第三話 夢の中
石井家に戻ったのは、すでに日付が変わろうとしている頃だった。
家の中は静まり返り、玄関に置かれた靴も、居間の照明も、渉が出かけたときのままだった。石井は「おやすみなさい」とだけ言い、二階の自室へと上がっていった。
渉は客間に戻り、着替えもそこそこに、荷物の中から封筒を取り出した。植物庁からの調査資料が入っている。桜野町は、かつて久垣村と呼ばれていた。そして千年桜に関する植物調査の予備資料。乾いた紙の質感が、やけに現実を引き寄せてくる。
ページを繰りながら、今日一日の出来事を思い返す。
初めて見た千年桜――その枝振り、その風の香り。そしてイメージではない、しかし言葉でもない音を感じた。
悲しみ、そして痛みと共鳴するように胸に走った衝撃は、ただの「古木」では説明のつかないものだった。
さらに夜の桜まつりでの片桐さんの姿。
彼女の叫び声と「祟り」という言葉。言葉のひとつひとつは断片的で、意味の輪郭は掴めない。
それでも何かを訴えていた。あの目が、ただの狂気ではなかったことだけは、確かだ。
資料には、千年桜の種や育成経緯、根系保護のための立ち入り制限区域、過去の簡易調査報告などが記されている。けれど、そこに「精霊」も「祟り」も「封印」も出てこない。まるで見ているものが違うのだと思えた。
渉は資料を膝の上で伏せた。
「……足りない」
そう、何かが抜けている。植物としての記録だけでは、この桜は語りきれない。
襖の向こうから、柱時計の鳴る音が微かに聞こえてきた。日付が変わったのだろう。
ゆっくりと立ち上がり、布団に入った。
部屋の明かりを落とすと、しばらく天井を見つめたまま、まぶたを閉じられずにいた。
千年桜の木に触れたあのときの感覚――『もういない』『探して』
その意味を考えれば考えるほど、思考は迷路のように絡まり、出口を見つけられない。
それに桜まつりで見た時は、とても痛がっていた。
その感覚が、身体のどこかにまだ残っている。まるで誰かの声のように、静かに、訴えるように。
ようやく目を閉じる。
意識が夢と現の狭間へと滑り込んでいく。まるで、あの桜の根の奥深くに引き込まれていくように――。
*
静かな夜。
目を閉じたはずなのに、不思議と意識は冴えていた。それなのに――。
ふと辺りを見回すと、見知らぬ場所に立っていた。これは夢?
風の匂いが違う。土と草の匂いが濃い。
耳に届くのは、草を撫でるような箒の音と、時折響く鳥のさえずり。
目の前には、古い邸宅の庭が広がっていた。どこか懐かしい、けれど見たことのない景色。
庭の片隅で、一人の男が黙々と作業をしていた。
着ているのは、薄手の直垂——なぜか、平安時代の衣装だと、すぐに分かった。
男は鍬を握り、土を耕し、枝を剪定し、落ち葉を集めている。
その仕草は静かで、丁寧で、ひとつひとつの動きが不思議なくらい鮮やかに感じられた。
言葉はない。
それでも、男の呼吸の音や、庭の湿った空気が生々しく伝わってくる。
花の香り、刈り取られた草の青い匂い、陽の光に温められた石畳の匂いまで。
まるで夢ではなく、自分がそこに立っているかのような錯覚に陥った。
やがて男は作業の手を止め、ふと庭の奥——淡いピンク色の花を咲かせた一本の若木に目を向けた。
あれは桜の木?
男の表情はどこか、寂しげで、何かを語りかけるように見えた。
急に場面は変わり、手元を眺めている自分だった。
淡い桜の香り。袖からのぞく、透き通るような手。
視線は庭を歩く男の姿を、じっと見つめている。
声はないのに、心の中には確かに“想い”が流れてきた。
——私はあの人を、ずっと見つめていた。
——季節が巡り、人の世が変わっても、私はここで咲き、待ち続けている。
男がふと自分に振り向いた瞬間、顔が渉のものへと変わり、視線の位置も変わる。
若木に見えた桜は、いつの間にか立派な幹へと成長し、その根元に――ひとりの美しい女性が立っていた。
まるで、そこに在ることが最初から決まっていたかのように。
桜の精霊?
なぜかそんな言葉が頭に浮かんだ。
桜色の薄衣を何枚も重ねたような着物が、風もないのに静かに揺れている。
光に透けるような茶色の長い髪は、ところどころ花びらのように淡く光り、梢を撫でる風にふわりとなびいた。
肌は春の月明かりのようにやわらかく白く、その姿全体が、木漏れ日とともに溶け合っている。
真っ直ぐな視線は、迷いなく渉を見つめていた。
なのにその瞳は、どこか遠く、長い時を越えてきたような寂しさも湛えている。
彼女が一歩、また一歩と近づいてくるたび、桜の香りが空気に満ちていく。
それは花の香ではなく、春そのものの気配――命が芽吹く直前の、柔らかで少し切ない、あの匂いだった。
そして、着物の袖からすべるように現れた白く美しい手がそっと伸び、囁いた。
『ずっと……あなたを待っていました』
その声は耳に届いたというより、胸の奥に直接触れてきたようだった。
彼女が渉の両頬をそっと包み、その顔がさらに近づいてくる。
ふわりと、桜の香りが鼻の奥をくすぐった。
えっ……?
はっと目が開き、布団の中だと気づく。
頬に残るひんやりとした感触。
鼓動が激しく波打っている。
そしてなぜか部屋の中に漂う春の夜風と桜の香り。
(夢……だよな)
カーテン越しでも、外の空はまだ薄明かりのままと分かった。
枕元の時計は、午前四時を指している。
体の芯に、まだあの庭の湿った土の匂いが残っている気がした。
あの男は誰だったのだろう。自分?……なのだろうか。
そして、夢で見た庭の桜は、千年桜に違いない。
なら彼女は――千年桜の精霊なのか?
本当に目が覚めているのか、頭がはっきりしない。
彼女の手のひらの感触が頬に残っている気がした。
胸の奥がほんのりと温かいのに、どこか落ち着かない。
頭の中を夢の光景がぐるぐると回っている。
これではもう眠れそうにない。
夜が明けきるまで、布団の中でじっとしていることにした。
*
食器がかちゃかちゃとする音で目が覚めた。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。
客間から出て、音のする方へ向かう。
台所では石井が忙しなく動き、すぐそばのテーブルにお皿を並べている。
炊きたてのご飯に、味噌汁、焼き魚、漬物――質素ながら丁寧に整えられた朝食。
渉は自然と背筋を正した。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
台所の奥から石井が声をかけてきた。作務衣の肩越しに、春の柔らかな日差しがレースのカーテン越しに射し込んでいる。
「……おはようございます。はい……ぐっすりでした」
遠慮がちにテーブルの椅子を引きながら、ちらりと石井を見て訊ねた。
「ここ、座って大丈夫ですか?」
「ええ、もちろんです。娘はすでに登校していまして、妻も今朝は早番で病院へ行きました。今朝は私と二人だけですが、どうぞ気兼ねなく」
渉が「いただきます」と手を合わせると、彼も穏やかに手を合わせた。
朝の台所は、炊飯器から立ちのぼる名残の蒸気、蛇口から水滴が流しの桶にぽちゃんと響く音とともに、静かな温もりに満ちている。
渉は味噌汁を一口すすって、ほっと息をついた。
「……おいしいです。出汁、昆布ですか?」
「いえ、煮干しです。妻が昨晩のうちに仕込んでくれたものを、私が温め直しただけなんですよ。あまり手の込んだものではありませんが……」
どこか照れたように石井が湯呑を手に取った。
少し間を置いて、渉は気になっていたことを口にする。
「石井さん。千年桜のことなんですけど……この町に、あの木にまつわる伝承とか、昔話ってありますか?」
しばらく黙ってから湯呑を置いた。腕を組み、静かに天井を見上げる。
「……伝承ですか。そうですね、明確な記録はありませんが、昔から語られてきた話なら、いくつかあります」
その言い回しには、思い出すような間と、どこか躊躇いが混じっていた。
「千年桜は、この桜野町と町名が変わる以前、つまり久垣村と呼ばれていた時代からあの場所にありました。誰が植えたのかも、詳しい由来もわかっていません。ただ、古くから“あれは人の手で植えられたものではない”とされておりまして……山から降りてきた“神木”だという話もあります」
「神木……」
「ええ。ただし、さまざまな言い伝えが混在していましてね。祟りの木だとか、封印の木だとか、あるいは“悲恋の木”だとか……どれが本当で、どれが後から付け足されたものか今では判断がつきません」
「悲恋の木、ですか?」
「気になりますか? それも、“誰かを待って咲く”とか、“誰かを閉じ込めている”とか……いろいろ言われているようです。百年に一度、あの木の下で結ばれた者は離れない――そんな話もありますね。現在の“縁結びの桜”という観光コピーも、おそらくはその言い伝えを下敷きにしているのでしょう」
少し口元をほころばせ、「まあ、話半分にお聞きください」と付け加える。
渉は箸を持ったまま、ふと考え込んだ。
あの桜に触れたときの“声”。夢に現れた桜と女性、そしてあの男。すべてが繋がっているようで、その手触りはまだ霧の中にあった。
「伝承って、記録とか文献としては残っていないんですか?」
「うーん……古い文書類は、そうですね……白川神社のほうにあるかもしれません。あそこの神主は、この地域の歴史に詳しいですから。代々、そういった記録を残してきた神社です」
「えっ、白川神社って……」
「はい、昨日、香代と一緒にいた男子生徒、白川葉くんのところです」
男子生徒と神社の名を心の中で繰り返した。
――何かが、あの桜の奥に眠っている。
そんな確信めいたざわめきが、胸の奥で静かに広がっていく。
渉は箸を置き、胸の奥に芽生えた直感を確かめるように、そっと息を吐いた。
「……あの、白川神社、行ってみてもいいですか?」
「えっ、もちろんです。では私も役場へ行く前にお付き合いします。上司から集音路さんのことを頼まれていますからね」
石井が食器を片付けながら、落ち着いた口調で答えた。
「神主の登……あ、いえ、白川さんは少々頑固なところもありますが、筋の通った人です。若い頃は東京の大学で神道史を専攻していて、戻ってからはずっと郷土資料の整理をされているんですよ。あの神社に伝わる文書の価値は、専門家が見てもなかなかのものだと聞いています」
胸のどこかで、“ここに何かがある”と告げる声が、静かに響いていた。
*
白川神社は、町の中心から少し外れた小高い丘の上にある。
昨晩、白川葉を送った時には見えなかったが、杉木立の中に佇む拝殿は、陽光に照らされてどこか静謐な空気を漂わせている。
石段を登ると、社務所の脇から袴姿の男性が顔を覗かせた。
「……おや、誰かと思ったら崇志じゃないか。朝から神社に来るなんて珍しいな」
「登。お前こそ、ちゃんと起きてるのが珍しいよ。元気そうでなによりだ」
渉はそのやり取りに、少し驚いたように二人を見比べた。
「ご紹介します。こちら、白川登さん。この神社の神主で……私の中高の同級生です」
「はじめまして。集音路渉と申します。東京から調査に来ていまして――」
「ああ、葉からあなたのことは少し聞いています。ようこそ桜野へ」
白川が石井へ向き直ると、少しだけ笑みを浮かべてうなずいた。
「昨日うちの葉が、崇志の娘さんと一緒にいたとか。まあ、何かと外へ出たがる年頃で……さて、それで崇志、今日は何の用だ?」
「集音路さんが、千年桜について調べていてね。古文書を探しているそうだ。それと昨晩、気になる夢を見たとかで」
「……夢、か」
白川の顔に、ふと真剣な色が差す。
「――こちらへどうぞ。あなたが夢で何を見たのか、確かめてみましょう」
*
神社の裏手にある古い蔵へ案内されると、白川は無言で鍵を開けて二人を中へ通した。蔵はひんやりとした空気に包まれており、棚には和綴じの古文書や巻物が丁寧に保管されている。
「火気厳禁、撮影もご遠慮いただいておりますが、閲覧は可能です。千年桜に関する記録は――そうですね、こちらの“久垣記”にまとまっていたかと……」
棚から一冊を引き抜き、渉の前にそっと置いた。表紙には墨文字で「久垣記」と書かれている。
頁をめくると、風化した紙の匂いが鼻をくすぐった。
――そのとき、目に飛び込んできたのは、墨絵で描かれた満開の枝垂桜と、月夜に浮かぶ人影の姿だった。
(……これは……!)
夢で見た光景が、脳裏に蘇る。淡く光る花弁、月明かりの下に佇む後ろ姿――その人物が、ふと振り返ろうとする、まさにその瞬間を切り取ったかのような構図だった。
「……これ、夢で見た景色と似ている」
思わず漏らした言葉に、白川が静かに頷いた。
「……そうですか。では、あなたはあの千年桜に“呼ばれた”のかもしれませんね」
「呼ばれた……?」
「千年桜は、“誰かを待ち続けている”とも、“何かを封じている”とも言われてきました。この絵は室町のものと見られますが、記録ではさらに昔から“同じ夢を見る者”がいた……そう記されています」
白川が古文書の一節を指さす。
『彼の桜、夜ごと誰かを待ちぬ。影現れし時、封ぜられし記憶、ふたたび巡る』
その言葉に、渉の胸の奥がざわめいた。
――封ぜられし記憶。
夢に現れた女性は桜の精霊なのか。そして、背中越しに感じたあの深い孤独は、誰のものだったのか。
あれは、ただの夢ではない。
そこには、何かの“記憶”が宿っている――そう確信めいた思いが、胸に灯った。
「……そういえば今朝、石井さんがおっしゃっていたこの地に伝わる言い伝え……あれも何かこの絵と関係があるのでしょうか?」
白川が、古文書から目を離してぽつりとつぶやく。
「……神木として祀られてきたという信仰の一方で、祟りや封印、あるいは悲恋の木という話も伝わっています。つまり、いくつもの伝承が混在している状態なんです」
「混在……」
「はい。どれが史実で、どれが信仰や物語なのか……正確にはわかりません。ただ、すべてが“千年桜の真実”とも言えるのかもしれません」
本の頁をめくりながら、白川が続ける。
「たとえば、“百年に一度、あの木の下で結ばれた者は決して離れない”とか、“誰かを待って咲き続ける”とか。“誰かを閉じ込めている”という説もあります。“縁結びの桜”という観光コピーも、こうした伝承を下敷きにしているのでしょうね」
「……つまり、記録と伝承、どちらも同じ根から生まれた可能性があると?」
「ええ。どちらにも、“桜が何かを語ろうとしている”という共通の核があるように思います」
白川が帳面を閉じ、ふと思い出したように言った。
「ところで、“悲恋の桜”の話はお聞きになりましたか? 少し俗っぽいですが……」
「石井さんもおっしゃてましたが、どんな話までかは、まだ」
隣にいた石井がうなずいた。
「これは昔話ですね。町の外れにあった庄屋屋敷にまつわるもので――」
石井が語り、白川が補足する形で、古い物語が紡がれていく。
昔々、若い庭師が庄屋の娘と恋に落ちる。だが身分の違いから二人は引き裂かれ、娘は桜の木の下で涙ながらに別れを告げ、そのまま病に倒れてしまう。庭師は娘の魂が宿った桜を守り続け、やがて姿を消す。
「桜の木は、まるで二人の想いを映すかのように、何百年も咲き続けた……そう伝えられています」
白川が微笑を浮かべる。
「“久垣記”にあった墨絵と、この昔話を結びつけて語る人もいます。真偽は定かではありませんが、地元ではどちらも“千年桜の伝承”として大切にされています。学術的な裏づけはありません。それでも多くの人が信じているんです」
渉は静かに視線を落とした。
――夢で見た、あの男は誰だったのか。悲恋の庭師なのか、それとも、もっと深い何かを背負った存在なのか。
桜は千年の時を越えて、語ろうとしている。
それが、忘れられた“記憶”なのか、封じられた“想い”なのか。
答えは何も見えないままだ。
*
蔵の重たい扉を引いて外に出ると、世界はすっかり昼の色に染まっていた。
朝の涼やかさはすでに遠く、太陽はほぼ真上に昇っている。空はひときわ鮮やかな青さを湛え、空気の密度が少しだけ重くなっていた。木々の葉は陽を受けてきらめき、遠くの山々は、午後の光に縁取られたように輪郭を緩やかに滲ませている。
境内に広がる砂利道には、長くも短くもない影が淡く落ちていた。鳥の鳴き声も午睡の気配を帯び、風は木々の間をゆったりと抜けていく。
渉はまばたきしながら空を見上げた。朝、石井に案内されてこの神社を訪ねてから、ずいぶんと時間が経っていたことに、ようやく気づく。
夢中になって古文書を追い、記憶を辿り、過去と今のあわいを彷徨っているうちに、半日近くが過ぎていたのだ。
「……ずいぶん、時間が経ってたんですね」
渉が目を細めて言うと、石井は穏やかに頷いた。
「古文書って、時を忘れさせる力がありますから」
二人は神社の参道をゆっくりと歩き始めた。砂利道の上に、葉を茂らした枝影が揺れている。
そのときだった。
シャッ、シャッ――。
リズムよく掃き清める音が、木々の間から聞こえてきた。
参道の端、石段のあたり。ほうきの動きに合わせて、光がちらちらと揺れていた。
そこにいたのは、ひとりの若い女性だった。
薄手の作務衣に、淡い桜色の腰紐。長い髪は風にやわらかく揺れ、下を向いていても、その白磁のような肌が目を引いた。
ほうきを動かす手は静かで、無駄がなく、まるで長年の習慣のように自然だった。
「……ああ、彼女は――」
石井が気づき、声をかけようとする。
「――紗久夜さん、ちょっといいですか?」
その言葉に、女性が顔を上げた。
ゆっくりと、ふと迷うように瞬きをしてから、彼女は渉を見た。
その瞬間――胸がドクンと高鳴り、頭の奥に、ふわりと桜が咲いた。
視界の隅に、花がこぼれる。
夜の夢の中で見た、あの枝垂れ桜の姿。水面のようにゆらめく風。あの大きな幹。あの、誰かを待つような、寂しげな佇まいが、唐突に心に浮かび上がった。
「……」
言葉が出ない。
けれど、彼女はただ、微笑んだ。
笑顔というよりも、渉の存在に「気づいた」というような、やわらかな目をしていた。
「こちらは集音路さん。東京から千年桜の調査で来てくれていてね」
石井が補足する。
「紗久夜は、今ここのお手伝いをしてるんです。2〜3年前……春の終わり頃だったかな。記憶がないまま、この神社の参道で倒れているのが見つかって」
「……記憶が、ない……?」
「ええ。でも、それ以来ずっとここにいます。病院にもしばらく通ったんですが、身体は元気でね。記憶だけが、ぽっかり抜け落ちてるみたいで」
「……そうなんですね」
彼女――紗久夜は、うなずきながら、渉をまっすぐ見つめていた。
その目には、不思議な光があった。
寂しさと静けさと、どこか遠くを見つめるような、時を越えて来た者のようなまなざし。
桜のように、ただそこに咲いているだけなのに、見る者の心に何かを残していく。そんな存在感だった。
「集音路さん、でしたね。……“しゅうおんじ”って、変わったお名前ですね」
「えっ、あ、はい。ちょっと古風な家なんです。……“紗久夜”さんは、本名なんですか?」
問いかけに、彼女は少し困ったように首をかしげた。
「わかりません。でも、最初に私を見つけてくれたのが、ここの宮司さんの息子さんで。あの子が木花咲耶姫から、私に、“紗久夜”って、名前をくれました」
「……素敵な名ですね」
紗久夜がそっと笑う。
風が吹いた。ふたりの間を通り抜け、参道の先に積もった桜の花びらをかすかに巻き上げた。
その一枚が、渉の胸元にふわりと舞い降りる。
——ひとひらの桜。
視界の奥で、ふっと夜の闇が揺らいだ。
夢の中で見た光景――水面のように揺れる枝垂れ桜の下に立っていた、あの人。
着物の袖からのぞいた白い手。言葉ではない声。『ずっと、あなたを待っていました』と――あのとき確かに、触れられた感触が、胸の奥に蘇った。
目の前の彼女が、胸元の桜にそっと手を伸ばす。
その仕草が、夢の中の女性と重なって見えた。
光の角度、風に揺れる髪の匂い、目元の微かな陰影。
思い違いではない――そう思わせる、決定的な「なにか」が、そこにあった。
夢で出会った女性は、幻ではなく、この現実の中に確かに存在していた。
そしていま、その姿が「紗久夜」と名乗る彼女と、ぴたりと重なっている。
胸の奥で、名もない感情がふくらんでいく。
それは不安でもなく、ときめきでもなく――何かもっと、深く根を張るもの。
彼女を知っている、という確信にも似た、理由のない懐かしさだった。
「……お会いするの、初めてですよね?」
彼女が、ふと尋ねた。
「え?」
「……なんだか、懐かしい感じがしたので。不思議ですね」
その声は、まるで花のささやきのように、渉の胸の奥に落ちていった。
彼女の微笑の奥に、何かが宿っている。
唐突にそう感じた。
人の姿ではあるが、人ではないような雰囲気、とでも言うのだろうか。
けれど人の姿でここにいるもの。
記憶を失ってもなお、この神社にとどまり、桜のそばで静かに息をしている存在。
――この人は、「千年桜」と、つながっている? 関係があるのか?
夢で出会った桜の精霊のような女性、そして紗久夜。渉の胸の奥が静かに、強く反応していた。