第四話 二つの正論
翌朝。
渉はリュックに小さなフィギュアをそっと収め、静かに車のドアを閉めた。
フウは昨日と同じ、精霊使いの姫の姿をしている。観葉植物から枝分けされた器――フィギュアに宿る彼女は、いまはただの人形のように眠っている。しかし、その小さな身体の奥に、古代種の植物精霊の気配が脈打っていた。
隣町の山道を抜け、開発予定地へ向かう。舗装の途切れた細道には、すでに重機の爪跡が残っていた。赤茶けた地肌が剥き出しになった斜面からは乾いた土の匂いが立ちのぼり、鉄と油の匂いが混ざって鼻を刺す。
高台で足を止め、渉はリュックにそっと声をかけた。
「……フウ、起きてるか?」
リュックの内側でフィギュアがかすかに揺れる。
「んん……もう現場? うぇ空気、悪る〜……草も土も、息してないみたい」
「だろうね。何度も削られてる跡がある。昨日、水の精霊が見せてくれたのもこの辺りだった気がする」
「うん……感じる。人と自然がぶつかってる。どっちが正しいとかじゃないけど、植物には苦しいね」
フウが器であるフィギュアの肩を回す。小さな関節がこつりと鳴るたび、彼女の精霊としての息づかいが聞こえてきそうだった。
「もうしばらく隠れてて。少し奥まで行ってみる」
谷間へと下りていくと広がっていたのは、異質な光景だった。
幾つものプラカードが、無言の抗議を掲げて並んでいる。白地に黒い文字が、風に揺れてひらり、ひらりと波打つ。
『山を壊すな』
『森を守れ』
『これ以上、命を奪うな』
人々にとって、木々が自ら叫ぶことはできない。だから代わりに声をあげている――そんな風に見えた。だが、渉の胸には説明のつかない妙な気持ちが燻っていた。それは、人々の叫びが、果たしてクスノキの声の代弁なのだろうか、ということだ。
輪の中心には、年配の男性、若い母親、学生風の若者たち。疲れをにじませながらも、目には確かな意志の光が宿っていた。
「生き物たちの居場所を返せ!」
「この森は、まだ生きている!」
「木は人間と違って叫べない。だから俺たちが叫ぶんだ!」
声が重なるたび、リュックの中でフウが小さく身じろぎする。
『……あの人たちの声、届いてる……きっと』
そのささやきは風に溶け、渉の胸にやわらかく沁みこんだ。
――命の居場所が揺らいでいる。
しかしその願いを嘲笑うかのように、谷の奥では重機の唸りが絶えない。
鋼のアームが根を砕き、斜面を抉り、枝が折れる乾いた音が響き渡る。
神社の静けさとは正反対の、無遠慮な喧噪。
人と人。自然と人間。争いはすでに始まっていた。
渉は抗議の列の後ろから、その光景をただ見つめた。
――なぜクスノキは沈黙したのか。
――なぜ周囲の木々も声をひそめてしまったのか。
人間の叫びが、クスノキたち木々の代弁者だから、なにも語らないのか?
それにしては静かすぎる。
山が、木々が削られているのに――まるで、痛みを必死に隠しているかのように。
声をあげないこと自体が、強い意志を示しているような沈黙。
渉にはそれが、ただの沈黙以上に、奇妙で、重苦しく思えた。
調査では開発の影響は最小限と判断され、クスノキの枯死の直接的な理由にはならない。
だとすれば、原因は他にあるのか――心の奥で、ある揺れが生まれていたその時、ひときわ大きな声が渉の耳を打った。
「……おい、何やってんだ。そこはまだ手を入れちゃいけねぇ場所だろう!」
人垣の向こうから現れたのは、がっしりした体格の男だった。
日焼けした肌に刻まれた皺、額には汗。使い古した作業着に、刃こぼれの斧を背負っている。
渉は思わず足を止めた。
男は群衆を押し分けて進み、切り株の前に立つと、静かにその表面へ手を置いた。
「……やっぱり、冷てぇな」
そうつぶやく声は抗議の叫びよりも低く、しかし確かに響いた。
やがて彼が振り返り、渉と目が合う。
「お前さん、見に来た口か?」
唐突に声をかけられ、渉はうなずいた。
男はふっと視線を落とし、切り株を見つめたまま口を開く。
「昔はな、朝になりゃ鳥の声で目が覚めた。獣道には鹿やイノシシの足跡がついてて、川じゃ魚が跳ねる音がした。夜になれば虫の声がやかましいくらい響いてきたもんだ」
渉は耳を澄ます。今の山には、そのどれもがない。
ただ風の音だけが通り抜ける。
「けど今は、どれも聞こえねぇ。鳥も獣も虫もいなくなっちまった。……山が黙っちまったんだ」
その声には、怒りよりも寂しさが滲んでいた。
「生き物の気配が消えた山は、もう山じゃねぇ。ただの土の塊だ」
渉は目を伏せる。
確かに、木々は何も語ってくれない。
その沈黙はただの静けさではなく、死に近づく兆しのように思える。
彼の言う「山の沈黙」と、自分が感じている「木々の沈黙」。
二つの感覚が、見えないところでひとつにつながる気がした。
しゃがんだまま土に指を差し入れ、しばらく黙っていた。
その横顔は、どこか木の幹のようだった。
風雨にさらされ、年月を刻み込んだ、静かでしなやかな顔つき。
「俺は、梶原ってもんだ。林業やってる。簡単に言えば、木こりだ」
地面の奥から響くような、低く深い声で、彼が名乗った。
渉はペンを持つ手を止め、小さく頭を下げながら名刺を差し出す。
「僕は集音路と言います」
リュックに潜り込んでいたフウが顔をのぞかせ、じっと梶原を見つめている。
声は出さず、ただ好奇心に満ちた目で観察していた。
「集音路……珍しい名前だな。へぇ、ボタニカルドクター。若いのに医者なんだな」
梶原はそう言って、ふっと短く笑った。
その笑いはほんの一瞬で、すぐにまた切り株を見下ろす厳しい顔へと戻る。
「俺はここで生まれて、ここで育った。親父も爺さんも木こりだった。小さい頃から山で遊んで、山に叱られて育ったようなもんさ」
彼の言葉には誇りも、悔しさも、優しさも入り混じっていた。
太陽の光が差し込み始めた林の奥で、重機の音が唸っていた。
「昔はな、山も町も、ゆっくり変わっていった。でも今は、全部が急ぎ足だ。山の形も、町の姿も、人間の心まで――掘って削って、作り直してばっかだ」
梶原はポケットから、ひとふるの乾いた木の実を取り出し、親指と人差し指で転がすようにして、静かに言葉を続ける。
「町のお役人がここに新しいリゾート地を造るって決めたときも、反対した奴は多かった。でも、あの町も限界なんだ。若いもんが出てって、じいさんばあさんばっかり残って――商店街も、学校も、どんどん閉まっちまった」
渉は静かに頷いた。
音だけを追っていた耳が、梶原の語る“町の音”を拾おうとしていた。
「けどな――」
梶原は、木の実を地面にそっと置いた。
「他にやり方はあったはずだ。山を殺して、町を生き長らえさせる……そんなやり方じゃ、どっちも先は長くねぇ」
手のひらを土に押し当て、湿った匂いと感触を、まるで山そのものの鼓動を確かめるように梶原が撫でた。その様子をしばらく眺めて、渉は目を伏せた。確かにいま木々は何も語ってくれない。だから余計にこの沈黙に意味があるのだと感じる。
朝の林を流れる風に耳を澄ませる。音はない。声もない。それでも、かすかに土の奥で、生命の名残がうごめく気配を感じる気がした。それは、音とは呼べないほどの、かすかな兆しなのかもしれない。
「この山はまだ、生きようとしてる。でも、もう時間はねぇ。木を切り倒して、根を潰して、土をさらせば――山は崩れる。この先、大雨が来りゃ、ここら一帯、根こそぎ土砂に飲まれる」
渉がハッと顔を上げた。それは比喩ではない。現実問題として、山を削るという行為にはリスクは伴う。
梶原は立ち上がり、陽の光が差す木立を見渡した。葉の揺れも、木々のざわめきもない静寂の中、彼の言葉だけが残っていく。
「山の命を守りゃ、町も救える方法があるはずだ。けど――誰も、ちゃんと耳を澄まさねぇ。人間の都合だけで、この場所が消えちまうのは、悔しいんだよ」
その横顔は、切り株のように静かで、揺るぎなかった。
渉は言葉が出なかった。
リュックの中で、フウが小さく身を乗り出すように揺れている。
まるで何かを感じ取っているように、植物の葉を震わせるように。
音も、声も、風の中に消えていく。
けれど、その静けさの奥に、確かに誰かの想いがあった。
彼の言葉が、胸にしみ込んでいった。
*
現場事務所へ向かいながら、渉は何度も反対派の活動を振り返ってしまっていた。その中には、先ほど会話した梶原もいる。交わした言葉、切り株、そして彼の横顔が、まだ胸の奥に焼きついていた。
「……ほんとに、全部が沈黙してるんだな。何も聞こえないのが、逆に騒がしいっていうか……」
背中のリュックの中から、ゴソゴソと動き回るのを感じ、小さな声がぼそりと漏れた。
ファスナーを少し開けると、フィギュア姿のフウが顔をのぞかせた。
銀髪の前髪が少し乱れて、片目が覗いている。
「もう、暑いし狭いし揺れるし……ちょっと前に出てもいい?」
「こっちにおいで」
ジャケットの前を軽く開けると、フウはちょこんと飛び出し、胸元の内ポケットにするりと収まった。
ドレスの裾が揺れて、銀髪が陽できらりと光る。
「でもねえ、渉。沈黙にもいろいろあるのよ。怒ってる沈黙、諦めてる沈黙、ただ様子をうかがってる沈黙。あたしから見たら、この森の静け《・》さは、ちょっと不自然だけど」
「不自然、か。……やっぱり何かあるってことだよな」
山を仰ぎ見た。
木立の間を斜めに射す陽光は谷間を照らしているのに、山の高みにそびえる御神木のあたりだけは、深い影に包まれていた。
「それで? 次は、開発を進めてる側へ会いに行くんでしょ」
「ああ、町役場経由で再調査の依頼と面会の約束を取ってある。開発業者の担当者と現場責任者に会う予定だ。それと、このリゾート開発には、多くの企業や自治体職員も絡んでいる町の命運をかけた一大プロジェクトだって聞いた」
「リゾートねえ……人間は本当に癒しが好きね。自分で自然を削っておいて、残ったわずかな自然で癒やされようとするんだから」
チクリとした皮肉に思わず苦笑した。
けれど、フウの言葉は間違っていない。
「でも、梶原さんも言ってた。山を殺して町を延命させるやり方じゃ、どっちも続かないって。きっと、開発する側にも、別の理屈や事情があるはずだ。だからまずは話を聞いて、再調査の承諾を得ないと」
足元の砂利を踏みしめ、林道を下っていった。
ジャケットの内側で、フウが静かに頷いた気がした。
*
簡素なプレハブの窓からは、削られた山肌と資材置き場が見えた。外の重機の音が遠くに響き、室内の静けさをより際立たせている。外は騒がしいのに、壁に囲まれると不思議なほど静かで、かえって耳の奥に圧がかかるようだった。
渉は机に資料を広げたまま黙っていた。ジャケットの内側で身じろぎしたフウが、ひょいと顔を出して囁く。
「……音がこもるね。プレハブって外より静かに感じる」
彼女は渉の膝に身を移し、ひっそりと視線を窓へ向けた。外の鉄骨の影に目をとめているようで、その仕草が妙に小動物めいて見えた。
そのとき、ノックの音とともに扉が開いた。先に姿を現したのは木村篤史だった。神社で初めて出会ったときは背広姿だったが、今日は作業着にヘルメットを抱えている。その後ろから榊理乃も部屋へ入ってきて、軽く会釈した。肩までの髪をきちんとまとめ、色彩を抑えたスーツ姿は堅実な印象を与える。目元に落ち着いた理知の光があり、第一印象は冷静で誠実そうに見えた。
「あ、集音路さん、先日はどうも。改めて、現場責任者の木村です。そして、こちらは開発業者の担当の榊さん。さっそくですが、御神木の件で何か進展はありましたか?」
まさか二人が面会の相手だとは思わなかった渉は、心臓が跳ねるのを感じた。息を整えようとしたが、驚きの表情を隠しきれない。
「ええ……」
慎重に言葉を選び、机上の資料を指で押さえた。
「事前に提出いただいた調査データも拝見しました。確かに、土壌成分や水質、周辺の環境には大きな異常は見られないようです」
「でしょう?」木村がすぐに口を挟む。「外部の調査会社にも依頼しましたが、結論は同じです。老齢による自然な衰退。私たちの工事とは無関係です」
理乃もうなずいた。「だからこそ、私たちも混乱しているんです。地元としては御神木が弱っているのは痛ましいことです。でもだからと言って、私たちが責められる覚えはありません」
「それでさらなる追加の調査を、とのご提案についてですが……」
渉の正面に座った木村が榊に目配せをして、話を促した。
「正直、私たちとしても御神木のことは気になっています。それに集音路さんの熱意も理解しているつもりです。そこで改めて検討しようと話し合いました」
理知的な彼女の言葉に、渉は思わず息をのんだ。希望が胸に差し込み、受け入れてもらえるかもしれない――そう思ったのも束の間、木村が小さく首を振った。その仕草は、曖昧な未来を一気に閉ざす合図のように感じられた。
「集音路さん、現実的にはとても厳しいですね。追加調査となれば人員も時間も必要です。それに費用だって跳ね上がる。今の計画を止めてまでやる必要を感じません。町の人々は工事の進展を心待ちにしているんです。雇用も収入も、すべてここにかかっている」
「ですが――」渉は思わず声を上げた。胸の奥が熱くなり、喉が強張る。
「最初の調査で見逃している可能性はありませんか? 開発現場の上部の木々は明らかに異常を示しています。御神木は枯れ続けています。それを無視して開発を進めれば、取り返しのつかないことになるかもしれません」
榊の瞳に一瞬の迷いが走るのを渉は見逃さなかった。だが木村は冷静な口調で返した。
「お気持ちはわかります。ただ調査会社が問題なしと結論を出してます。その結論を覆すような証拠でもない限り、工事を止めるわけにはいきません」
「証拠ですか……」
渉は唇を噛んだ。水の精霊の存在を明かすことはできない。信じてもらえるはずがないからだ。それでも引き下がれない思いが、言葉を突き動かした。
「……先ほど会った梶原さん、林業に携わっている方がおっしゃってました。山に異変が起きていると。彼は子どもの頃から、あの木――御神木のことを知っています。木村さんや榊さんも気づいていらっしゃるはずです。どうして見てみぬ振りをするんですか?」
木村の顔がぴくりと動いた。榊も目を見交わす。長い沈黙ののち、木村が小さく首を振った。
「梶原……ですか。実は彼とは子供の頃からの知り合いでしてね。この榊もです。それで、彼はまた土がおかしいとか、動物がいないのは山が死んでるとか、言ったのでしょう? 我々は科学的な説明を求める立場です。彼のようにオカルト――いえ、非科学的な話を信じろとでもおっしゃるのですか? 集音路さん、あなたも科学者ですよね? 公式な調査で異常なしと出ているんです。これ以上、私たちに何をしろというのですか? 町の未来を背負っているんです。進めるしかないんですよ」
榊もまた、硬い表情でうなずいた。だがその仕草には、言葉を飲み込むような影が残っていた。
渉は拳を握りしめた。説得は届かないのか――そう思った矢先、膝の上でフウが小さく囁いた。
「水が逃げてるって言えばいいのに」
膝の上から響いた囁きに、渉は慌てて咳払いし、声をかき消した。理乃が不思議そうに視線を寄越したが、資料のページを指してごまかす。胸の内では、フウの言葉をどう科学的に言い換えるか、必死に組み立てていた。
「私は地質学の専門ではありませんが、こういう例を読んだことがあります。小規模な地下水の流路変化が、一部の樹木だけに影響を及ぼすケースです。今回のクスノキのように、外見は老木の自然死に見えても、原因は別にあるかもしれません」
榊が小さな声で「地下水……。それなら、今の測定網では拾えない可能性もありますね」と呟いた。理性的な仮説にうなずきながらも、瞳の奥にほんのわずかな安堵の色を宿す。
木村は腕を組み直し、難しい顔をした。渉の意見が、二人の表情に思案の影を落としたのは確実だった。
「まずは簡易的な調査から始めてはどうでしょう。既存の井戸を調べれば、時間も費用も大きな負担にはならないと考えます」
榊が頷く。渉の胸に、かすかな希望が灯った。
フウが小さく笑い、《ね、やっと耳を貸してくれた》と囁く。いたずらっぽくも、どこか誇らしげな声音だった。もちろん彼女の声は渉にしか聞こえない。
木村は渉を見つめ直し、低く結論を告げた。
「わかりました。そこまでおっしゃるなら、既存の井戸を調べることには同意しましょう。ただし――科学的に証明できる話でお願いします。憶測や噂では、住民を説得できません」
その一言に、渉は力強くうなずいた。水の精霊はクスノキの枯死は開発が原因だと言っていた。なら井戸を調べれば、きっと何か掴めるはずだ。
*
再調査となった霧楠谷には、幸いにも定期的に観測をしていた井戸が複数存在した。それらの井戸の地下水汚染や地下水レベルを比べた結果……。
「そんな……問題なし、だなんて。どうして……」
渉の想定していた答えと全く異なっていた。まるで足もとから地面を引き抜かれたように、完全に振りだしへと戻ってしまった。
紙面に並ぶ数値はどれも安定しており、異常を示すものは一つもなかった。水脈は枯れていない、環境に有害な成分も検出されていない――つまり科学の目には、御神木を蝕む理由などどこにも存在しないのだ。
渉は机に突いた拳を震わせ、冷や汗が背筋を伝うのを感じた。なら、あの水の精霊の訴えはなんだったんだ? もしかして嘘だった? それとも――科学が拾い上げられない何かが、確かにそこにあるのか。
答えの出ない思考が胸の中で渦を巻き、息が浅くなっていく。静かなプレハブの空気が重く沈み込み、渉を押し潰そうとしていた。
窓の外では重機の音が再び響き始める。鉄の轟きが御神木の沈黙を覆い隠すように、谷全体にこだましていた。




