第四話 もう一つの伝承
神社から石井の運転する車で役場へと着いた。
助手席から降りようとした渉に、石井がちらりと横目を向ける。
「……大丈夫ですか? なんだか、神社からずっと考え込んでるように見えたんで……」
「あ、すみません……ちょっと考え事してました」
渉が笑って答えると、石井は「ならいいんですけど」と頷いたものの、どこか釈然としないような表情のままハンドルに手を置いた。
その後、渉が千年桜へ向かうと言うと、石井はやや食い気味に尋ねてきた。
「本当に車で送らなくても大丈夫ですか? どうせすぐそこですし」
「ありがとうございます。でも、少し歩きたい気分なんです」
「そうですか……無理はしないでくださいね」
石井が名残惜しそうに一度だけ渉を振り返った。
その視線が後ろに残るのを感じながら、渉は歩き始めた。
途中でスマートフォンを手に取る。
ずっと胸の奥で引っかかっていた違和感を、伝えるべき人がいた。
発信ボタンを押すと、数回の呼び出し音のあと、柳教授の落ち着いた声が電話越しに響いた。
「お疲れ様です、集音路くん。どうですか? 桜は咲きましたか?」
「いえ、まだ咲きません。でも……いくつか不思議なことがあって、もう少し調査を続けたいんです」
電話の向こうで教授は一瞬だけ黙った。
けれどすぐに、微笑むような穏やかな声で言った。
「わかりました。君がそう思うなら、納得がいくまで滞在していいですよ。観察者の勘は、時として資料以上に価値があるといいますからね」
その言葉を聞いた瞬間、ふと脳裏に浮かんだのは、あの神社で出会った彼女――紗久夜の姿だった。
ほうきを持つ静かな手つき。風に揺れる髪。迷うように見開いた瞳と、あの問いかけ――「お会いするの、初めてですよね?」
名前も由来も、まるで象徴のように出来すぎていて、それなのに彼女はそこに、当たり前のように存在していた。
まるで、観察ではとらえきれない何かが、あの人には宿っている。そんな気がした。
それでも教授の一言に、胸の奥にあった小さな不安が、すうっとほどけていく。
渉は自然と頭を下げていた。
「ありがとうございます。必ず原因を突き止めてみせます」
電話を切ったあと、静かな午後の風が優しく吹いた。
目の前には、まだ咲かない桜が、沈黙のまま佇んでいるのが見えた。
*
千年桜の丘に続くなだらかな道を歩いていくと、やや湿り気を帯びた空気を感じた。
やがて視界が開け、古い石垣の先に、枝垂桜の巨木が姿を現した。
周囲にある無数のソメイヨシノが花の雲をまとっている。あたりはすっかり春爛漫、風が吹くたびに白と薄紅の花びらがふわりふわりと宙を舞う。
観光客たちが、こぞってスマートフォンやカメラを構えていた。花の下でポーズをとる若い女性、桜を背景に自撮りする外国人、脚立を持参して満開の枝先を狙う中年男性——まるで花の一瞬を捕まえることに、誰もが夢中だった。
その喧噪の中心で、ただ一つ、咲いていない桜があった。
千年桜。
枝先には固く閉じた蕾。咲くことを拒んでいるよう見える。枝でさえ他の桜とはまるで別の時間に属しているかのように、空を切っていた。
渉はゆっくりと立ち止まり、静かに目を細めた。
(……やっぱり、咲いていない)
その異様さに、誰も気づいていない。むしろ、周囲の桜の華やかさに紛れて、千年桜の存在はほとんど背景と化していた。
観光地の写真スポットとして設えられた案内板には「千年桜 つぼみ堅し」と、木札が掛けられている。苦し紛れの表現か、それとも何かを知っている者の手によるものか。
そんなときだった。
視線の端に、ひらりと見覚えのある姿が映った。
昨日の夜——祭りで叫んでいた老婆。
片桐。
観光客の波を避けるように、彼女は丘の奥へと歩いていく。落ち着かない足取り。顔を伏せ、白い頭巾を目深にかぶっていたが、間違いなかった。
渉は反射的に歩を速めた。
(待ってくれ……あの人、何か知ってる)
祭りの混乱、謎めいた叫び、そしてあの言葉。
——「祟りが起きる!」
何を見た? 何を知っている? 渉の中で、昨日から繰り返される疑問が再び脈を打つ。
片桐の背中を見失わぬよう、観光客のあいだを縫うように走り出す。
風が吹いた。ソメイヨシノの花吹雪が、視界を一瞬だけ霞ませた。
その向こうに、女の影がふっと消える——。
渉は満開の桜並木を抜け、雑木林の奥へと視線を向けた。
その中を、白い頭巾をかぶった老婆が歩いていくのが見えた。
祭の夜に「触ってはならん!」と叫んでいた人物。
渉は小走りでその後を追った。
老婆の足取りは意外に早く、曲がりくねった山道の先、古い石段の脇にある一軒家の前でようやく追いつく。
「……あの、片桐さん!」
呼び止めると、老婆は足を止め、ゆっくりと振り返った。
顔には深い皺が刻まれ、黒目がちの瞳は渉を鋭く見つめたが、すぐに薄く微笑んだ。
「……来ると思ったよ。若い者の足は軽いねぇ」
どこか達観したような口調でそう言うと、片桐は軋む引き戸を開け、渉に入るよう手で合図した。
片桐の家の中は薄暗く、土間と畳の居間がある昔ながらの日本家屋だった。囲炉裏はもう使われておらず、代わりに古い石油ストーブが置いてある。
「お茶も何も出せんが、話だけなら付き合おう。……あの桜のことで来たんだろ?」
渉が頷くと、片桐は押入れから古い桐の箱を取り出し、畳の上にそっと置いた。
蓋を開けると、羊皮紙のように変色した文書や巻物、手書きのノートが何冊も収められている。
「これは、白川の家には伝わっておらん。うちは“巫女筋”と呼ばれていたが、神社の表筋とは違う、“裏の伝承”を継ぐ家だった。私は跡を継がなかったけど、物だけは受け継いだのさ」
片桐が手に取った一冊の文書を開き、渉に差し出す。
そこには、達筆とは言い難い、しかし読みやすい字でこう記されていた。
《封印樹——千の世を越えし命の根、深き眠りの封解かるれば、地、裂け、血、流る》
「……これは?」
「精霊が災厄を封じた、“封印樹”だと書いてある。根は深く、命は残り続けている。けれどね、咲いてはならん時に咲くとき、それは“封が揺らいでおる証”ともある」
「でも、千年桜は咲いていないんです」
渉の言葉に、片桐は口元を引き結んだ。
「だからこそ……じゃよ。咲かぬ桜は、兆し。咲かぬことで封が溶けかけているという考え方もあるんじゃ。——昔の書には、“咲きたる時は兆しにあらず、咲かざる時こそ兆し”とある」
「でも、そんな話、村の誰も……白川さんすら知らないようでした」
「そりゃあそうさ。白川は神社の“表”を守る家系。うちは“裏”。元々、二つの流れがあったんじゃよ。精霊と人との約定を書き留めたのは、うちの祖母の祖母——百年、二百年前じゃなかろうかね」
渉は文書を一つ一つめくりながら、浮かんでは消える違和感を覚えた。
語られる内容は、真実を含んでいる。しかし、その解釈や語順が妙にずれている。
まるで誰かが「一度、別の形で読み直したもの」を語っているかのようだった。
「片桐さん、この記録を……あなた自身は信じているんですか?」
しばらく沈黙が流れた。
そして、老婆はゆっくりと首を傾けた。
「信じておるかどうかは、わからん。ただな、私は“覚えている”んだ。これらを読みながら、何かを。……夢のような、遠い記憶のようなものを」
「どんな記憶なんですか?」
「それは!……」
ほんの一瞬、片桐の瞳が揺れた気がした。
「よお覚えとらんのさ。夢かもしれんし、本当にあったことかもしれん。けれど、封印が解ければ、あの娘――桜の精霊もただでは済まん。それだけは、確かじゃ」
渉の背筋がぞくりとした。
桜の精霊——紗久夜。
そのことは、まだ誰にも告げていない。
にもかかわらず、この老婆は紗久夜を桜の精霊だと知っている——それとも偶然か?
「集音路さん、って言ったかね。……人の話というのは、ねじれるものだよ。真実は一つでも、それを語る口は、百ある。……あたしが知ってるのは、そのうちの一つにすぎん」
「でも、それが誰にも知られていない“鍵”かもしれません。だから、守らなきゃいけない」
その言葉に、片桐はふと視線を横にそらした。
「……守る? 違う。今まであたしは、“隠して”きたのさ。ずっと、怖くてね。誰かが読んでしまえば、“開いてしまう”気がして」
「何が……?」
「桜じゃよ。町は、知らぬまま進もうとしておる。祭も、観光も、あれも“封を揺るがす仕掛け”なんじゃ」
そのとき、外の物音に片桐がびくりと反応した。
渉が玄関に向かい、戸を開けると、外には人の気配はない。ただ、しんとした空気のなか、かすかに草を踏むような足跡が山の方へと続いていた。
「きっと奴らだ……」
片桐は、怯えたように両腕を抱えて震えていた。
「奴らって?」
「随分前から、文献を渡せって言っとるんじゃよ。……あれは、簡単に他人に触れさせちゃいかんものなんじゃ……」
老婆は声をひそめた。
「何人か、名を伏せたまま家にやって来た。でも……あの女は違った。ちゃんと名乗ったよ。名刺も、置いていった」
片桐は、簞笥の引き出しから茶封筒を取り出し、その中から名刺を一枚出して渉に差し出した。
――朝霧結奈。植物学コンサルタント。
白地にシンプルな明朝体でそう印刷されていた。控えめながらも洗練されたデザイン。その裏面には、小さく手書きで〈千年桜の土壌情報を共有いただければ幸いです〉と添えられていた。
渉は指先で名刺をなぞるようにして見つめた。
(……朝霧? まさか、あの結奈……?)
大学時代、共に研究に取り組んだ仲間のひとり。クールで聡明、他人の感情には無頓着なところもあったが、どこか底知れぬ寂しさを抱えたような瞳が印象的だった。卒業後は海外に進んだと聞いていたが……。
「何か知っているのかい?」
片桐が、渉の表情を探るように問いかけた。
「……大学の同期です。でも、こんな形で再会するとは」
渉の胸に、得体の知れぬ不安が広がる。あの結奈が、なぜこの町に、なぜ千年桜を調べているのか。偶然にしては、出来すぎている。
「来たのは……ひと月ほど前じゃたかな。妙に丁寧な口ぶりでの……でも、眼が笑ってなかった」
片桐は名刺を見つめながら言った。
「あたしにはわかる。あれは何か……あの桜に取り憑かれとる。そんな感じじゃった」
片桐がふっと息をつき、少し遠くを見るような目をした。
薄暗い部屋の隅に灯る行灯の灯が、彼女の皺深い顔を静かに照らす。
「あの日は昼間でも肌寒くて、ストーブをつけておった。急に玄関の鈴が鳴って、戸を開けると、あの若い女が立っておった。整った顔立ちに、街の匂いがしたのう。少し昔を思い出したくらいじゃ……」
片桐は結奈と出会った日のことを思い出すように目を細める。
「『お忙しいところ失礼します』と言って、きちんと名乗った。朝霧結奈――植物学のコンサルタントだと。やけに物腰が柔らかくて、でもどこか妙に距離を置いているような……。声の裏に、何か冷たさを隠しているように感じたんじゃ」
片桐はゆっくりと続けた。
「あたしは最初、警戒した。そうして、あたしの持っている古い文献について尋ねてきたが、すぐには渡さなんだ。そしたら彼女は、ちらりと目を伏せて、こう言ったんじゃ——『封印されしものの力を、解き放つのは慎重でなければならない。しかし、このまま眠り続けることもまた、危険です』……とな」
「……あたしは言葉の意味がはっきりつかめんかったが、その瞳には迷いも、焦りもあった。何か、背負っているものが大きいと感じたのう」
片桐はその夜、結奈が残した名刺を大切に懐にしまい、何度も指で撫でたという。
「それから、文献のことを再度持ち出されたが、あたしはまだ誰にも渡せん。けど不思議なことじゃ……あの娘が何を考えているのか、ほんの少しだけわかるような気がしてならんのじゃよ」
老婆の瞳に、一瞬だけ切なさと決意が浮かんで見えた気がした。
*
同時刻。
桜野町の役場。
役場の会議室で、霧生蓮司は窓の外の桜並木を眺めていた。
黒いスーツに身を包み、銀灰色のネクタイを締めた男は、目を細める。
「……咲かぬ千年桜。咲かぬがゆえに、騒がれる。まったく、民間信仰とは面白いものだ」
向かいの椅子に座るのは、地元観光協会の職員たち。霧生は彼らに向かって、にこやかに話す。
「ですが、この騒動を逆手に取るのが“町おこし”の基本です。例えば——“封印伝説ツアー”など、企画に落とし込めば……」
「ですが、片桐婆さんが“封印を解くな”と町中で吹聴していまして……」
霧生の笑みが、わずかに深まる。
「そのような老婆の話を、本気にする方がどうかしていますよ。民俗資料としては価値があるかもしれませんが。……いや、むしろ、逆に利用すべきです。“謎の老婆が語る封印伝説”——ちょっとした話題になる」
そこへ、ドアがノックされた。
入ってきたのは、都会的なパンツスーツに身を包んだ若い女性——朝霧結奈だった。
「失礼します、霧生さん。村の空撮写真、仕上がってきました。精霊伝承の地形的連関についても、少しずつ整理が進んでいます」
「ご苦労様、結奈くん。……例の“片桐文献”については?」
「まだ未確認ですが、彼女の家にしかないものなら、現物に触れないと正確な判断はできません。ただ……ひとつ気になるのは、彼女の発言に“夢の中で見たような記憶”という表現が複数回含まれていることです。封印に“呼ばれている”可能性もあります」
その言葉に、霧生は一瞬だけ笑みを止めた。そして静かに立ち上がり、窓の外の夕暮れを見つめる。
「……呼ばれる、か。奇しくも、君と同じだな」
結奈は答えず、目を伏せた。
*
桜野町の外れ、木々に囲まれた片桐家の庭に、ざっ、ざっ……と土を踏む音が響く。
春の柔らかな光が、瓦屋根の軒先に影を落としていた。
片桐が腰をかがめ、庭先の雑草を摘み取っていた。軍手越しに、まだ冷たさの残る地面の感触が伝わる。
あの祭りの夜から、近所の人の視線も変わった気がしていた。
それでも、自分はここを離れるつもりはない。
この土地、この家には、片桐の血筋に連なる「もの」が眠っているのだから。
ふと、さっきまで家にいた青年——集音路のことを思い出していた。あの若者、どこか他の者たちとは違う気がしてならない。
あの目をしていた。
遠いものを見つめるようで、しかし今ここに確かに立っている目。
ああいう目をする人間は、めったにいない。——それが、片桐の記憶にある誰かと重なるような気がして、心の奥にざわめきが残っていた。
「信じていますか?」と聞かれた言葉が、不意に脳裏に蘇る。
信じているのか、と聞かれても、分からない。
信じる、というより“覚えている”という感覚の方が近い。
そう答えたときの、あの青年のまっすぐな視線——それもまた、忘れがたいものだった。
——あの娘も、思い出していくのかもしれん。
桜の精霊、紗久夜。
彼女がすべてを知るとき、何が起こるのか。
あるいは、何を選ぶのか。
その時が来たなら、今度は自分も、見て見ぬふりなどできない。
……そんな気がしていた。
片桐は雑草を摘みながら、ふと手を止めた。
地面に根を張る小さな草を見つめる。
「隠してきたこと」があまりに多すぎて、自分でも何が真実なのか分からなくなるときがある。
けれど、あの青年に言ったことは、まぎれもなく本音だった。
——“咲きたる時は兆しにあらず、咲かざる時こそ兆し”。
それは、ただの古言ではない。
肌で感じるもの。
この土地にしみついた“記憶”が、今また蠢いているのを、片桐のような古い人間は知っている。
「……あの娘が、動き出すかもしれん」
ぽつりと呟いたその言葉は、春の風に溶け、静かに庭の木立に吸い込まれていった。
——そのときだった。
軋むような、足音が近づいてきた。
片桐が顔を上げると、門の前に、ひとりの若い女が立っていた。
黒髪をタイトにまとめ、明るいベージュのパンツスーツに身を包んだ結奈。
眉の形も、姿勢も、隙がなく整っている。
「あんたは……前に来た、あの……」
「はい、朝霧と申します。前回はご挨拶もそこそこに失礼しました」
結奈は、まっすぐな眼差しを向けて、静かに頭を下げた。
「今日は、少しだけお話をさせていただければと思って……“片桐文献”について」
片桐は手に持っていた鎌をそっと下ろし、立ち上がる。
その目には、はっきりとした警戒の色が浮かんでいた。
「言うたはずじゃ。あれは、他人に渡すようなもんじゃない。血の記憶じゃ。お前さんみたいな外の人間に……」
「ご安心ください」
結奈は柔らかい声で片桐の言葉を遮った。
だが、その声音の中には、どこか張りつめたものがあった。
「文献そのものは、もう結構です。なくても、私には“必要な情報”は手に入りましたから」
片桐の目が細くなる。
「……ほう。それはまた、大きく出たもんじゃな」
結奈は一歩、庭へと入る。
春草の香りと共に、彼女の香水の微かな気配が風に溶けた。
「片桐さん、あなたの家に伝わる文献は、封印について書かれている。——“千年桜”と、それに宿る精霊のことも」
老婆の顔に、かすかな動揺が走る。
それを見逃さず、結奈は言葉を継いだ。
「ですが、その精霊が——もう間もなく、“消える”としたら?」
片桐は、喉の奥でひとつ、からからと笑った。
「なにを言っとる。封印とは、そもそもその精霊によって守られとるもんじゃ。精霊が消えたら……」
「……封印も消える。それが自然の摂理です」
結奈の声は、ひどく静かだった。
だが、その瞳の奥には、深い迷いの影と、何かに突き動かされるような焦燥が見え隠れしていた。
「桜が咲けば終わる。咲かずとも、精霊が消えれば、封印は——自壊する。あなたがそれを知らないはずがない。片桐家は、見てきたのでしょう? “封じられた春”の記録を」
片桐は、口を閉ざす。
薄く開いた唇からは、もう何の言葉も出なかった。
ただ、その視線は、遠く……まだ咲かぬ桜の方角を見つめていた。
風がわずかに吹き抜け、片桐の白髪を揺らした。
彼女は、土の匂いの残る軍手を外し、ゆっくりと手を拭いながら、鋭い目つきで結奈を見つめる。
「……まさか、お前さんが、あの桜に何かしたんじゃなかろうな?」
声はかすれていたが、その響きには長年封じてきたものへの怒りと不安がにじんでいた。
片桐の目は、静かな炎のように揺れていた。
結奈は、そのまなざしを正面から受け止めた。
そしてほんのわずかに眉を寄せ、静かに頷く。
「……“直接”何かをしたわけではありません。ただ——」
一拍、息を置き、目を細めた。
「それが“咲かない理由”なら、数年前にはもう始まっていたことです。私たちは、あの木の変化を予測していた。……いえ、厳密には“起こるべき現象”として、準備を進めていたんです」
「……“わたしたち”?」
片桐の声が低くなる。
結奈は返答を避けるように、視線を少しだけ逸らした。
「詳細は、話せません。ですが——封印が“解かれる時期”は、もう間近です。精霊の力も、いずれ……」
その言葉が言い終わるより早く、ポケットの中のスマートフォンが振動した。
結奈はわずかに眉を動かし、画面を覗くと、表情を切り替えた。
「……失礼します。そろそろ時間のようです」
静かに会釈し、踵を返す。
片桐は立ったまま、結奈の背を睨みつけていた。
その背に、言葉をぶつけずにはいられなかった。
「……お前さん、“目覚めさせる”気か。ほんとうに、それが“人の手で制御できるもの”と思っているなら——大きな間違いじゃ」
結奈は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
春の光の中、その表情は冷たくも、どこか哀しげだった。
「……それでも、誰かがやらなければならなかった。それだけのことです」
それだけ言い残し、彼女は門を開け、町の方へと歩み去っていった。
片桐はしばらくその背中を見送っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……あの子、“呼ばれて”おるな」
その声を、風がさらっていった。