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集音路渉 花守り日誌【毎金更新中】  作者: つきや
第三章 沈黙のクスノキ

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第六話 黒い思惑と秘密

「渉、こっち!」


 二人は御神木の根元を後にし、山道を下っていた。

 フウは元気そうに見えたが、どこか緊張感をまとっている。そして神社の山ではなく、隣の山で木々に聞き込みをしていたのだと教えてくれる。


「こっちの山のみんなは、ちゃんと教えてくれた!」


 谷を越え、隣町に近づくにつれ、空気が湿り、独特の重みを帯びてくる。

 鼻と口を覆いたくなるほどの異臭に視線を巡らせる。


「……なんだ、この臭いは……」


 山から流れる小川は透き通った水ではなく、茶褐色に濁っている。水面には微かな泡が漂い、揺らめく波紋が、まるで不安定な意思を映し出しているかのようだ。

 川沿いの畑には倒れた作物が散らばり、湿った土が小規模に崩れている。自然の歪みが、目に見える形で現れていた。


「……フウ、これって……」


 肩に乗ったフウは、いつもの調子で渉をからかうこともなく、顔を赤くして黙って下を向いていた。小さく深呼吸をして、近くの木に触れ、そっと話しかける。


 《この状態はいつから?》


 《……太陽が三回昇った日から……急に水が汚くなった……土も変わった……》


 《なにが原因?》


 《……精霊……いつもと違う精霊がやって来た》


 渉は耳を澄ます。精霊が、こんなにも自然に影響を与えられるのか――水を乱し、土を変える。科学では説明できない力。


 フウは下を向き、かすかに息を吐く。


「……精霊には力がある。けど、普通は人間の生活をここまで脅かしたりしない。あたしたちが使うと、もっと優しく働く。……でも、()()()()は違うみたい」


「……あの精霊って、誰なのか知ってるのか?」


「うん。渉も会った、あの綺麗な水の精霊。みんなに聞いたから間違いない。精霊は、目的のためなら人間や自然を操ることもいとわない……でも今回の現象は、普通じゃない」


 渉は周囲を観察する。倒れた作物、崩れた土砂、濁った水。全てが精霊の意思で動いたものかもしれない。


「どうしてこんなことを……」


 フウは肩を落とし、苦しそうに顔を歪める。「本人は気づいてない。力が暴走してるんだと思う。でも、仲間の木々や土を傷つけるなんて……普通じゃありえない」


 渉は息を呑む。


「……水の精霊は意図的でも、完全には制御できてないのか……」


 フウは静かに頷く。


「だから注意が必要。沈黙の理由も、この影響と関係があるかもしれない」


 谷の斜面で小規模な地滑りが起き、土砂が音を立てて転がる。渉とフウは思わず身をすくめる。自然の力の前に、人間はあまりにも無力だ。


 渉は近くの木々や草に触れ、声を耳に集中させる。葉の揺れ、茎のざわめき、土の温度や湿り気――科学では計れない情報が、確かに届く。


「……やっぱり、精霊のこと、僕は何も分かってないな」


 しかしその能力の存在が、今この状況では救いになっていることも事実だ。渉は深く息をつき、肩の力を抜く。


「フウ、ありがとう……君がいてくれて、本当に助かった」


 フウは笑みを浮かべ、肩で水滴を弾く。


「あたしの力も、これからはフルで使うからね」


 渉は微かに頷き、視線を濁った水面に移す。波紋の奥に、黒く揺れる影がある。形は定まらず、確信は持てないが、その存在は確かにそこにあった。


「……あれも精霊なのかな」


「うん。でもあれは、形が崩れてしまった精霊……もう元には戻れない。水の精霊が暴走して、あんな結果を招いた……」

 

 渉は木々の声と目の前の光景を重ね合わせる。形を保てず揺れる精霊、濁った水、倒れた作物。科学では測れない世界に触れながらも、理解できる部分を確かめることができる。その感覚に、胸の奥に恐怖と安堵がないまぜに広がった。


「フウ、御神木のところに戻ろう」


 渉とフウの目は、神社のある山へと向けられた。クスノキが沈黙する理由の断片が少しずつ、しかし確実に姿を現しつつあった。


 *

 

 夕闇に沈みはじめた参道を、渉とフウは駆け上がっていった。

 鳥居を抜けると、そこには異様な影が待ち受けていた。


 御神木へと続く石段の中央に、斧を肩に担いだ木村篤史が立っていた。

 額には脂汗が浮かび、瞳は濁って焦点を結ばない。いつもの気さくな笑みは消え、獣じみた歪んだ口元がそこにあった。


「……木村さん?」


 渉が思わず呼びかける。だが返ってきたのは、どす黒い言葉だった。


「御神木さえなければ……反対派は消える。俺の夢――この町を生き返らせるんだ! 邪魔するものは全部切ってやる!」


 斧の刃がぎらりと夕光を反射し、渉の胸を凍らせる。

 フウが小さく唸った。


「……操られてる。水の精霊に」


 確かに、木村の声には残響が混じっていた。水底から響くような、不自然な二重の声。


「やめろ、篤史!」


 石段の下から鋭い声が飛んだ。

 駆け上がってきた梶原悠真が、渉の前に立ちはだかる。


「御神木を切っても何も変わらない! 誰も幸せになんかならない! お前だって分かってるだろ!」


「黙れ! 俺は……俺は……!」


 木村は頭を抱え、斧を振り上げかける。だがその刃は宙を迷い、落ちきれない。

 梶原はさらに一歩、踏み込んだ。


「夢を叶えたいなら、俺も一緒に考える! 俺たちは……まだやり直せる!」


 その言葉が、濁った瞳の奥に揺らぎを生んだ。

 斧が石段に落ち、鈍い音を響かせる。


「……俺は……なにを……」


 次の瞬間。

 木村の背後に、濁流のような影が立ち上がった。


 黒く揺らめく水柱が姿を現す。


『くだらぬ。人の心など容易く操れるのだ』


 冷たい声が境内を満たし、梶原が木村を抱きかかえる。

 渉とフウは、影をまっすぐに見据えた。


 夜気を含んだ一陣の冷たい風が吹き抜ける。

 葉擦れの音が途絶え、闇が張りつめる。水の匂いが濃くなり、湿り気が肌にまとわりついた。


「……渉、気をつけて」

 

 フウが小さく息を呑む。


 鳥居の影に、揺らめくものが現れた。水を垂らした布を絞ったような滴り、滴るたびに形を変えながら、それは人の輪郭を模していく。だが目も口も定かでなく、ただ空洞の闇が渉を射抜いた。


「人間……」

 

 低く響く声が夜空を満たす。その声は水底のように濁っていて、同時に氷の刃のような冷たさを孕んでいた。

 

「おまえたちの欲望は終わりなき濁流。森を枯らし、川を汚し、土を食い荒らす。……滅びればいい。すべて」


 渉は思わず息を呑んだ。

 怒りとも憎しみともつかぬ感情が、水の精霊の輪郭からじわじわと溢れ出し、参道の石畳を濡らしていく。


「……違う」渉は震える声で言葉を返した。「人間がみんなそうじゃない……」


「否定するか。ならば見よ。封印が解ければ、この山も、街も、すぐに呑み込まれる。精霊王が復活すれば、封じられた力が解き放たれ、人間の抵抗など無意味だ」


 ぞっとするほど澄んだ声に、渉の胸が重くなる。

 理解を超えた存在の意思。だが、聞き逃せない言葉。


「精霊王……?」


 呟いた瞬間、背筋に冷気が走った。


 水の精霊の体が一瞬膨らみ、内部に渦のような暗い影が覗いた。

 そこには、ただならぬ力が眠っている気配があった。渉の胸にざらりとした恐怖が広がる。だがその口ぶりにはどこか歪んだ響きも混じっていて、冷徹な計画性というより、不安定さ、苛立ちが際立っていた。


 フウが渉の肩の上で指を鳴らす。

 

「渉、気をつけて。あれはもう……理屈が通じない。怒りに飲まれてる」


 渉はごくりと唾を飲み込み、濁った水の精霊と正面から向き合った。


「お前は古種か……まだ生きていてとはな……精霊界の役立たずが!」


 精霊の体が崩れ、水しぶきのような刃が参道を走った。石畳が裂け、濡れた破片が飛び散る。

 渉が身を竦めたその前に、フウが飛び出した。


「させない!」


 フィギュアの身体を器にしているとは思えぬほど、フウの動きは素早かった。枝分け身から伸びる薄緑の光が、水の刃を受け止め、弾き飛ばす。石畳に散る水しぶきが夜気を震わせた。


「すごい……!」


 渉が思わず声を洩らす。

 フウは得意げに振り返り、にっと笑った。

 

「あたしだって、守れるんだから!」


 だがその光は次第に弱まり、枝が揺らぐように力を失っていく。器であるフィギュアの表面にひびが走り、動きが鈍くなった。


「……やばっ、時間切れだ」


 精霊が再び渦を巻き、濁流のように迫る。渉は後ずさった。もはや抵抗は不可能か――その時。


 参道の両脇に立ち並ぶ木々が、一斉にざわめいた。

 風もないのに枝葉が激しく揺れ、ざあっと波打つ音が辺りを覆う。根が地を震わせ、樹皮が軋む。その動きはまるで意思を持つかのようだった。


 そして、拝殿奥にそびえる御神木――クスノキが低く唸りを上げる。

 重い鼓動のような音が地を伝い、参道全体に響いた。瞬間、精霊の動きがぴたりと止まる。


「……っ」

 

 水の精霊の声がわずかに歪んだ。


「……こんな時ばかり出しゃばりやがって、この老木が!」


 御神木のざわめきに押し返されるように、水の精霊の体が揺らぎ、形を保てなくなっていく。最後に渦の奥から絞り出すような声が響いた。


「封印が解かれるのは……時間の問題だ……」


 その声を残し、濁った影は霧散した。


 静寂が戻った参道に、渉は大きく息を吐いた。

 フウの器は完全に力を失い、渉の手のひらの中で小さく沈黙している。


 渉は御神木の前に立ち、深く頭を下げた。

 

「……さっきの水の精霊が、地下水を乱したんですね」


 ざわり、と枝葉が応えるように鳴った。肯定だった。

 渉の胸に冷たいものが広がる。やはり原因は精霊の側にある。だが、それ以上に自分の耳に届いたのは――。


『人の子よ』


 胸の奥に直接届くような低い声が響いた。御神木そのものの声、クスノキがゆるやかに語る。

 

『精霊の乱れは小さな綻びから始まった。……だが、それを導いたものがいる。真に恐れるべきは、影の奥に潜む意志だ』


 渉は息を呑む。

 

「影の……意志? 精霊王とは……何なんですか」


 しかしそれ以上は答えなかった。御神木は枝を揺らすだけで、再び沈黙に包まれる。その重い沈黙が、逆に言葉以上の意味を帯びていた。


 やがて――『柳博士に伝えよ』


 その名がクスノキの声に乗った。


『古き友よ、盟約は守られた、と』


 その言葉を聞いた瞬間、渉の胸は大きく揺さぶられた。


 柳教授——。研究室では常に穏やかで、誰に対しても礼を失さない賢者のような人物。渉にとっては、学問の道を照らす導き手であり、何よりも尊敬する存在だ。


 だが、御神木が「古き友」と呼ぶほどの絆を持っていたとは想像もしていなかった。人と木が、時を超えて約束を交わす。そんな伝説めいた出来事が、教授の日常の背後にひそんでいたのか。


 驚きがまず胸を占め、それにすぐ敬意が混ざる。あの教授ならば、と自然に思える自分に気づき、渉は小さく息をついた。


「はい。必ず伝えます」


 自然と御神木に渉は頭を下げていた。

 不意に手の中のフィギュアがかすかに光を放ち、フウの声が戻ってくる。

 

「渉……ごめん、守り切れなかった」


 渉は首を振り、微笑んだ。

 

「違うよ。フウがいてくれたから、僕はここに立ててる」


 二人の視線が夜空を仰ぐ。

 多くの謎が確かに広がりつつある。だが、渉の胸には不思議と恐怖だけでなく、進むべき道が照らされた感覚も芽生えていた。

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