第二話 桜まつり
日が暮れるころ、渉は石井が運転する車で、町外れにある一軒家へと向かった。
緩やかな坂をのぼり、雑木林に囲まれた小道を抜けた先。風格ある木造の家が、静かに佇んでいた。
それは、明治期の建築を思わせる古民家だった。
深い軒を持ち、黒く燻された梁と漆喰壁が、長い時間を経てきたことを物語っている。
けれど、ところどころに現代的なガラス扉やウッドデッキがあり、どこか洗練された印象も漂っていた。
「ここです。狭い家ですが、泊まるには十分かと。家内と娘も、集音路さんがいらっしゃるのを楽しみにしていましたよ」
石井は、手慣れた様子で引き戸を開けた。中に入ると、ふわりと木の香りが鼻をくすぐる。室内は丁寧に手入れされていて、無垢材の床や珪藻土の壁が優しく目に映る。
柱や梁には昔の名残が色濃く残されていて、節の多い木目や少し歪んだ木組みが、どこか人間的なぬくもりを感じさせた。
「……素敵な家ですね。まるでギャラリーみたいです」
「ありがとうございます。十年ほど前に購入して、少しずつ、自分で手を入れてここまできました」
「えっ、ご自分で……? 改築まで?」
「まぁ、趣味みたいなもんです。仕事終わりや休日にコツコツと。電気はさすがに業者に頼みましたが、壁塗ったり、床貼り替えたりは全部自分でやりました。やってみると案外、楽しいもんですよ」
石井は照れたように笑って、玄関脇の手作りのベンチを軽く叩いた。
そこへ、渉の気配を聞きつけてか、奥から女性が顔をのぞかせた。優しげな目元が印象的な、少し和風の雰囲気を持った女性だ。
「はじめまして。石井の妻の裕子です。長旅お疲れさまでしたね」
「こちらこそ、お世話になります……」
ぺこりと頭を下げた渉に、裕子はにこやかに会釈を返す。続いて、奥の廊下から、小柄な女の子がひょこっと顔を出した。中学生くらいだろうか。長い髪をひとつにまとめ、少し緊張したような面持ちで渉を見上げた。
「こちら、娘の香代です」
「……こんにちは」
香代は、小さく会釈したあと、すぐに部屋の奥へと戻っていった。
「すみません、人見知りでね。でも根は優しい子ですから」
石井はそう言って笑いながら、渉を客間へ案内した。
「この部屋、自由に使ってください。あんまり気を使わず、気楽にどうぞ」
案内された部屋は八畳ほどの和室。天井の梁や飾り棚に木の美しさが活かされ、柔らかな間接照明が空間をあたたかく包んでいた。
畳の香り、磨かれた木床の感触、窓の外からは竹林を渡る風の音。まるで時間の流れがゆるやかになるような、そんな静けさがあった。
荷物を下ろし、軽く背伸びをした。張り詰めていた肩が、ふっとゆるむのを感じる。
夕暮れが深まると石井が居間へ案内してくれた。
囲炉裏のある小さな部屋には、家族の温もりが満ちていた。昔ながらの火鉢が炭を赤く灯し、じんわりと部屋を暖めている。
渉の前に並べられた膳には、地元で採れた山菜の天ぷらや炭火で焼いた川魚、そして炊きたての釜飯が湯気を立てていた。香ばしい味噌汁の香りが、静かな夜の空気にゆっくりと溶け込む。
「お待たせしました。どうぞ、遠慮なく召し上がってくださいね」
「ありがとうございます。いただきます」
裕子さんがにこやかに微笑みながら、温かい料理を手渡す。石井も穏やかな表情で、ゆったりとした手つきで自分の茶碗に箸をのばした。
渉は箸を取ると、まずは山菜の天ぷらに手を伸ばした。
衣は薄くカリッと揚がり、山菜のほろ苦さが口の中にふわりと広がる。春の息吹をそのまま閉じ込めたような味わいに、自然と顔がほころんだ。
次に、炭火でじっくり焼かれた川魚を一口。皮は香ばしくパリッとして、身はほろほろと柔らかい。淡い塩気が川の清らかな水を思わせ、どこか懐かしい味がした。
釜飯は湯気とともに立ち上る炊きたての香りが食欲をそそる。
口に運ぶと、ふっくらとした米粒にしっかりとした旨味が染み込み、ほのかな甘みと山の恵みが感じられた。
味噌汁の湯気をそっと吸い込むと、優しい出汁の香りが鼻腔をくすぐる。心地よい温かさが体の芯までじんわりと染み渡り、疲れがふっと和らいでいくようだった。
渉は、静かなこのひとときに、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分の一人暮らしの小さな部屋では決して味わえない、家族の存在が織りなす柔らかな空気。笑い声や会話の断片が部屋の隅々まで行き渡り、そこにいるだけで心が満たされるような感覚。
どこか遠い記憶の中で、こんな日常に憧れを抱いていた自分を思い出す。
石井がゆっくりと箸を運びながら、時折渉の顔を見ては柔らかく微笑んだ。裕子さんも隣で穏やかに食事を続け、家族の温かな空気が部屋中に満ちていた。
やがて香代がそっと部屋に入ってきた。中学生らしい小さな背中にワンピースのリボンが揺れている。
「ねぇ、お父さん。ご飯食べたら友達と桜まつりに行ってもいい?」
少し照れくさそうに話しかける。
石井が優しく頷きながら、「それは構わないが、あまり遅くならないようにしなさい」と声をかける。
裕子さんは微笑みつつ、「お友達って、この前うちへ遊びにきた子?」と聞くと、香代が頭をこくんと縦に振った。
渉も思わず笑みを浮かべ、家族の自然なやりとりに心が温かくなる。
窓の外から、祭囃子がかすかに響いてくる。
桜野町では毎年、桜の開花に合わせて桜まつりが開かれる。
近年、SNSやメディアで取り上げられたこともあって観光客は急増し、町はかつてないほど活気に満ちている。
それは嬉しいことだが、同時に問題も増えていた。
「観光客が増えるのはありがたいけど、正直ちょっと手に負えなくなってきてね……」
困った顔をした石井が小声で続けた。
「ごみのポイ捨てや大声での騒ぎ、地元の人間には迷惑なことも多い。役所にも苦情が絶えなくってね……」
裕子さんも首をかしげながら、「マナーの悪い人がいると、地域の雰囲気も悪くなっちゃいますからね」と寂しげに言った。
「香代、人が多いだろうから気をつけるんだぞ。あと、変に目立ったり騒いだりしないようにな」
石井が少し厳しい口調で言うと、香代はうなずきながらも、わずかに眉をひそめた。
渉は、家族の温かさと同時に、この町が抱える複雑な事情も感じ取った。
それでも、どこかでこの土地に根を張って暮らしていく人々の誇りと覚悟が伝わってくる。
しばらくして香代は席を立ち、「それじゃ、行ってくるね」と言い残し軽やかな足取りで玄関へと向かい、すぐに出かけて行った。
石井が箸を置き、渉に向かってぽつりと話し始める。
「うちの香代は、最近学校が楽しいみたいでね。友達もできて、少しずつ自分の世界を広げてる。昔は人見知りで、学校も心配だったんですけどね」
父親らしい優しい眼差しを受け止めながら、微かに頷いた。
夕食を終え客間に戻って一息ついていると、控えめなノックの音とともに石井が顔を覗かせた。
表情にはいつも以上に気遣いがにじんでいる。
「すみません、集音路さん……ちょっとお時間いいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
言葉を選びながら石井が続けた。
「さっき妻から聞いたんです。香代が一緒に祭りへ行ったのは……同じクラスの男子生徒みたいで……正直、父親としては心配というか……気になりまして……」
彼の声は優しくも、揺るがぬ決意が感じられた。
「よろしければ、一緒に祭りへ行っていただけませんか? 私一人じゃあれですし、別に何かあるとは思っていないんです……万が一にも娘に見つかると後でなに言われるか、わかりませんし」
渉は気持ちを察して、笑みを浮かべた。
「もちろんです。僕にとっても桜まつりは、いい経験になると思いますし、ぜひお願いします」
ほっとしたように微笑み、二人でそっと客間を後にした。
遠くから聞こえる祭囃子が夜風に乗って響き、春の桜野町の夜は深まっていく。
*
桜まつりは、千年桜を中心に賑わいを見せていた。提灯は、まだ花をつけていない枝先をぼんやりと照らしている。対照的にライトアップされた桜並木は、幻想的な光のトンネルを作り出していた。
広場には屋台の明かりが灯り、甘い香りや焼きたての香ばしい匂いが混ざり合い、祭りの熱気が肌に伝わってくる。
だが、そこに集まった花見客の数は驚くほど多く、東京の名所にも引けを取らないどころか、それ以上に見えるほどだった。
外国からの観光客も多く、カメラやスマートフォンを手にした人々が、千年桜の姿を一目見ようと群がっている。
石井と渉は、祭りの喧騒の中で香代の姿を探しながら歩いていた。
「香代はどこにいるんだろう……」
彼の声には、父親の切実な心配が滲んでいた。
渉がふと足を止め、ライトアップされた千年桜を見上げる。
まだ蕾は固く閉ざされたまま、まるで眠っているかのように静かだった。
その木の周囲は柵で囲まれているが、人々の一部が柵の内側に入り込んでいるのが目に入った。
石井が慌ててその場へ駆け寄り、観光客に注意を促し始める。
「危ないですよ! 柵の中は立ち入り禁止です。はやく外へ出てください!」
声を張り上げながら、懸命に柵の中の人々を外へと誘導していく。
その間、渉の胸に桜の感情が響いた。
今度は、強い痛みと苦しみが直接心を締め付ける。
まるで千年桜自身が身体を引き裂かれるような感覚だ。
その波に抗えず、動悸が激しくなり、視界が揺らいだ。
倒れそうになるのを必死で堪え、近くの芝生へと足を運び、腰を下ろせるベンチを見つけて座り込む。
その時、どこからか鋭い叫び声が聞こえてきた。
「やめろ! 桜に触るでない! 祟りがおきるぞ!」
渉が顔を上げると、祭りの灯りの中、老婆が必死の形相で何かを訴えている姿だった。
「精霊の怒りが……!」
老婆が叫び声をあげる度、近くの観光客たちは戸惑いながらも興味本位に集まっていく。
大勢がスマホを老婆にかざしている。その様子を見たて、さらに人が集まっていった。
「封印が……!」
渉も近くへ行こうとするが、桜からの痛みが全身を貫き、思うように動けない。
老婆はさらに大声を出し、ますます孤立していく。
なんとかして人混みを掻き分け、老婆の前に立つと、目を大きく見開いたまま渉の顔を見上げた。
「集音路さん!」
突然、名前を呼ぶ声がし、振り向くと香代と男の子が駆け寄ってくるのが見えた。二人が老婆と渉のそばへ割って入った。観光客の間に優しく壁を作るようにして守る。
「おばあちゃん、落ち着いて! 私たちがついてるからね。白川君、集音路さんをお願い」
香代が老婆の手を握り、白川と呼ばれた男の子が渉の肩に手をかけた。
「集音路さん、あっちのほうへ行きましょう」
その声に励まされ、少しずつ呼吸を整え、やっと立ち上がる。
なんとかして四人は観光客の人だかりから抜け出し、芝生のある場所へと向かった。
しばらくすると石井さんが息を切らせながら駆け寄ってきた。
「香代!」
香代は顔を上げず、老婆をベンチに座らせていた。渉もゆっくりと腰を下ろし、呼吸を整える。それに気付いた石井さんが「集音路さん、大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ」と気遣ってくれた。
深く息をつきながら、心配そうに顔を覗き込む。手で渉の肩を軽く支え、真剣な眼差しで見つめた。
渉はかすかに笑みを返しながらも、まだ胸の鼓動が乱れているのを自覚していた。
「少し休んだほうがいい」
背中をさすりながら、穏やかな声で促した。
そんな様子を見ていた老婆が、その場で震えながら肩をすくめているのに気づく。石井の視線がゆっくりと老婆へと移った。
「ああ、片桐さん……またあなたですか」
呆れたように言いながらも、どこか諦めの色も含んだ声だった。
老婆は渉の側にいた香代の優しい声に支えられ、震えながらも少し落ち着いたように見えた。
「おばあちゃんは悪くないよ、桜を守っているだけなんだから」
香代は片桐の手をしっかりと握り、守るようにそばに立っている。
石井の視線はその隣に立つ男の子、香代が白川と呼んだ子へと向いた。凛とした表情で片桐を見つめている。
「君は白川……葉君か……」
その言葉に、葉はわずかに頷いた。
誰も言葉を発しないまま時間が過ぎていく。
時はすでに夜の帳に沈み、春の宵らしいやわらかな風が頬を撫でていた。石井は車を取りに行き、四人を順番に乗せていった。
片桐は後部座席に、香代と渉がその隣に並び、葉は助手席で静かに座っていた。
車内には言葉がなく、窓の外に流れる桜の提灯の灯りだけが、春の終わりを惜しむように揺れていた。
やがて、車は白川神社の石段の前で静かに停まった。
夜の鳥居が、月明かりを受けて浮かび上がる。石段の上は闇に沈み、参道までは見えない。ただ、遠くからわずかに、木々を渡る風の音が届いてくるだけだった。
「ここで降ります」
葉は無駄のない動きでシートベルトを外し、静かに車を降りた。
「葉君、お父さんによろしくな」
運転席から石井さんが声をかけた。
葉は少し振り返り、言葉こそなかったが、ふっと目を細めて小さく会釈をした。
神社の木々の影へ消えるようにして、葉の姿は見えなくなった。
次に車は、山のふもとの古い民家の前で止まる。鬱蒼とした垣根の向こう、瓦屋根の一角に灯りがついている。片桐の家だ。
「……あの、さっき言ってた“祟り”って? “精霊”とか、“封印”って……どういう意味なんですか?」
車のドアを開けかけていた片桐に、渉が問いかけた。声は静かだったが、その奥にある揺れを片桐は察したのかもしれない。
老婆は一瞬だけ振り向いた。
しかし、その目は渉にではなく、遠く、どこか見えない何かを見ているようだった。
そして何も言わず、ふっと顔を背けると、車を降り、そのままゆっくりと家の中へと消えていった。
渉はその背中を見つめながら、小さく息を吐いた。
車が再び動き出し、道を戻っていく。しばらく誰も口を開かなかったが、やがて石井が低く語り出す。
「片桐さんは、昔から“変わり者”って言われてるんです。……でも、あの家は代々、神社に仕えてた家系なんです。巫女の家ってやつです。何代も前から、ここの土地の神様を祀ってきた」
運転する横顔は真剣で、どこか遠い記憶をなぞっているようだった。
「今はああして一人暮らしですけど……あの人は、たぶん、ずっと“桜”を見てきた。私たちより、ずっと長く、ずっと近くで」
渉は、胸の奥にまだ残る桜の痛みを思い出す。
その隣で、香代は黙ったまま、何も言わずに外を眺めていた。