われてきた。でも、それは本当のことだったの」


 紗久夜の瞳が、どこか遠くを見つめるように揺れる。


「私は……待っていたの。あなたに、再び出会える日を。長い時を越えて、何度も季節が巡って……それでも、ずっと」


 その言葉に、渉の心が震えた。


 言葉にならない何かが胸に溢れた。


 渉は、そっと彼女の手を握る。


 紗久夜も、静かに微笑んだ。


 ――そして、二人は、そっと口づけを交わした。

 それは短く、けれど永遠にも似た、静かな交わりだった。


 その刹那。


 千年桜の幹に、かすかなひびが走った。


 音もなく、静かに、その大きな体を傾けていく。


 ――ごう、と風が泣いた。


 花びらが、吹雪のように舞い上がる。


 幹が、枝が、音もなく崩れていく。


 倒れた千年桜の姿を、誰もが呆然と見守っていた。


 ……そして、紗久夜の姿は、そこにはなかった。


 渉は静かに、立ち尽くしていた。


 花びらがひとひら、肩に落ちる。


 そっとそれに触れた指先に、微かな温もりが残っていた。


 渉は目を閉じた。


 確信があった。


 ――彼女は、完全に消えたわけではない。


 今もどこかで、風に、花に、そっと寄り添っていると。

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