第五話 波動測定
翌朝。
観測庭へ向かう前に研究室での準備の途中、柳教授の携帯が鳴った。
短い応対のあと、教授は申し訳なさそうに渉たちへ振り返る。
「すみません。植物庁から緊急の連絡が入りましてね……。精霊波動の周期に微小ノイズが検出されたようです。私も至急、東京で打ち合わせをする必要があるようです」
渉と颯汰は顔を見合わせた。
「教授、ノイズって……危険なんですか?」
「現段階ではただの乱れです。しかし放置すれば、自然災害や局地的暴走の前兆となり得ます。かつての大災厄の前にも、似たような予兆があったと記録されていましてね」
柳教授はそこまで言うと、不安を打ち消すように柔らかく微笑んだ。
「観測庭での測定は予定通り続行してください。寺角教授もおられますし、月魄くんもいます。ただ交流会の残りの日程までには戻れないと思うので、東京で皆さんの帰りを待っています」
フウが心配そうに袖をつまむ。
「柳博士、だいじょうぶ?」
「大丈夫ですよ、フウ。向こうもただ状況を確認したいだけでしょう。それから、フウ。二人を頼みましたよ」
「渉と颯汰? うん、任せて!」
教授は頭を軽く下げ、コートを羽織って部屋を出ていった。
ドアが閉まると、研究室の空気がわずかにざわめき、機器の表示が一瞬だけ微細に揺れた。
颯汰がぽつりと呟く。
「精霊波動のノイズ……雪幻桃の調査にも関係あるのかな」
「まだ分からないけど……教授が動くってことは、きっと大事なんだろうね」
不安を胸に抱えつつ、渉たちは観測庭へ向かうため外に出た。
山から風が吹き下ろしてくる。
その風はどこか渉の心を落ち着かせ、同時に見えない何かが呼んでいる気配を残した。
*
立ち込める霧の中を切り裂くように、細い山道を進む。
渉たちは大学裏の山の奥――精霊波動の観測拠点《観測庭》へ案内された。
徐々に霧が晴れゆく中、彼らの目の前に立っていたのは、金紅に染まる一本の巨樹――古都大学が代々守ってきたという《古都紅葉》だ。静寂な中に佇む姿は、それだけで別世界のようだった。
自然と身が引き締まる。隣にいた颯汰と顔を見合わせ「凄いな」と目で合図しあった。
古都紅葉、枝先まで真紅に染まったその姿は、まるで秋そのものの心臓。
周囲の木々が静かにひれ伏すよう枝を垂れている。
「……ここが、紅葉精霊の座標域。つまり古都紅葉が精霊界と繋がる地です」
楓の穏やかな声が響く。風がその言葉に呼応するようにざわりと動いた。
精霊、そして精霊界。
御伽噺だと思われていた言葉の数々が、いま目の前に現実として存在している。
不意に渉の頬を撫でた風は、どこか温かく、懐かしい匂いを含んでいる。
耳の奥で、『――覚えているか』と問われた気がした。
誰のものでもない声が、微かに囁いた。
その感覚を振り払うように、寺角教授が説明を始めた。
「私と楓くんの研究は、この古都紅葉を中心に、精霊波動を観測しています。精霊や植物は微弱な波動を発しており、それを測定することで植物の健康状態や精霊活動の傾向を読み取ることができるのです」
渉は思わず小さく呟いた。
「精霊の動きを波動から読み取る……」
寺角教授は「ええそうです」と頷いた。
「その波動を可視化し、波形が乱れれば、天災や暴走の予兆にもなります。逆に安定化させる技術も研究しとるんです。……まあ、人間が手ぇ出す以上、倫理が問われる分野ですがね。自然の意思を、人間の都合で書き換えてええのか……常に自問自答の日々ですわ」
昨日の講演会でも話題に出た科学への倫理。言葉は軽いが、その実深い真剣さを滲ませていた。
今から行う実験は、紅葉精霊の座標域における波動共鳴の測定。
紅葉精霊との共鳴反応を確認し、精霊波動の個人差を比較する。
「では、まずは颯汰くんからいきましょうか」
渉は少し身を引き、後輩の背中を見つめた。
颯汰の掌に紅葉の小枝が置かれ、観測器へ接続される。
周囲の空気が静まり、針が緩やかに右へ傾いていく。
赤い葉が光を帯び、颯汰の肩越しに紅の輝きが広がる。
「共鳴値、安定しています。最大値も想定内」
楓の冷静な声が響き、寺角教授が満足げに頷いた。
「さすがですね。精霊加護の影響が明瞭に出ています」
颯汰は少し照れたように笑い、「そんな大袈裟ですよ……」と少し肩をすくめる。
渉はその表情を見て、どこか安心する自分に気づいた。
後輩がこうして特別な血を持っていても、いつも通りの颯汰でいてくれる――それが嬉しかった。
次に、瑠奈が前に出た。
彼女は紅葉の枝を両手で受け取る。
針の動きはわずかで、葉の光も穏やかだった。
風がそっと通り抜け、紅葉が微かに鳴る。
「一般値ですね。予想通りです」
楓の声に、瑠奈がほっと胸をなでおろした。
「よかったぁ、平均値。颯太くんの後にやるの、ちょっとプレッシャーやってん。うち、精霊に関しては『見る側』専門やし、これくらいが一番落ち着きますわ」
「データ的には大事な比較になるよ」
楓がやわらかく風に溶けるように笑う。渉はその笑みに、一瞬、人ではない気配を感じた。
まるで彼だけ、紅葉の木と同じ呼吸をしているようだった。それに測定器の針が静止したとき、空気のどこかがふっと明るくなった気がした。
「じゃあ次は、あたしの番だね!」
明るい声に、場の空気がはじけた。
光の粒が空中に集まり、ふわりとフウの姿が現れる。紅葉の葉をきらきらと見つめ、彼女は両手を差し出した。
「ねえ、あたしもやっていい? 精霊波動でしょ? たぶん、すっごいの出るよ! ――どーんって!」
颯汰が慌てて前に出た。
「フウ、だ、だめだって。装置が壊れるって……」
「んー、フウちゃんは想定外やから、危険かもしれませんなぁ。君は外部干渉そのものみたいな存在やから」
「えー、つまんなーい!」
フウは頬をふくらませ、渉の肩にちょこんと座って足をぶらぶらさせる。
颯汰が苦笑しながらなだめた。
「今度、フウ専用の観測器を用意してもらおう。な?」
「ほんと? 約束だよ!」
渉は思わず笑ってしまう。
紅葉の光の中で、少しだけ張りつめていた空気が緩んだ。
ふと、葉のざわめきが耳の奥に沁みた。
何かが呼んでいる――そんな錯覚を覚えた、その時。
「……渉さんも、やってみませんか?」
楓の声が静かに響いた。
渉は思わず振り返る。
「え、僕?」
「非共鳴体としての比較になるかもしれません」
寺角教授が興味深げに頷いた。
「ぜひ協力してもらえるとありがたいですな。渉くん、お願いできまっしゃろか?」
別に断る理由もない。実験データは多いほど、比較対象になることも理解している。
そんな軽い気持ちで前に進んだ。
紅葉の枝が渉の手に渡る。指先に触れた瞬間、空気が変わった。
観測器の針が、音を立てて振り切れた。
「先生、装置の出力が——計測限界を超えてます! 数値が……これ、バグやないんですか!?」
瑠奈が叫ぶ。モニタには見たこともない黄金の波形が荒れ狂うように描かれていた。
「危なうおす! 離れなはれ!」
寺角が即座に緊急停止キーを叩く。機械が悲鳴を上げ、基盤から焦げたような匂いが微かに漂った。
渉の視界では、光の粒がふわりと舞っていた。脈動――それは確かに、紅葉の呼吸と同期していた。
葉脈の震えが脳に届き、胸の奥に熱が灯る。千年桜の下で感じた温度が、ふっとよみがえる。
――『還るべき枝に、新たな芽が来た。おまえは記憶を継ぐもの』
耳の奥で誰かが囁いた。
呼びかけているのは誰?
樹か、風か――それとも、自分自身?
気づけば、楓がこちらを見つめていた。
その瞳は紅にきらめき、どこまでも深い。
「あなたの中に流れるそれは……まだ眠っている。けれど、古都紅葉は覚えている。精霊王の波動を」
その言葉に、渉は息を呑む。
「……今、なんて?」
「観測の話ですよ」
楓は笑みを浮かべる。その微笑みは穏やかで、どこか遠い。
「あまりに美しい数値だったので、つい見惚れてしまいました」
楓はそう言って、異常なデータが表示されたままのモニタを、事もなげにシャットダウンした。まるで、その数値を他人の目に触れさせないように。
掌にふわりと紅葉が落ち、光が一瞬だけ灯る。その明滅を見つめながら、渉は思った。
――紅葉精霊は確かにここにいる。そしてその呼吸は、楓と……自分とも、繋がっている。
フウが心配そうに、そして何かを確かめるように渉をじっと見つめていた。その瞳の奥には、紅葉の赤とは異なる、深く静かな銀色の輝きが宿っている。
「……渉」
小さな声で名前を呼んだフウの瞳には、渉の背後にある古都紅葉の巨木ではない、「別の時代の樹」が映り込んでいるようだった。
彼女は、あらゆる植物が吸い上げてきた大地の記憶を預かる植物精霊『記憶樹種』。きっと渉が知らない何かを知っている。先ほどの数値の理由も。
フウは何かを言いかけ、けれどキュッと唇を噛んで、渉の首筋に顔を埋めた。
「フウ?」
問いかけても、彼女はただ「……あったかいね、渉」と呟くだけだった。その温もりの中に、自分の記憶にはない、遠い遠い場所のざわめきを感じていた。
次回は来週金曜日更新!




