第二話 揺れる影
残暑が色濃く残る研究室。
御神木の調査から戻った渉は、柳教授に報告するため大学へと戻ってきた。
木造の重厚な扉を開けると、室内に立ちこめた植物の香りが、渉の心を少し落ち着かせる。古い書棚と温室のような緑に囲まれた空間は、ここだけ時間がゆったりと流れているように感じられる。
「なるほど……御神木が完全に沈黙していた、というのですね」
柳教授は静かに問い返した。銀縁の眼鏡越しに注がれる視線は、優しくも鋭い光を湛えている。
「はい。御神木だけではありません。あの山全体が“止まっている”ようでした。声が一切聞こえないなんて、こんな経験は初めてです。ですが、土壌や根を調べても異常はなく、病気や害虫の痕跡も見つかりませんでした」
渉は深く息を吐き、手元のノートを強く握りしめた。自分の力が無力化された事実に、悔しさがにじむ。
「だからこそ、調査は続けるべきだと思います。データに現れない“何か”が働いている可能性がある。ここで諦めるわけにはいきません」
教授は小さく頷き、手元の万年筆を転がす。やがて、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「――科学者らしい、良い視点です。声なき沈黙にこそ、真の異常が隠れている。調査を進める価値は十分にあるでしょう」
その言葉が、渉の胸の奥で火を灯した。
「ただ……もうひとつ気になることがありました。境内に入ったとき、何かの“気配”を感じたんです。禍々しい感じではなく、むしろ清らかで……人の気配とは明らかに違う、別の何かです。ただそれが精霊だと断言はできませんが……」
その言葉に、教授の目がほんのわずかに細められ、書棚の一角へとちらりと視線を向けた。
「颯汰がいてくれたら、もう少しはっきり分かったかもしれません」
渉がぽつりとこぼすと、教授の表情が柔らかくほどけた。わずかに笑みを浮かべ、静かに口を開く。
「確かに……精霊の血を引く桃くんなら、何かしら感じ取れたかもしれませんね。ただ、残念ながら単位不足で今回は外部調査に出せません。本人も悔しがっていましたよ」
教授は椅子の背にもたれ、目を細める。
「帰り際、私にこう言っていました――『先輩のこと、よろしくお願いします』と」
その口調は穏やかで、どこか誇らしげでもあった。教授に託された颯汰の思いが、渉の胸に静かに染み込んでいく。
「……あいつらしいですね」
「そうですね。……それにしても、その清らかな気配とは、気になりますね。どうしたものか……」
二人が顔を見合わせ、小さく溜息をついた時だった。
「だったら、あたしが一緒に行く!」
明るく響いた声に、渉は反射的に身を起こした。窓辺の観葉植物のひとつが揺れ、小さな葉の奥から、にこっと笑う気配が滲み出る。
「……フウ?」
「やっと呼んでくれたねー、渉。話、ぜーんぶ聞いてたから!」
渉は慌てて柳教授を見る。だが教授は微笑を浮かべたまま、まるで何も驚いた様子がない。
「……教授、フウの声、聞こえて……ますよね?」
「ええ。ときおり彼女は、私にも言葉をくれます。ここに来てからずっと、ね」
フウは葉をぱたぱたと揺らして、ふんっと得意げな仕草をしてみせた。
「渉ひとりじゃ、またぐるぐる悩んで止まっちゃいそうでしょ? だから、あたしがついていくの。クスノキも心配だし、渉も放っておけないし!」
「気持ちは嬉しいけど、どうやって行くつもりだい? 鉢ごとってわけには——」
そこまで言いかけたとき、フウの葉の一枚が、ふわりと宙に舞った。
それは軽やかに空を滑り、デスクの上に飾られていたフィギュアへと引き寄せられるように吸い込まれていく。
パチン、と何かが弾けるような感覚。
次の瞬間——銀髪の精霊使いの姫フィギュアが、かすかに揺れた。
「……まさか……颯汰のセレス姫!?」
渉が慌てて駆け寄ると、フィギュアはくるりと回って杖を掲げ、ひらりとドレスを翻す。そして、キラリとウィンク。
「どーもっ☆あたし、セレス姫ver.フウでーす! 動けるようになっちゃった〜っ♪ この衣装、まじでキラッキラだよね! ねぇ渉、似合ってる? どうどう?」
「ちょ、ちょっと待て! 今のは一体……それに、なんでよりによって、颯汰のフィギュア——」
「え〜? 一番可愛かったし〜。羽衣ふわふわ、杖キラキラ、おまけにポーズが最高! あたし、こういうの大好きなのっ」
渉はその場に崩れ落ちそうになった。
このセレス姫は、人気ゲーム『アーク・クロニクル・アイリス』のキャラクター。寡黙で冷静な精霊使いの姫君として知られ、颯汰が机に飾るほど大切にしていた“イベント限定・幻の森カラーver.”だったはずなのに——。
「……颯汰、絶対卒倒する……」
「まぁまぁ、気にしない気にしない♪ こういうの、あたしにとっちゃ朝飯前なんだよ。だてに精霊界の古種やってないからね!」
ドレスの裾をひらりとさせて、得意満面にポーズを決める“中身フウのセレス姫”。
柳教授は何も言わずに紅茶を口に運びながら、満足そうに微笑んでいた。
「……集音路くん。紅茶も、意志ある茶葉を選ぶと味が違う。見た目に惑わされず、彼女の“意志”を信じなさい」
渉は無言で額を押さえた。
静かな研究室の空気が、一瞬にして賑やかになった気がした。
*
夜の帷が降りた霧楠神社の境内。
小さな池に、ひとしずくが落ちたように波紋が広がる。
水面の奥から、淡い光がゆらゆらと立ち上り、形を持ちはじめた――水の精霊。
長い髪は月明かりを受けて濃紺の深みに輝き、白い衣は水面の反射に揺らめいている。
顔立ちは美しい女性――だが、その表情には、この世の行く末を憂うような翳があった。
水面は鏡となり、精霊が2つの姿を映し出す。
ひとつは神社の小道。鳥居をくぐり、静かに歩みを進める青年――集音路渉。彼の周囲の空気は不思議と澄み切っている。膝をつき目を閉じ、御神木へ語りかける姿は、人間としてはあまりに真剣で、滑稽さよりも異質さを感じさせた。
精霊にはわかる。渉を取り巻く草木や風は、まるで旧知の友のように受け入れている。普通の人間にはありえぬことだ。その奥に、まだ見ぬ何かの匂いが潜んでいるのか。
もうひとつは、山の向こうの開発現場。足場の上に立つ女――榊理乃。自然を畏れぬ愚か者。しかし心の内は水のように揺らめいている。
精霊は水面を指先でなぞるように、彼らの姿をじっと見つめた。
「人間……脆く、危うく、そして面白い」
その声は水底の泡のように小さく消えていく。この先、誰がどう動くのか、見極めなければならない。けれど――もしその流れが、望まぬ方向に傾くなら、流れを変えるだけ。味方になるか、敵になるかなど、水のように変わりゆくものなのだから。
*
夜間作業の灯りが、榊理乃の背中を金色に縁取っていた。
測量機器のデータを確認し、図面の端を軽く指で叩く。
ここに新しい施設が建てば、この谷は変わる。――それが進歩だ。疑う余地もない。
ふと、足元の水たまりが揺れた。風はない。
視線を落とすと、その水面に、見知らぬ木立と、淡く光る水面が映っていた。
まるで枯れかけた巨木の輪郭――一瞬、冷たい水が胸奥まで流れ込んできたような感覚に襲われる。
「……きっと疲れてるだけ」
小さく呟き、瞬きをした瞬間、映像は消えていた。
それでも、心の奥に小さなさざ波が残る。
この計画は、本当に正しいのか――?
すぐに理乃は首を振り、その問いを押し込めた。迷う理由はない。
帰路につく足音の奥で、水音が小さく響いた気がした。
振り返ったが、そこには暗闇と機材の影しかない。
少し足早に歩き出す。けれど、耳の奥に残ったその音だけは、なぜか消えなかった。
翌朝八時、県庁第二会議室。
理乃は、手早く黒いスーツの袖口を整え、資料一式を机の上に並べた。
会議室の窓越しには、雲ひとつない青空――だが、その向こうの山並みは、昨日見た水面の幻影をふと思い出させる。
長机を囲むのは、県の都市開発課、地元自治体、建設会社、そして観光振興課の担当者たち。
議題は「霧楠地区観光複合施設建設計画」。
理乃は今回、建設会社の現場統括として進捗報告と工程調整を行う立場にあった。
「――測量は予定通り完了。地盤調査の一次結果も問題なし」
淡々と報告を終える。出席者は資料に気を取れているのか、報告が終わったことさえ気づいていないようだった。すぐに観光振興課の女性が続けた。
「本計画の中核である“霧楠神社参道エリア再整備”についてですが、神社側との交渉は……やはり難航しておりまして」
室内の空気が、わずかに重くなる。
地元保護派の反発は既に新聞にも取り上げられていた。特に御神木周辺の工事に関しては、文化財保護委員会が動く可能性すらある。
「必要があれば、境内の一部ルートを変更する案も検討できます」
理乃が口を開いた。声は落ち着いていたが、その胸奥には、昨夜の光景が淡く揺れていた――枯れかけの御神木の姿。
「ルート変更となると、観光客の動線に影響が出る」
都市開発課の課長が即座に反対する。
建設会社の役員も、それに同調するように低く唸った。
議論は数字と利便性の応酬になった。
理乃はメモを取りながらも、自分の指先がいつの間にか、机の上の水の輪染みに触れていることに気づく。
誰かが置いた冷水のコップから、薄い水滴が落ちて広がっていた。
波紋が――昨夜の水面と同じように揺れる。
その中心に、一瞬だけ、枯れかけた巨木の影が映ったように見えた。
視界を振り払うように、理乃は深く息を吸った。
「……現場判断として、地盤への影響は最小限に抑えるよう再測定します」
そう言うと、会議室の視線が一斉に自分へ向いた。
開発推進派にとって、それは“譲歩”の兆し。
保護派にとっては“対話”の可能性。
だが理乃自身には、まだ答えがなかった。
ただ――あの水面の揺らぎだけが、静かに胸の奥で広がっていた。




