第八話 深紅の炎と精霊の託宣
颯汰視点……
――真夜中。
深い眠りの底から、颯汰は引きずり上げられた。
肌を刺すほどの熱。喉の奥にひりつく、焦げの匂い。
闇のはずの窓は、昼のように赤く明るい。
胸がざわついた。
「……なんだ?」
足元が覚束ないまま窓へ駆け寄る。
視界に飛び込んできたのは――夜空を炎色に染め上げる、深紅のゆらめき。
「火事……!」
叫びより早く、心臓が跳ねた。
雪幻桃の区画だ。
見慣れた静かな農園が、一瞬で異形の景色へと変わっていた。
白い幹は黒煙に包まれ、枝は燃え崩れ、炎が夜の空気を噛み砕いている。
「精霊の桃を――守らなきゃ」
言葉というより、本能だった。
気づけば颯汰はパジャマ姿で廊下へ飛び出していた。
父と母も玄関に立ち尽くし、炎の光に照らされて顔色を失っている。
その時、老犬きなこが吠えた。
普段は昼寝ばかりの老いた体とは思えぬ速さで、炎の方へ突進した。
「きなこ! 戻れ!」
父の声は届かない。
影は炎の中へ飲まれていった。
――雪幻桃の木々の焼ける匂いがした。
月の霜のように透き通っていた幹が、砕け、崩れ、黒い灰となって風に舞った。
消防車のサイレンが、暗い山々へと響き渡っていく。
止める力など、誰にもなかった。
*
夜明け前の空は、墨のように重く曇っていた。
数時間にわたる消火作業の末、炎はようやく静まった。
だが、その沈黙は死の気配を孕んでいる。
畑には、焼けた木々の残骸。
昨日まで息づいていた生命は、黒い骨のようになって立ち尽くしていた。
颯汰は、呆然とその光景を見つめる。
「……嘘みたいだろ」
声は驚くほど冷静だった。
涙より先に、燃え跡の現実を受け止めようとする思考が働いていた。
上着の中から、震えるささやきが聞こえる。
「……颯汰……大丈夫?」
フィギュア姿のフウが、そっと顔を覗かせる。
いつもの軽さはなく、声は細く揺れていた。
「大丈夫じゃねぇよ……」
かすれた声が、霜のように落ちる。
消防や警察さえも自然発火とは考えにくいと言った。
だが、決定的な証拠もない。
燃え残る煙の冷たさだけが、颯汰の胸に突き刺さっていく。
――そのとき。
焦げた大地の奥から、小さな鳴き声がした。
「……クゥン」
煤で真っ黒に汚れたきなこが、よろめきながら戻ってきた。
毛は焦げ、体は水で濡れ、息は荒い。
それでも――その口には、何かを咥えていた。
地面へそっと置かれたそれは、燃焼の地獄を奇跡のように生き延びた一本の枝だった。
枝先には、白銀の産毛がまだ残り、わずかな蕾が、確かな生命の鼓動を宿している。
「……きなこ……」
膝が崩れた。
颯汰が抱きしめると、きなこは安心したように弱々しく尻尾を揺らし、静かに横たわった。
父と母も、声を発することができなかった。
颯汰は震える手で、枝を拾う。
焦土の冷たい空気の中で――この一本だけが、生きている。
フウが、呼吸を呑むように囁いた。
「これは……精霊からの、託宣だよ」
木々は死んだ。
花は消えた。
声は届かなくなった。
それでも、精霊はこの枝を残した。
祈りか、警告か、希望か。
ただひとつの命が、すべてを物語っていた。
――雪幻桃は、まだ終わっていない。
胸の奥で、何かが静かに燃え上がる。
それは悲しみではなかった。
怒りでもなかった。
名前のない、強い決意。
颯汰は立ち上がり、焦げた畑を背に、夜明けの空を見据えた。
「……俺は、この農園を継ぐ」
声は震えなかった。
「この枝を、生かす。必ず、育てる。そして――誰がこんなことをしたのか、絶対に突き止める」
夜の余熱が、パジャマの裾を揺らす。
手には小さな枝が、息をしていた。
それは、精霊ときなこが託した、未来への誓いだった。
次回は来週金曜日に更新します!




