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集音路渉 花守り日誌【毎金更新中】  作者: つきや
第三章 沈黙のクスノキ

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第五話 絆と誘惑

 霧楠谷のプレハブ事務所。机の上には井戸の再調査で得られた数値が並んでいる。窓の外では、遠く重機の低い唸りと、山裾で続く反対派のデモの声が入り交じっていた。


 渉は報告書を何度も読み返していた。だが結論は冷酷なまでに単純だ。

 ――異常なし。

 それだけ。


「……どこにも異常がない」

 

 唇の裏でかすれるように呟いた声は、自分でも信じられないほど乾いていた。

 

「これじゃ、科学的には工事を止める理由がない……」


 机の端では、セレス姫のフィギュア姿のフウが、書類を覗き込むように腰に手を当てていた。二十センチの小さな体に似合わぬほど、彼女の表情は不満げだった。銀髪が机の照明を受けてきらりと光る。

 

「でも、水の精霊は言ったでしょ。クスノキは開発のせいで枯れてるって」


 そのひと言に、渉は胸の奥で何かが弾けるのを感じた。ずっと抑えていた苛立ちが、一気に表へ溢れ出す。


「証拠がなければ、誰も動いてくれないんだ! 木村さんも榊さんも、調査会社だってそうだ! 科学で証明できなければ、ただの空想話でしかない!」

 

 机を叩くと、資料が揺れ、小さなフウがバランスを崩して尻もちをつく。


「空想ですって?」

 

 彼女はすぐに立ち上がり、薄緑のドレスの裾を揺らしながら精一杯睨み上げてくる。

 

「精霊の声を、渉はこれっぽっちも信じないの?」


「じゃあ聞くけど!」

 

 渉はさらに机に拳を叩きつけた。フィギュアサイズのフウが思わず耳を塞ぐ。

 

「なんで井戸は何も示してくれなかった!? 水脈は枯れていない、汚染もない! 科学的に異常はゼロなんだ!」


 フウは小さな肩を震わせ、必死に言葉を探す。

 

「それは……渉が信じないからだよ! 人間の数字にばかりすがって、耳を閉ざしてるから!」


「信じる信じないの問題じゃない!」

 

 渉の怒鳴り声に、フウは机の上でぐっと両手を握りしめた。

 

「僕は科学者なんだ! 根拠もなしに『精霊が言った』なんて理由で人を動かせるわけがない!」


 その言葉は、自分自身の胸を刺す刃にもなった。植物の声を聞き取れるはずの自分が、いま御神木から何一つ聞き取れない。だからこそ科学にすがるしかないのだと、必死に言い聞かせていた。


 小さな体を震わせ、フウは叫ぶように返した。

 

「だったら――渉はただの人間よ! 植物の声が聞こえるって、誇ってたんじゃなかったの? 今のあなたは、自分でその力を捨ててる!」


 事務所の中に沈黙が落ちる。重機のエンジン音とデモの拡声器の声が、遠いはずなのにやけに耳障りに響いた。


 渉は大きく息を吐き、椅子を軋ませながら立ち上がった。拳がわずかに震える。

 

「……いいさ。じゃあもう一度、水の精霊に会って直接聞いてやる。証拠があるなら、僕の目の前で示せばいい」


 フウは悔しさを隠すように顎を上げ、小さな身体で精一杯睨み返した。銀髪がふるふると震える。

 

「ええ、確かめなさいよ! 渉がどれだけ間違ってるか、わかるから!」


 無言のままリュックをつかみ、扉を勢いよく開けた。山の冷たい空気が胸に飛び込んでくる。

 机の上から慌てて飛び降りたフウが、ドレスの裾を翻しながら追いかける。


 二人の足音がプレハブを離れ、山道へと響いていく。目指すは――あの神社。

 御神木のそばにいる水の精霊に、もう一度真実を問いただすために。


 *

 

 神社の境内へ着いたときには、すでに辺りは夕暮れに沈みかけていた。

 秋風が木々の間を吹き抜け、御神木のクスノキの影が長く伸びている。渉はフウとともに、その根元に立った。


 ざわ……ざわ……


 突風が枝を揺らし、木々たちが何かを訴えかける。しかしその声は断片的で、意味を結ばない。


《%=§……W\$\$……%%……》


「フウ! 彼らはなんて言ってるんだ!?」


「わからない……こんなの、初めて……何かを伝えようとしてるのに……!」


 フウが渉のジャケットの内側からひょこりと顔を出す。彼女の声はわずかに震えていた。


 その瞬間、風がぴたりと止み、池の水面に静かな波紋が広がった。音もなく揺れる水の中心から、透明な存在がゆっくりと姿を現す。水の精霊だった。


「貴方が何を知りたいのか、知っています」

 

「じゃあ見せてくれ、開発が原因で御神木が死にかけているという証拠を」


「……御神木は役目を終えたがっているのです」


 水の精霊の囁きは、池の波紋のように淡く広がった。

 渉は思わず一歩踏み出す。


「それが証拠か? それなら、ただのお前の言い分だ! 数字も、資料も、何も示してないじゃないか!」


 声が境内に響き渡り、カラスが枝から飛び立った。

 フウは驚いたように目を瞬かせ、それから必死に渉の袖を引いた。


「渉、やめて……! 精霊の言葉は、数字以上の意味を持ってるの。どうして、わかってくれないの!」


「意味だと?」渉は振り払うように声を荒げた。「そんな曖昧なものに頼ってどうする!? 君はただ――人を惑わせるだけだ!」


 はっとして、言葉を呑み込む。だがもう遅かった。

 フウの表情から血の気が引いていく。小さな肩がかすかに震え、目尻に光るものがにじんだ。


「……惑わせる、だけ?」


 その声は風にさらわれるほど小さかった。


「あたしは、渉の力になりたくてここにいるのに。……渉にとってあたしは、その程度だったんだね」


 銀髪が夕日に赤く染まる。フウは小さな唇を噛み、背を向けた。


「もういい。……勝手にすれば」


 次の瞬間、彼女の姿はふっとかき消えるように暗闇に溶け、ジャケットの内からも机の上からも、その気配がなくなった。


 境内に残されたのは渉と、水面に漂う精霊の気配だけ。

 夕暮れの静寂が、余計に渉の胸を締めつけた。


 *


 同じ時刻。霧楠谷のプレハブ事務所前。


 山裾の狭い道路は、人波と怒号に埋め尽くされていた。

 手書きの横断幕には「自然を守れ!」「御神木を切るな!」と大書され、太鼓のリズムが地鳴りのように響いている。風に乗って、プラカードがばたばたと揺れた。


 その先頭に立つのは梶原悠真だった。マイクを握り締め、額には汗が光っている。

 

「見ろ! この谷は俺たちのふるさとだ! 数値や利益で測れないものを、どうして壊せるんだ!」


 声に呼応するように「そうだ!」と群衆が叫び、拳がいくつも突き上げられる。


 その正面、プレハブの前に木村篤史と榊理乃が立っていた。

 木村はスーツの上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めている。冷静を装おうとするが、苛立ちが顔に滲んでいた。榊は白いヘルメットを抱え、硬い表情で人波を見つめていた。


「梶原先輩……」榊の唇が小さく動く。だが彼女の声は喧騒にかき消される。


 木村が一歩前へ出て、拡声器を握った。

 

「みなさん! 調査の結果、この開発には問題がありません! 科学的にも、安全性は証明されている!」


 しかし群衆の怒号はやまない。石を投げる者まで現れ、プレハブの壁に乾いた音が響いた。


「科学だ? そんなもの信じられるか!」梶原の怒声が群衆をさらに煽る。


 木村の目が険しくなる。

 

「……お前のやり方はただの感情論だ。悠真、お前は昔からそうだろ。気持ちだけで突っ走って、人の迷惑を考えない」


 梶原の表情が一瞬こわばる。

 その隣で榊が思わず木村の袖を掴んだ。


「篤史さん、やめて……!」


 だが、木村は止まらない。

 

「逆恨みしてるんだろ? 理乃が俺と付き合ってるから。学生の頃から彼女を追いかけてたお前が、今も忘れられないから!」


 その言葉に空気が凍りつく。群衆のざわめきが、波のように広がった。


 梶原はマイクを下げ、じっと榊を見た。夕陽がその横顔を赤く染める。

 

「……理乃。昔のことはもういい。でも、お前があいつの言葉を信じてるなら――俺は絶対に許せない」


 榊の胸に痛みが走る。彼女は答えられず、ただ拳を握りしめるだけだった。


 デモの怒号はさらに激しくなり、警備員が必死に人の壁を作る。

 人間同士の亀裂が、御神木を巡る対立に新たな火種を投げ込もうとしていた。


 *


 ひとり残された渉は、御神木の根元に背を預けるように座り込んでいた。

 境内にはひんやりとした風が通り抜ける。夜の気配が忍び寄るにはまだ早い時刻だというのに、周囲の空気は妙に冷たく重い。額に手を当て、深く俯いた。


「……どうすればいいんだ……」


 科学的な調査では何も異常は見つからない。だが、御神木は確かに沈黙し続けている。

 人としての理性と、耳に届いた精霊たちの声。そのあいだで、答えの出ない思索はただ渉を消耗させていく。


 その時――。


「……もし、本当に精霊のことを知りたいなら――」


 不意に、背後から囁く声がした。

 驚いて顔を上げると、御神木の影の中から榊理乃の姿が現れた。凛としたスーツ姿も、見慣れた眼差しも、まるで昼間のまま。しかし、その佇まいには奇妙な艶やかさが混じっていた。


「さ、榊さん……? どうしてここに……」


 問いかける声は、自分でも驚くほど弱々しい。彼女は薄く笑みを浮かべ、ゆっくりと近づいてきた。


「集音路さん……あなた、もっと精霊のことを知りたいのでしょう? 御神木が枯れる理由も、研究では掴めなかったはず。けれど……私なら教えてあげられる」


 囁きは甘く、耳の奥に直接届くようだった。渉の胸の奥にある「知りたい」という衝動を、正確に抉る言葉。


「……あなたが求めている答えを教えてあげる」


 榊は一歩、また一歩と近づいてくる。

 彼女の声は、かすかに水面を揺らすように耳の奥で震えた。


「条件を飲めば、工事は止められる。御神木も守れる。……それに、精霊の真実も教えてあげる」


 渉の胸がどくりと高鳴る。

 彼女の言う「精霊の真実」という言葉はあまりに甘美で、抗いがたい誘惑だった。


「精霊の……真実……?」


 思わず繰り返した声が震える。科学で積み上げてきた知識の壁の向こう、決して届かないはずの領域が、いま扉を開いて待っているかのようだった。


 榊は一歩、また一歩と近づき、吐息がかかるほどの距離で囁く。


「そう。人間の理屈では届かない領域。けれど、あなたなら手にできる。――私たちの側につけば」


 榊の瞳が水を湛えたように揺らめいた。


「僕が……あなたの側に……?」


「人間はあなたを理解しない。けれど、精霊なら……本当の力も、秘密も、すべてを知ることができるの」


 その瞬間、背後で水の滴る音が響いた。振り向くと誰もいないのに、影だけが水面のように揺らめき、形を変えていく。榊の瞳が一瞬、深い蒼に染まり、声が低く変わる。


「ただし拒めば……研究も、仲間も、すべて無に帰す。人間の愚かさに巻き込まれて、あなた自身も沈むだけ」


 渉の視界が揺れた。彼女の言葉とともに意識が飲み込まれていく。声を出そうとしても喉が張り付いたように動かない。


 目の前に立つ榊の姿が揺れている。そっと彼女が手を差し伸べてくる。


「集音路さん、答えは簡単よ。あなたは――こちら側に来ればいいだけ」


 その指先が渉の頬に触れようとした瞬間、渉の掌に刻まれた桜の痣が淡く光を放った。薄紅の花弁が一瞬、幻のように舞い散る。


「――っ!」


 榊の姿が水面の幻影のように波紋となって崩れ霧散した。

 だが渉の意識は、糸が切れたように暗闇へ滑り落ちていく。


「う……っ」


 膝が砕け、御神木の根元へと倒れ込んだ。

 夕暮れの境内に、ただ風のざわめきだけが残った。

 最後に脳裏をかすめたのは、フウと交わした言葉だった。


 *


 渉の意識は深い闇の中を漂っていた。

 あの榊の声、揺らめく影、脳裏に突き刺さった誘惑……すべてが遠く霞むように消え、残ったのは静寂だけだった。


 しかし、その静寂の奥から、かすかな声が届く。

 ――「彼女を信じてあげて」


 渉はその声に反応する。どこか懐かしい、柔らかく温かい感触。目を閉じたままでも、心の奥底に届くその声に、忘れかけていた感覚が呼び覚まされる。

 目を覚ませと迫るような力ではなく、そっと背中を押すような優しさで。


「……フウ……を……」

 

 渉はかすかに呟き、意識の糸をつなごうとする。


 次の瞬間、顔に冷たい水滴がかかる。

 唐突な感触に身体が跳ね、渉はゆらりと意識を取り戻した。

 視界に映るのは――薄緑のドレスに滴をまとったフウの姿だった。小さな体から、精霊の力が滲むように揺らめいている。


「……フウ……!」

 

 渉は手を伸ばそうとしたが、膝が震え、まだ完全には立てない。

 フウがその手を見上げ、薄く微笑む。

 

「心配しないで。あたしがいるから」

 

 枝分け身の力で器を通じ、渉の力を支えるように軽く触れる。

 渉は息を整えながら、ふと目の前の小さな体を見つめる。

 

「……ごめん、フウ。あんな言い方……」

 

 声に消え入りそうな後悔が混じる。

 フウはくすっと笑い、銀髪をかき上げながら言った。

 

「……あたしも悪かった。あんなに突っかかって」

 

 小さな手で渉の腕に触れ、軽く押す。

 

「これからは、二人でやれば、きっとできる」


 渉は深く頷く。

 身体に残る震えと、心の奥の不安を押さえつけながら、再び立ち上がる決意を胸に抱いた。


 その視線の先、遠くの水辺に濁りが混じる影が見える。

 水面は穏やかに揺れているが、そこに潜む黒い気配は、水の精霊の存在をほのめかしていた。

 倒れた直後の幻惑から救われた安堵の陰で、まだ警戒すべき相手がいることを渉は知らない。

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