エピローグ
研究室の窓から差し込む午後の光は、机の上の書類を柔らかく照らしていた。静まり返った部屋の空気に、古い本と紙の匂いが溶け込んでいる。
柳教授の机の周りには、渉と颯汰、そしてフィギュア姿のフウが集まっていた。淡い陽光を受けたフィギュアの羽衣がきらりと反射し、その中でフウは落ち着きなく足をぶらつかせている。
ドアがノックされ、重厚な音が響いた。入ってきたのは、紺のスーツに身を包んだ三十代後半ほどの男性。薄いグレーのネクタイを整え、控えめに頭を下げる。その仕草に堅さはあったが、眼鏡の奥の瞳は柔らかさを帯びていた。視線が自然と机の隅に置かれた観葉植物に留まる。
彼の後ろから、ショートボブの女性が一歩遅れて入室した。冷ややかな雰囲気をまとい、軽く頭を下げる。
「遅くなりました。みなさんお揃いのようですね。植物庁の早瀬です。こちらは部下の立見屋」
「立見屋です。初めまして」
彼女の短い言葉と共に、タブレットが胸元でかすかに揺れる。固く結ばれた口元と真っ直ぐな視線が、彼女の性格を雄弁に物語っていた。
「早速ですが、先日ご提出いただいた報告書、そして柳教授からのご依頼について報告に参りました」
早瀬がタブレットを広げる。画面にはグラフや地図が並び、数値の変化が明示されていた。
「御神木周辺の調査結果ですが、事前調査から顕著な変化が見られました。さらに集音路さんが報告してくださった隣町での異常現象も踏まえ、開発計画は縮小されることとなりました。理由は『環境保全の観点から』という形です」
その言葉に、立見屋が小さく「表向きは……ですけど」と付け加えた。
「うわぁ、超ストレート……」
颯汰が小声で渉にささやく。
早瀬は手元のタブレットを伏せ、眼鏡の奥の視線を渉へと向けた。
「ここからはオフレコでお願いしたい。……柳教授、本当にいいのですか?」
「ええ、構いません。彼らには知る権利があります」
教授の声は穏やかだが、どこか揺るぎない確信を帯びていた。その姿に、渉は思わず見とれる。まるで長年の森羅を見守ってきた古木のように――教授は、何もかもを知っている人のように思えた。
「分かりました。我々植物庁は公式の立場とは別に、精霊に関する記録や証言を長年、水面下で集め続けてきました。それは柳教授の強い働きかけがあったからです」
立見屋が頷き、補足する。
「教授は庁に籍を置いていた頃から、精霊研究の第一人者でした。公式記録には残っていませんが……教授がいなければ、今ある基礎知見の半分も得られていないでしょう」
柳教授は軽く肩をすくめ、苦笑した。
「昔話ですよ。ただ、庁と完全に縁を切ったわけではありません。今も外部協力者として、細々とですが関わらせてもらっています」
渉はごくりと唾をのんだ。教授が庁とつながっていたからこそ、今回の調査が成立した――では、御神木のことも、教授はすでに知っていたのだろうか? 頭の奥でそんな疑念が浮かび、胸がざわついた。
早瀬が静かに言葉を重ねる。
「柳教授は、我々にとって古き友人でもあります。だから今回、御神木から伝言があると耳にしたとき……驚きよりも納得の方が大きかった」
「ちょっと待ってください。僕から教授には、まだ伝言の内容は――」
渉の抗議を遮るように、早瀬は眼鏡を押し上げた。
「集音路くん。その伝言とは……『盟約は守られた』ということですよね?」
「あ……はい……」
部屋に静寂が落ちた。渉は背筋に冷たいものを感じた。どうして教授は、御神木が告げた言葉を知っているのだろう?
そんな渉の動揺を見透かしたかのように、颯汰が「……やっぱり教授は賢者だな。俺たちが追いつくより先に、ずっと遠くを見てる」とぽつりつぶやいた。
柳教授は答えず、ただ静かに目を閉じていた。
しばしの沈黙の後、渉は迷った末に口を開いた。
「……精霊王について、植物庁は何か知っているんですか?」
空気がぴんと張り詰める。フウの瞳がわずかに揺れ、柳教授が静かに渉を見やった。その眼差しに背を押され、渉は覚悟を決める。
「神社で水の精霊に会ったとき……言われました。『精霊王の復活が近い』と」
早瀬の手が止まった。眼鏡の奥で瞳が揺らぎ、立見屋が息を呑む。
「……そこまで、明言したのですか」
彼は再びタブレットを閉じ、慎重に言葉を選ぶように語った。
「記録には精霊王の伝承が残っています。ですが庁の公式見解は、あくまで象徴的存在にすぎない、と。しかし……精霊自らが“復活”と告げたのなら、それは均衡そのものが揺らぐことを意味するかもしれません」
渉の背筋を冷たいものが走る。水の精霊の声、御神木の沈黙――その重みが再びのしかかる。
「だったら、そこにいるおチビが一番詳しいんじゃないですか?」
「立見屋くん!」
ぶっきらぼうに放たれた視線が、フィギュアのフウに注がれる。
フウはぱちくりと瞬きをしてから、むっと肩をすくめた。
「んー……どうだろね。聞いたことあるような、ないような。……それよりチビ言うな!」
渉が前のめりになる。
「フウ、知ってるんだろ?」
フウはふわりと笑みを浮かべ、すぐにそっぽを向いた。
「ん? ほんとに知らないよ」
けれどその横顔は、不自然なほど硬く閉ざされていた。胸の奥に何かを押し込めるような影が、ほんの一瞬、瞳に宿る。
渉が食い下がろうとしたそのとき――柳教授の穏やかな声が遮った。
「集音路くん。精霊には、それぞれ守るべきものがあるのです。それ以上を求めれば、かえって壁を作ることになりかねません」
フウが柳教授を見上げた。その瞳に、一瞬だけ、感謝の光がきらめいた。
話題が落ち着いたところで、早瀬が言葉を継ぐ。
「榊理乃氏は、この件から外れることになったそうです。事務所も体制を見直す方向と聞いています」
渉は小さく息をついた。榊の真意は分からぬままだが、どこか救われた気もした。
フウが足をぶらぶらさせながら、無邪気に口を開く。
「梶原、木村、榊の三人って幼馴染みなんでしょ? いつか、また仲良く笑えるといいね」
渉は言葉を返せなかった。ただ、フウのような存在に言われると、不思議と信じてみたくなる。
*
植物庁の二人が去り、研究室に再び静けさが戻った。
渉は意を決し、柳教授へ向き直った。
「教授……御神木からの伝言ですが、どうしてご存知だったんですか?」
柳教授は静かに目を細め、窓の外へと視線をやった。
「……正確には知っていたのではありません。ただ、そうなるだろうと予感していたのです」
「予感……?」
「御神木は人の言葉を選びません。しかし、盟約にかかわる言葉だけは、必ず誰かに託される。私は、かつてその立ち会いをしたことがあるのです」
教授の声音は淡々としていたが、その奥に長い年月を背負った影が差していた。渉は思わず身を乗り出す。
「それって……教授も御神木から直接、言葉を聞いたことがあるんですか?」
柳教授は小さく笑みを浮かべ、首を横に振った。
「いいえ。私が耳にしたのは、言葉そのものではなく――盟約を受け取った者の沈黙でした」
渉は息をのんだ。盟約。御神木。沈黙。
バラバラの断片が、頭の中で線を結びかける。だが教授はそれ以上は語らず、静かに続けた。
「集音路くん。知識は人を導きもすれば、惑わせもします。君はまだ若い。今は断片のすべてを知るよりも、ひとつずつ確かめることが大切でしょう」
その言葉に、渉は返す言葉を失った。
黙り込む自分の隣で、颯汰がぽつりと呟く。
「……やっぱり教授って、賢者みたいだな」
フウが腕を組み、うんうんとうなずいた。
「でしょでしょ。あたしもそう思う」
柳教授は苦笑しながら、二人の視線をやわらかく受け止めた。
「お、おい! フウ!」
颯汰の声に振り向くと、彼の手にはフィギュア――セレス=アルフィリアが握られていた。表面には細かなヒビが走っている。
「ヒビが……! 限定版なのに! オレの宝なのに――!」
颯汰は蒼白になり、そのまま椅子にへたり込む。フウは悪びれる様子もなく、ひらひらと手を振った。
「大丈夫、大丈夫。これくらいなら、まだ動けるよ」
「問題はそこじゃねぇぇぇ!」
颯汰の絶叫が研究室に響き渡る。書類が微かに揺れ、机上のペン立ても小さくガタリと音を立てた。その瞬間、重苦しかった空気はふっと軽くなり、笑いが零れたようだった。
渉は苦笑し、机に肘をつく。視線は窓の外に向かい、秋の柔らかい光が差し込む。風がカーテンを揺らし、机の上の書類もほんの少しそよぐ。
不安はまだ尽きない。水の精霊も、封印の謎も、精霊王の存在も……何ひとつ解決していない。だが、確かなものもあった――仲間がいること。
フウは軽やかに跳ね、フィギュアの上でちょこんと座り直す。
「ほら、見てよ。まだまだ大丈夫。あたしたち、これからも一緒に進むんだから!」
颯汰は顔をしかめつつも、少し笑いながらフィギュアを見つめる。
「……やっぱり、お前は手強いな」
渉は小さく頷き、胸の奥に暖かさが広がるのを感じた。仲間と共に歩む未来――まだ見えない困難が待ち受けているとしても、この瞬間には確かな絆があった。
その時、柳教授のデスクの端に置かれた小さな箱が目に入った。開けると、桃の香りがふわりと漂う。颯汰の実家から届いたばかりの果物だった。箱には小さな紙が添えられている。
『教授、いつもお世話になっています。桃が少しでもお役に立てれば幸いです――桃木家』
フウがそっと渉の肩に触れた。
「見て、あれ……また、始まるのかもね」
紙越しに漂う甘い香りと共に、桃の樹を揺らす精霊の気配が微かに感じられた。研究室の安らぎの中に、次の物語の足音が静かに忍び寄っている――そんな予感が渉の胸に広がった。
これにて「第三章 御神木のクスノキ」は終わりとなりますが、
物語はまだまだ続きます!
次回はハロウィンスペシャルです!
10月31日(金)更新します。どうぞお楽しみに!!




