第九話 代償
雪幻桃火災の翌日。
桃木農園は、まだ灰の匂いをまとっていた。黒く残る木の骨、風に舞う白い灰。片付けを進めても、燃える夜が胸の内に居座り続ける。
そんな折、東京に残っていた渉先輩から、一通のニュース速報が届いた。
〈季節外れの雪幻桃、消費者から健康被害報告〉
吐き気、発疹、のどの腫れ。アレルギー症状に似た体調不良が、葛見農園の桃を食べた複数人から報告され始めたという。
「……ついに表に出たか」
思わず、つぶやいた。
渉先輩が送ってくれた中間調査報告――土壌から検出された、『生命力を削る毒性化学物質』。
偽物の奇跡には、必ず代償がある。
その代償は人間にまで及んでしまった。
さらに柳教授からメッセージが入る。
《桃くん、我々は葛見農園の調査へ向かっています。一緒に行きますか?》
《合流します》とだけ返事をし、急いで家を飛び出した。
*
教授が率いるのは、植物庁・資源適応研究課と、保健庁食品安全課の合同調査団――保健庁まで動くなど、異例中の異例だった。
「桃くんたちが回収した土壌と金属片のデータが決め手でした」
葛見農園で合流した渉先輩は、深刻な表情で続けた。
「あの物質は植物だけじゃない。人体にも有害である可能性が非常に高いと結論が出たんだ。行政はもう、放置できない」
颯汰の肩で、フィギュア姿のフウが、羽衣を揺らすように腕を広げる。
「大丈夫、颯汰。真実を掘り起こせば、雪幻桃は清らかだって証明できるよ」
小さな体の声が、不思議と温かい。
*
葛見農園は、静寂とはほど遠かった。
パトライトの赤が畑の上を行き来し、保健庁の職員が残存サンプルを回収し、植物庁の調査員が土壌を採取している。
この光景は、もう農園ではなく、現場だった。
「葛見健太郎さんは?」
柳教授が問うと、葛見家の息子が、震えた声で答えた。
「昨夜から……家に戻っていないんです」
不穏な気配だけが、畑全体を沈黙させる。
渉先輩が視線を動かし、傾いた納屋の脇で立ち止まった。
「教授……この地面、掘り返した跡があります」
盛り上がった土を取り除くと、汚れたビニールシートの下から、古びた鉄のハッチが顔を覗かせた。
そこは――半地下への入口だった。
*
階段を降りた瞬間、肌にまとわりつく重い湿気。
鼻孔を刺す刺激臭。
錆びた鉄と、化学薬品の混ざり合った匂い――ここは、植物が育つ場所じゃない。
生命を製造するための、無音の工場。
コンクリートの床に、無機質なパイプが網を張り巡らせる。
青白い人工光が、夜のように冷たく空間を照らしていた。
中央にはガラス槽がいくつも並び、桃の枝が、チューブと溶液に繋がれ、無理やり根を伸ばされている。
その根元には――あの赤茶けた金属片が、土壌と同じように埋め込まれていた。
「……やっぱり」
渉先輩が呟いた。
「桃木農園で見つかった合金と同じです。この金属片は、土壌に撒かれた化学物質と連動して、電位を操作している。雪幻桃の精霊的環境を模倣し、無理矢理、季節外れの実りを生み出していたんです」
柳教授は、しばらく言葉を失っていた。
重く、沈んだ声で言う。
「精霊の祝福を、数値化し、工場で量産する……その結果が、毒と病とは……」
颯汰は、怒りより先に、寒気を覚えた。
雪幻桃は、こんな場所に生きるものじゃない。
雪と月の下、静かに息づく命だ。それを――金属と薬品で囲い、搾り取った。
その時だった。
「出て行けえええええ!」
怒号とともに、瓦礫の陰から飛び出してきた影。
葛見健太郎だった。
泥にまみれた作業着、焦点を失った目。
手には、重い鍬。
「俺の桃だ……奇跡の桃は、俺が作るんだ……! 邪魔をするな! 出ていけ!」
健太郎の叫びは、悲鳴と紙一重だった。
彼の中の信じたものが、崩れ落ちつつある声だった。
鍬が振り上げられ、颯汰に迫る。
「颯汰!」
渉先輩が体をぶつけるように押し、刃先が空を裂いた。
刹那――。
「そこまでです、葛見健太郎さん!」
入口から数名の警察官が駆け降り、彼を取り押さえた。
抵抗は短かった。
鍬を落とし、崩れ落ちる。
そして、子どものような声で、震えながら繰り返した。
「精霊……裏切った……俺は……精霊を……」
その涙は、自分への悔恨なのか、騙した誰かに向けたものなのか、もう分からなかった。
闇の半地下に、健太郎のすすり泣きだけが落ちていった。




