花守り散歩*小石川後楽園
第三章後のお話
喧騒を離れたい渉が庭園を歩いています。
空気が澄んでいる――そう感じるのは、いつぶりだろう。
今年は偏西風の影響で夏が猛暑となり、9月の終わりまで熱気が街を覆っていた。それもようやく収まり、遠くの風が東京のビル群を縫って吹き抜けてくる。そんな午後だった。
渉は小石川後楽園の正門をくぐり、静かに息を吐いた。
水音、鳥のさえずり、風に揺れる葉擦れの音。どれも耳に届いているのに、耳障りではない。「うるさくない音」に包まれるのは、本当に久しぶりのことだった。
大学の課題も、植物庁への報告書も、御神木の件も。考えるべきことは山ほどある。けれど今日は、それらを全部脇に置いて、ただ歩きたかった。
東京の真ん中に、時が止まったような場所がある。
高層ビルの谷間に広がる池、その周りに枝を広げる古木。都市にぽっかり開いた呼吸口のように、小石川後楽園は今も静かに息づいていた。
この庭園が造られたのは江戸初期――水戸藩初代藩主の徳川頼房が、沼地と丘が入り交じる土地に池を掘り、草木を植えて築いたと記録にある。渉は以前どこかでそんな解説を読んだことを思い出す。船で神田川を遡り、園内の船着き場に至った将軍が景色を愛でたという話も。
今では東京ドームや遊園地の影にひっそりと隠れるようにして存在しているが、ここには確かに、かつての面影が残っている。
ゆるやかに曲がる小径。古木の枝に舞い降りる鳥の影。水音にまぎれて聞こえる、どこか懐かしい声。
――それを“聞き取る”ことができる、数少ない人間のひとりが、渉だった。
声は小さく、遠く、そして穏やかに響く。御神木が沈黙していたときとは違って、その曖昧さこそが心地よく感じられた。
*
池のほとりで、渉は足を止めた。
睡蓮が小さな花を咲かせている。水面にはまだ夏の名残のような深い緑が広がっていたが、ところどころに、黄や赤の葉が混ざり始めていた。
――秋が、近づいている。
渉はポケットからスマホを取り出した。ホーム画面には、チャットグループ「柳水庭」の未読通知がひとつ、点滅している。
ふと、以前のやりとりが脳裏によみがえった。
――颯汰が、得意げな顔で「名前つけようぜ」と言い、柳教授が「言葉遊びにしては、風情がありますね」と、珍しく同意した。そして自分は、その名をそのまま使い、今もこうして報告を送り続けている。
ベンチに腰を下ろし、指を動かした。
チャットグループ<柳水庭>
渉:『小石川後楽園に来てます。もう少ししてから研究室へ戻ります』
送信したあと、画面を見つめたまま、しばらく沈黙が流れる。返事は、すぐには来ないだろう。
代わりに、風が枝を揺らした。
ふわり、と。渉の足元に、まだ青みの残る桜の葉が一枚、舞い落ちてきた。
視線を上げると、池の向こうで数人の観光客がカメラを構えていた。三脚を立て、夢中でシャッターを切っている。その足元――踏みしめられた芝が、かすかに呻くような声を漏らしていた。
――いたい。
――おもい。
耳に入った瞬間、渉は息をのんだ。
ほんの些細な声。聞き慣れたはずなのに、今は胸に刺さって仕方がない。
*
ふと、頬に風が触れた気がして、渉は顔を上げた。
枝先から一枚の葉がひらりと落ち、足元に舞い降りる。まだ青みを残しつつ、縁だけが早くも紅く染まりはじめている。不自然な色づきだった。
渉はしゃがみ込み、葉を拾い上げる。
その瞬間――かすかな声が胸の奥に触れた。
――くるしい。
――みずが、とどまって。
短いささやき。だが、それは確かに「声」だった。
「……水、か」
思わず口にしてから、渉は立ち上がった。声に導かれるように、池の奥へと続く石畳を辿り、柳の木々が並ぶ一角へと足を向ける。園内でも樹勢の変化が出やすい場所だ。
やがて、芝生広場の端に数人の職員の姿が見えてきた。黄色いベストを身につけ、ラジオ機器を携えた人々が、一本の木の根元を囲んで話し合っている。
渉は深呼吸してから、その場に歩み寄った。
「こんにちは。こちら……何かあったんですか?」
一人の年配の職員が、にこやかに振り向く。
「ああ、いえね。ちょっと気になる木がありまして。葉の色が部分的に変わっててね。今、根の様子を見てるんですよ」
「虫害とかですか?」
「それも考えられますが……ここ数年、雨の質が変わってますから。その影響かもしれません。まあ、調査の途中でしてね」
渉は芝生の下を見やり、そっと息を整えた。
――水が、とどまって。
さっきの声が脳裏をよぎる。
「……もしかすると、このあたり、排水が少し詰まり気味じゃないですか? 雨水が抜けにくくて、土が重く感じられるとか」
職員たちは顔を見合わせた。
「……そういえば、このあたりだけ水が溜まりやすいんですよ。最近、土も締まってきた気がして……なるほど、ありがとうございます。参考になります」
「いえ、たまたま気づいただけです。部外者なのにすみません」
軽く頭を下げ、その場を離れる。
――聞こえた。
声は小さく、頼りなかった。けれど確かに、届いていた。
御神木が沈黙していたときには得られなかった感覚。
それでも、渉は自分の力を再確認した。まだ、自分は――ちゃんと役に立てるのだ、と。
*
少し歩いた先で、渉はふと立ち止まった。
池のほとり、西門近くに枝を広げる一本の桜が目に入る。
枝垂れるように長く伸びた枝。花を落とした今も、静けさと風格を湛えていた。
「……馬場桜、か」
江戸時代、「桜の馬場」と呼ばれた場所に由来する名。
かつて樹齢百年を超える枝垂桜があったが、今立つ木は二代目。八十年近くを重ねた枝ぶりは、歴史の続きを静かに語っているようだった。
「春にはここも、きっとすごいんだろうな……」
ポケットの中で、何かがかすかに動く気配。
背後――リュックの中からだった。
(……ん?)
不審に思い、渉はリュックをそっと下ろす。
ファスナーの隙間から、見慣れた銀髪がぴょこんと覗いた。
「……お前、なんでここにいる」
「てへっ♡ 気づかれずに来られたら、秋のおやつ権もらえるかと思って〜」
フウだった。研究室の鉢にいるはずの植物精霊が、フィギュアを器に枝分け身として現れている。
「黙ってついてくるな。一人で静かに歩こうと思ってたんだ」
「だって〜小石川後楽園って聞いたら我慢できなかったの! 桜いっぱいだし!」
渉はため息をつきつつも、今日はいてくれてもいい気がした。
風が吹き抜け、枝がさざめく。
そのとき、声が届いた。
低く、優しい声――確かな言葉だ。
渉の胸に直接届く。
> 「春の記憶を忘れないで」
> 「いつでも見守っているから」
> 「土の奥が騒いでいる。けれど、今は大丈夫」
渉はそっと目を閉じ、聞き取る。
植物たちの声が、戻ってきている――安堵が胸を満たす。
(……ありがとう)
目を開けると、朱の葉がひらりと舞い落ちた。
*
ベンチに戻り、渉はスマホを手に取る。
陽は西に傾き、足元の曼珠沙華も淡く染まっていた。
柳教授からのメッセージが届く。
> 『ご苦労さまでした。お茶屋でも寄って、ゆっくりしてください。今のうちに季節の和菓子も楽しんでおくといいですよ』
渉は思わず小さく笑う。
変わらない、穏やかな文面。緊張を察してくれている優しさがにじむ。
胸ポケットから、フウが顔をのぞかせる。
「わーい! お茶屋だって〜! 和菓子も!? 入ろう、渉〜!」
「……お前、食べるために潜んでたのか? そもそも食べられるのか?」
「そんなの関係ないも〜ん! 秋は柿も栗も芋ようかんも美味しいよ〜!」
渉は軽くため息。だが頬は少し緩んでいた。
「……わかった、茶屋に行こう。でも声は控えろよ」
「うふふ♡」
スマホに新しいメッセージ。
颯汰:『いまからそっち行きます!!』
数秒後、追い打ち。
颯汰:『茶屋行くなら言ってくださいよ〜! 秋限定の和菓子チェックしておいてください!!』
渉は無言でスマホを伏せる。
ポケットのフウがくすくす笑う。
「来ちゃうって〜! お茶屋組、集合〜!」
あきれながらも、渉は立ち上がった。
茶屋へ向かう足取りは、さっきより少しだけ軽い。
秋色の空が、静かに庭を染めている。
風に揺れる曼珠沙華の赤は、儚くも確かに――次の季節を呼ぶ色だった。
渉はそっとポケットに触れ、フウの笑い声を胸に留める。
明日には、また何かが始まるのかもしれない。
でも今は、ただ秋の庭とおやつを楽しむだけだ。
びいどろ茶寮、涵徳亭へと向かう。
《花守り散歩*小石川後楽園 完》
次回『第4章:命を繋ぐ桃農園』へ続く。




