第五話 颯汰の実家(後編)
父と母に導かれ、渉先輩とフウ、そして颯汰――五つの影は並んで、雪幻桃の特別区画へと向かった。
農園の奥、そのさらに奥。いつもの桃園とはまるで別世界だった。
陽のよく入る畑とは違い、ここは小高い丘の手前で、空気がひやりとしている。
まだ秋なのに、冬の匂いがひそんでいた。
「ここから先は……桃木の者でも、必要がなければ入らん場所だ」
父が古い柵に手をかける。
長年触れられなかった木肌には苔がつき、湿った森の匂いがした。
――やっぱり、この場所は特別だ。
子供の頃から、ここに入ると胸のざわつきが静まり、体が軽くなる気がした。
冷たいのに、心だけが温かくなる。
それが雪幻桃の加護なんだ、と教えられて育った。
なのに、今は――。
ただの畑の空気だ。
冷たさはあるのに、あの“守られている感じ”がない。
胸の奥に風穴が開いたみたいで、不安だけが残った。
「……おかしいな」
渉先輩が膝をつき、土を指で探る。
フウは先輩の肩から自分の肩に移り、そわそわと周囲を見回した。
「颯汰……空気、変だよ。息が、痛い」
「息が……? そんなに?」
颯汰も深く吸い込んでみた。
湿った土の匂い……そこに、微かに鉄のような匂いが混じっている。
さらに数歩進んだ瞬間、視界の奥で違和感が固まった。
雪幻桃の木々が見えた。
本来なら白い幹が淡い光をまとって、凍った月みたいに澄んで見えるはずなのに――。
黒い。
遠くから見ても分かるほど、枝が黒く染まっていた。
「……嘘だろ」
思わず足が止まった。
「花芽が……ひとつもない……」
母の声が震えていた。
この時期には必ずつく蕾。それが、どこにもない。
まるで刃物で削ぎ落としたみたいに、跡すら消えていた。
幹はひび割れ、茶色く濁った樹液がにじみ出している。
腐った血みたいに見えて、喉が詰まった。
「なんてこと……!」
父はよろめくように一本の木へ駆け寄り、幹にしがみついた。
肩が小刻みに震えている。その姿が痛かった。
颯汰は別の木の根元に手をつき、土をすくった。
その瞬間――鉄の味が鼻の奥に刺さった。
「焦げ臭……いや、鉄……?」
爪の先に何か硬いものが触れた。
掘り出すと、赤錆に覆われた金属片。
「渉先輩! これ……!」
声が裏返った。
二人が駆け寄ってくる。
先輩は眉をひそめながら袋を取り出し、金属片を集め始めた。
「どうして……こんなに。土の中に混じる量じゃない……」
フウも土に触れ、表情を強張らせた。
「颯汰……ここ、精霊の力が吸われてる。……木が泣いてるよ」
フウの声が震えた。
胸がぎゅっと締め付けられた。
別の場所を掘り返しても、同じ金属がいくつも出てきた。
まるで繁殖しているみたいで、気味が悪い。
雪幻桃の木々は、息をするように静かに死んでいっている。
偶然なんかじゃない。
頭に浮かんだのは――。
「……金城光一」
名前を口にした瞬間、金属の味が喉奥に広がった気がした。
「渉先輩……これ、全部調べてください。お願いします」
「ああ。すぐ持ち帰って分析する。こんな金属、自然に混ざるはずがない。誰かが、目的を持ってやっている」
父と母は言葉を失い、ただ枯れた枝をそっと撫でていた。
*
母屋へ戻るころには、空は茜を脱ぎ、群青に沈みかけていた。
「……ごはん、食べよ。話はそれからにしようね」
母は無理に笑って、火を止めた鍋の蓋を開けた。
味噌の焦げた香りと、出汁の温かな匂いが部屋いっぱいに広がる。
里芋やさつまいも、鶏肉が湯気の向こうでほろりと崩れ、懐かしい食卓の風景が戻った。
――なのに、胸がきつい。
家の中の温かさが、さっき見た黒ずんだ枝の冷たさと、あまりにも対照的だったから。
父は腕を組んだまま動かず、母も湯飲みに手を添えるだけで箸を取らない。
「ねぇ、颯汰」
湯気の揺れの奥から、母がそっと呼んだ。
「雪幻桃の話……小さい頃、何度も聞かせたよね」
「……百万回くらい」
「そう。だから、もう一度だけ――今日くらいは、聞いて」
母の声は、いつもの優しさとは違っていた。
桃木家を守ってきた者の、静かな強さがあった。
「雪幻桃はね、ただの桃じゃないの。先祖が桃の精霊と契約して、一枝だけ授かった。それを守り続けてきたから、真冬に実るの」
昔、布団の中で聞いた昔話を思い出す。
でも今日は、物語じゃない。
今この家の外で、本当に死にかけている木の話だ。
「温室も使わない。手を加えなくても、雪の中で白く光る。市場にはほとんど出回らないけど……その分、私たちは誰より大切にしてきたの」
湯呑みを包んでいる母の手は、繊細さはあるのに、触れれば少しごつごつしていて、長い時間を使って何かを守ってきたような、そんな温度が宿っていた。
「でも……あんな枯れ方、私、一度も見たことない」
「……俺も」
しばらく、誰も言葉を続けられなかった。
鍋の湯気だけが、静かに天井へ昇っていく。
「……ここでしか、生きられないんだね、この桃」
ぽつりと、フウが呟いた。
母は驚かず、むしろ優しげに微笑んだ。
「そうよ。外に植えたらすぐ枯れる。この土が恋しい子なの」
フウは唇を噛んだ。
「だから……おかしいんだよ。この土で枯れるなんて」
その言葉を合図にしたみたいに、父が湯飲みを置いた音が部屋に響いた。
「颯汰」
父の声は低く、重かった。
「お前が農園を継ぐかどうか……それは、お前が決めればいい。無理にとは言わん」
父の視線が、真正面からぶつかってきた。
「だが――今日のことからだけは、逃げるな」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
責められているわけじゃない。
ただ、真実を受け止めろと言われている。
ずっと、家から距離を置いてきた。
この土地が嫌いなわけじゃない。
けど、未来の選択肢から切り離していた。
……なのに、今のこれは何だ。
胸が落ち着かなくて、指先がじんと熱い。
逃げるのとは違う感情が、ゆっくりと芽を出している。
――俺、どうしたいんだ。
自分に問いかける声が、初めて胸の奥で確かな形を持った。
次回は来週金曜更新!




